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===モンゴル帝国===
[[w:13世紀|13世紀]]初頭に[[w:モンゴル高原|モンゴル高原]]で、[[w:チンギス・ハーン|チンギス・ハーン]]が、モンゴルの諸部族を統一し、[[w:ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]各地へと、征服運動を開始した。モンゴル人たちは、[[w:東ヨーロッパ|東ヨーロッパ]]、[[w:ロシア|ロシア]]、[[w:小アジア|小アジア]]、[[w:メソポタミア|メソポタミア]]、[[w:ペルシャ|ペルシャ]]、[[w:アフガニスタン|アフガニスタン]]、[[w:チベット|チベット]]に至る広大な領域を支配し、この帝国は[[w:モンゴル帝国|モンゴル帝国]]と呼ばれる。中国もまた征服活動の例外ではなかった。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満州系の女真族による[[w:金 (王朝)|金]]が、南部を[[w:南宋|南宋]]が支配していたが、金は[[w:1234年|1234年]]、南宋は[[w:1279年|1279年]]にモンゴルに滅ぼされた。
 
モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主([[w:ハーン|ハーン]])に[[w:クビライ|クビライ]]が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。[[w:1271年|1271年]]にクビライは[[w:元 (王朝)|元]]を[[w:国号|国号]]として中国支配をすすめた。
 
モンゴル帝国()は未だ征服していなかった南宋への牽制のためにも日本に対して通交を求めたが、日本側は断った。このため二度に渡り日本に侵攻したが、成功しなかった([[w:元寇|元寇]])。元は三度目の日本侵攻を計画したが、実現には至らなかった。
 
中国南部を支配していた南宋を[[1279年]]に元が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。
 
元の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。元は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は[[w:元曲|元曲]]と呼ばれ、中国文学史上最高のものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。
 
元は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。そして、庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは[[w:1351年|1351年]]に勃発した[[w:紅巾党]]の乱|紅巾の乱]]であった。紅巾党の中から頭角をあらわした[[w:朱元璋|朱元璋]]は、[[w:1368年|1368年]]に[[w:南京|南京]]で皇帝に即位して[[w:明|明]]を建国した。同年、朱元璋は元の都の[[w:大都|大都]]を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元のことを[[w:北元|北元]]といい、明と北元はしばしば争った。明側は[[w:1388年|1388年]]に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。
 
===明清帝国===