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===明清帝国===
[[w:洪武帝|洪武帝]]の死後、孫の[[w:建文帝|建文帝]]が即位したが、洪武帝の四男である[[w:永楽帝|朱棣]]が反乱([[w:靖難の変|靖難の変]])を起こし、朱棣が永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、[[w:鄭和|鄭和]]を南洋に派遣して、諸国に[[w:朝貢|朝貢]]を求めた。
 
永楽帝の死後、[[w:|明]][[w:海禁政策|海禁政策]]をとり、貿易を著しく制限することとなる。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、[[1449w:449年|449年]]には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件([[w:土木の変|土木の変]])まで起きた。同じ頃、中国南部沿岸には、[[w:倭寇|倭寇]]と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。
 
また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした[[w:李自成|李自成]]が[[w:1644年|1644年]]に明を滅ぼした。
 
[[w:17世紀|17世紀]]初頭には、現在の中国東北地方で[[w:ヌルハチ|ヌルハチ]]が女真族を統一した。その子の[[w:ホンタイジ|ホンタイジ]]は中国東北地方と[[w:内モンゴル|内モンゴル]]を征服し、[[w:1636年|1636年]]にはモンゴル人から元の[[w:玉璽|玉璽]]を譲られ、[[w:清|清]]を建国した。李自成が明を滅ぼすと清の軍隊は万里の長城を越えて、李自成の軍隊を打ち破り、中国全土を支配下に置いた。[[w:17世紀|17世紀]]後半から[[w:18世紀|18世紀]]にかけて、[[w:康熙帝|康熙帝]]・[[w:雍正帝|雍正帝]]・[[w:乾隆帝|乾隆帝]]という3人の賢い皇帝の下で、清の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、[[w:台湾|台湾]]・[[w:東トルキスタン|東トルキスタン]]・[[w:チベット|チベット]]にまで及んだ。
 
この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『[[w:四庫全書|四庫全書]]』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。
 
さて、明代の後期には、[[w:メキシコ|メキシコ]]や[[w:日本|日本]]から大量の[[w:銀|銀]]が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も[[w:一条鞭法|一条鞭法]]と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清代に入ると、[[w:人頭税|人頭税]]を廃止し土地課税のみとする[[w:地丁銀制|地丁銀制]]が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。
 
===中国の半植民地化===