「高等学校日本史B/開国」の版間の差分

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これを理由に、幕府は長州藩征討の詔を奉じて1984年7月に軍を起こした('''第一次長州征討'''、'''第一次長州征伐''')。この頃、長州への報復の機をうかがってたイギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの列国が連合艦隊を編制して下関を砲撃して、下関側の砲台を占領した('''四国艦隊下関砲台占領事件''')。この結果、長州藩は尊攘派にかわって幕府恭順派が主導権をにぎり、戦闘が起こる前に、長州藩は幕府に降伏した。外国からの攻撃を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを悟り、以降開国論が主流となった。
 
一方、薩摩藩はこれより前の1863年に、生麦事件の報復として1863年にイギリス軍艦に攻撃され、敗北していた('''薩英戦争''')。薩摩も、こうして攘夷の無理を悟り、開国派に転じた。さらにイギリスは、これを契機に薩摩藩に接近し、幕府にかわる'''雄藩連合政権'''の可能性を探るようになった。
 
== 薩長の連携 ==