「中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代」の版間の差分
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[[{{PAGENAME}}]]では、戦国時代と安土桃山時代について解説します。
== 戦国時代の到来 ==
=== 下克上と戦国大名 ===
室町時代の後半は、応仁の乱がきっかけで各地に領土獲得のための争いが広がった。この室町時代後期の日本各地で戦乱があった時代を
そして、戦国時代の大名を
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File:Takeda Harunobu.jpg|{{中付きルビ|2|武田
File:Uesugi Kenshin.jpg|{{中付きルビ|2|上杉
File:Soun Hojo portrait.jpg|{{中付きルビ|2|北条
File:Saitō Dōsan.jpg|{{Ruby|斎藤道三
File:Motonari Mouri02.jpg|{{中付きルビ|2|毛利
File:Portrait of Otomo Sorin.jpg|{{中付きルビ|2|大友
File:Shimazu Takahisa.jpg|{{中付きルビ|2|島津
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その他の戦国大名は、ほとんどが下剋上によって戦国大名に成り上がった者である。
=== 分国法 ===
戦国大名どうしが戦うことから、領地内での{{Ruby|統制
それぞれの戦国大名が領地内でしか通用しない法律を勝手に作った。これが
たとえば甲斐
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:武田氏の分国法(重要事項をまとめた現代語訳)
::一. 武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する。
::一. 他国に勝手に手紙や{{Ruby|贈
などのような内容が書かれている。
::一. 喧嘩
::一. 主君から、もらった土地は、勝手に売買してはならない。やむをえず売買する場合は理由を申し出ること。
:『甲州法度次第』
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甲州法度次第のように、部下どうしの争いを両方とも処罰することを
他にも今川
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:今川氏の分国法(重要事項を抜粋した現代語訳)
::一. 今川家の{{Ruby|家臣
:『今川仮名目録』
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分国法の内容は
大名の多くは家来を自分の城の近くに住まわせた。このため、城の近くに街が出来た。こ
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:朝倉氏の分国法
::一. 本拠である朝倉の{{Ruby|館
:『{{中付きルビ|3|朝倉
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戦国大名たちは、荘園領主の支配を認めず、荘園だった土地を自国の領土とした。
== 信長の台頭 ==
〜
:(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)
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[[ファイル:Odanobunaga.jpg|250px|thumb|織田信長(おだ のぶなが)]]
[[ファイル:Tenkahubu.svg|100px|thumb|「天下布武」(てんか ふぶ)の印]]
戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から、まず、尾張(おわり、愛知県にある)の
今川討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を奇襲し、今川義元を討ち取った。
* 発展的事項: 徳川家康の独立
:この桶狭間の戦いを期(き)に、今川氏に支配されていた三河(みかわ)の松平元康(まつだいら もとやす)および彼の家臣が今川から独立し、松平元康は松平家康(まつだいら いえやす)と改名する。(元康の「元」の字は、義元の「元」の字と同じである。)松平元康は、後の江戸時代に、江戸幕府の征夷大将軍になる
:桶狭間の戦いから2年後の1562年に、家康は織田信長と同盟をむすぶ。これが 清洲同盟(きよす どうめい) です。「清洲」(きよす)とは尾張(おわり)にある信長の居城の清州城(きよす じょう)のことです。なお、1582年の清洲会議(きよす かいぎ)とは、別の出来事です。1582年の清洲会議は、1582年に信長が死んだので後継者(こうけいしゃ)を決めるための会議です。
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:1570年には、信長に敵対する浅井・朝倉の連合軍と戦争になり姉川の戦いが起きるが、この浅井・朝倉連合軍をやぶる。
:1571年には仏教勢力の延暦寺が浅井・朝倉に味方してことなどから、比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を焼き討ちにする。いわゆる
また、仏教勢力にも容赦は無く、一向一揆の根拠地である大阪の石山本願寺を1580年には屈服させた。
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* 長篠の戦い
[[ファイル:Battle of Nagashino.jpg|700px|thumb|長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。]]
1575年に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である
武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。
* 安土城(あづちじょう)
1576年、近江(おうみ、滋賀県)に城を築かせ(きずかせ)、5層の天守閣(てんしゅかく)を持つ
安土城の城下町では、次に説明する楽市楽座(らくいち らくざ)などの新しい政策が行われた。
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また、各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し、だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。
そして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、
商業都市の堺は自治都市だったが、信長は堺を支配下に置き、自治の権利をうばい、直轄領にした。
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1582年、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は家臣の秀吉(ひでよし)などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。
このとき、家臣の
信長は当初は応戦していたといいますが、やがて敵の兵数を知るとけを覚悟し、家臣の森蘭丸(もり らんまる)らに寺に火を放たせ、信長は自刃(じじん)したと
言います。
この1582年の本能寺での一連の事件が
天下統一ならず、信長は死亡します。
のちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉です。
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このようにして、信長の支配権の争いに秀吉は勝って行き、信長の領地を受け継いでいく。
1583年に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に
そのあと、秀吉は各地の大名たちを平定し従えていきます。徳川家康も、秀吉は従えさせた。
1585年、羽柴秀吉は朝廷から
1586年、羽柴秀吉は朝廷から
そして秀吉は、各地の大名どうしに争いをやめるように停戦命令として惣無事令(そうぶじれい)を1585年に出す。停戦命令に従わなかった九州の島津(しまづ)氏は、1587年に征伐され屈服させられた。
そして1590年には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょう うじまさ)を滅ぼします。同1590年、秀吉に従っていなかった東北の奥羽(おうう)の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで
秀吉は支配下に大坂、堺、京都、などの重要都市を直接支配下に置いた。佐渡(さど)金山、生野(いくの)銀山、石見銀山(いわみぎんざん)なども直接支配下に置いた。
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* 太閤検地(たいこうけんち)
農民から年貢を取るための土地の調査を
検知そのものは信長の時代からも行われていたが(※ 教育出版などの検定教科書に記述がある)、さらに秀吉は各地でちがっていた物さし(ものさし)の長さや ます の容積などを統一し、また、全国の田畑の面積や土地のよしあしを調べた。(※ 信長はそもそも全国統一してないので、物差し などの全国統一のやりようがない。日本を全国統一したのは秀吉である。)
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そして検知の記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である
検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。
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*
1588年に農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令の
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* 兵農分離
このような検地や刀狩の結果、農民と武士との中間的な立場の人間がいなくなり、農民と武士との身分のちがいが、はっきりとしました。このようなことを現代の用語で
*人掃令(ひとばらい れい)
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:また、奴隷を買う側の他にも、日本人のなかにも戦乱などの際に日本人を狩って奴隷にして海外に売りさばいている悪人もいるわけだが・・・。)
1587年にキリスト教の宣教師(せんきょうし)を日本の外へ追放(ついほう)する
=== 朝鮮出兵 ===
国内を統一した秀吉は、つぎに、外国を征服(せいふく)しようとした。そのため、中国大陸の帝国である明(みん)に、日本が取ってかわろうと考えた。まず、マニラ(フィリピン)や台湾に、日本への服属を求める手紙を送った。そして、明を征服することを秀吉は考えた。このための足がかりとして、まず朝鮮(ちょうせん)に通行の許可(きょか)や協力などをもとめたが、朝鮮に断られたため、朝鮮との戦争になり、2度にわたって朝鮮に兵をおくって戦争をした。この戦争を日本での現代の呼び方で、
※ 教科書には「朝鮮侵略」という表記のみを用いる教科書もあるが、日本国民間での「朝鮮侵略という表記のみを用いる。」というような合意は無いし、教科書検定も指示していない。「朝鮮出兵」の表記も、教科書検定で認められている。( たとえば平成23年度検定版、育鵬社(いくほうしゃ)「新しい日本の歴史」にて「朝鮮出兵」の表記を確認。 )
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* 茶道(さどう)
[[Image:Sen no Rikyu JPN.jpg|200px|thumb|千利休<br>(画:長谷川等伯)。利休は、のちに秀吉の怒りを買い、自害を命じられ、自害した。]]
室町時代に生まれた茶の湯は、
織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。
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[[Image:Kano_Eitoku_002.jpg|330px|thumb|left|『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)、狩野永徳。]]
ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。
狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。
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