「中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代」の版間の差分

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[[{{PAGENAME}}]]では、戦国時代と安土桃山時代について解説します。
 
== 戦国時代の到来 ==
=== 下克上と戦国大名 ===
室町時代の後半は、応仁の乱がきっかけで各地に領土獲得のための争いが広がった。この室町時代後期の日本各地で戦乱があった時代を<big>{{中付きルビ|2|戦国時代 (</big>|せんごく |時代|じだい) }}といい、戦乱が続いた。応仁の乱で、守護大名が京都に出向いて兵を指揮していたころ、国もとに残っていた家臣らが実権をにぎるというということが起きた。他にも、各地で、身分が下の者が、守護大名に取って代わろうとして争い、大名になった者たちが現れ始めた。このように身分の下のものが身分が上の大名を倒して、新しく大名になることを<big>{{Ruby|'''下克上</big>('''|げこくじょう}}という。
 
そして、戦国時代の大名を<big>'''戦国大名</big>(せんごくだいみょう)'''という。戦国大名の多くは、下克上(げこくじょう)によって、大名に成り上がった。
 
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File:Takeda Harunobu.jpg|{{中付きルビ|2|武田信玄(|たけだ |信玄|しんげん)。}}(1521〜1573) 守護大名の一族の出身。
File:Uesugi Kenshin.jpg|{{中付きルビ|2|上杉謙信(|うえすぎ |謙信|けんしん)。}}(1530〜1578)
File:Soun Hojo portrait.jpg|{{中付きルビ|2|北条早雲(|ほうじょう |早雲|そううん)。}}(1432〜1519)
File:Saitō Dōsan.jpg|{{Ruby|斎藤道三|さいとう どう)。}}(?〜1556)
File:Motonari Mouri02.jpg|{{中付きルビ|2|毛利元就(|もうり |元就|もとなり)。}}(1497〜1571)
File:Portrait of Otomo Sorin.jpg|{{中付きルビ|2|大友宗麟(|おおとも |宗麟|そうりん)。}} 守護大名の一族の出身。
File:Shimazu Takahisa.jpg|{{中付きルビ|2|島津 貴久(|しまづ |貴久|たかひさ)。}}}} 守護大名の一族の出身。
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必ずしも無論、すべての守護大名が下克上で倒されたわけでなく、守護大名のまま、時代が戦国時代になり、守護大名から戦国大名になった者もいる。守護大名出身の戦国大名には、武田(たけだ)氏、{{Ruby|今川|いまがわ}}氏、{{Ruby|佐竹|さたけ}}氏、{{Ruby|山名|やまな}}氏、大友(おおとも)氏、島津(しまづ)氏などがある。
 
その他の戦国大名は、ほとんどが下剋上によって戦国大名に成り上がった者である。
 
=== 分国法 ===
戦国大名どうしが戦うことから、領地内での{{Ruby|統制|とうせい}}も強める必要があった。戦乱の時代に対応した、領地を管理するための法律を、新たに作る必要がある。
それぞれの戦国大名が領地内でしか通用しない法律を勝手に作った。これが <big>{{Ruby|'''分国法</big>('''|ぶんこくほう}}} である。戦国大名の領地を{{Ruby|分国|ぶんこく}}と呼んでいた。そで、分国の中で通用する法律だから分国法というわけである。
 
たとえば甲斐(かい、( (山梨県) の戦国大名である武田信玄(たけだ しんげん){{中付きルビ|4|甲州法度次第』(|こうしゅう |法度|はっと| | |次第|しだい}}という分国法を1547年に作った。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:武田氏の分国法(重要事項をまとめた現代語訳)
::一. 武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する。
::一. 他国に勝手に手紙や{{Ruby|り物(|おく|もの)物}}を出してはならない。
などのような内容が書かれている。
::一. 喧嘩(けんか)をしたものは、どちらが良いか悪いかに関わらず、いかなる理由でも、両方とも処罰する。ただし、相手から喧嘩を仕掛けられても、こらえた者は処罰しない。
::一. 主君から、もらった土地は、勝手に売買してはならない。やむをえず売買する場合は理由を申し出ること。
 
:『甲州法度次第』(こうしゅう はっと の しだい)
</div>
 
甲州法度次第のように、部下どうしの争いを両方とも処罰することを <big>{{中付きルビ|2|'''喧嘩両成敗</big>(|けんか |両成敗'''|りょうせいばい}} という。
 
他にも今川(いまがわ)氏の『今川{{Ruby|仮名目録』(いまがわ |かなもくろく}}』などの分国法がある。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:今川氏の分国法(重要事項を抜粋した現代語訳)
::一. 今川家の{{Ruby|家臣|かしん}}は、勝手に他国から{{Ruby||よめ}}をもらったり、あるいは{{Ruby|[[wikt:婿|婿]]|むこ}}に取ったり、あるいは他国に嫁を出すことは、今後は禁止する。
 
:『今川仮名目録』(いまがわ かなもくろく)
</div>
 
分国法の内容は大名によって違うが、多くの大名の分国法では、たとえば勝手に他国と連絡をとることを禁止したりしてするなど部下家臣の裏切りをふせぐための決まりや、部下どうし家臣同志あらそったばあい場合は両方とも罰することで領内を団結させるためなどの決まりであることが多い。
 
大名の多くは家来を自分の城の近くに住まわせた。このため、城の近くに街が出来た。こうしてれが <big>{{Ruby|'''城下町</big>('''|じょうかまち}} ができた。朝倉氏の{{Ruby|一乗谷|いちじょうだに、今}} (現在は福井県内) や、北条氏の{{Ruby|小田原|おだわら、今}} (現在は神奈川県内) などが城下町である。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:朝倉氏の分国法
::一. 本拠である朝倉の{{Ruby||たち}}の他には、国の中に城をかまえてはならない。有力な家臣は一乗谷(いちょうだに)に引越し、村などの所領があれば、村に{{Ruby|代官|だいかん}})を置け。
:『{{中付きルビ|3|朝倉考景条々』(|あさくら |考景|たかかげ |条々|じょうじょう}}』(重要条文を抜粋した現代語訳)
</div>
 
 
戦国大名たちは、荘園領主の支配を認めず、荘園だった土地を自国の領土とした。
 
== 信長の台頭 ==
<big>'''織田信長・豊臣秀吉・徳川家康</big>'''〜<br>
:(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)
 
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[[ファイル:Odanobunaga.jpg|250px|thumb|織田信長(おだ のぶなが)]]
[[ファイル:Tenkahubu.svg|100px|thumb|「天下布武」(てんか ふぶ)の印]]
戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から、まず、尾張(おわり、愛知県にある)の <big>'''織田信長</big>'''(おだ のぶなが) が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年に、<big>'''桶狭間の戦い</big>'''(おけはざま の たたかい)で駿河(するが)の大名である今川義元(いまがわ よしもと)の軍に尾張が攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。
 
今川討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を奇襲し、今川義元を討ち取った。
 
* 発展的事項: 徳川家康の独立
:この桶狭間の戦いを期(き)に、今川氏に支配されていた三河(みかわ)の松平元康(まつだいら もとやす)および彼の家臣が今川から独立し、松平元康は松平家康(まつだいら いえやす)と改名する。(元康の「元」の字は、義元の「元」の字と同じである。)松平元康は、後の江戸時代に、江戸幕府の征夷大将軍になる <big>'''徳川家康</big>'''(とくがわ いえやす) である。しかし、このころの松平家康は、まだ一介の戦国大名であった。
 
:桶狭間の戦いから2年後の1562年に、家康は織田信長と同盟をむすぶ。これが 清洲同盟(きよす どうめい) です。「清洲」(きよす)とは尾張(おわり)にある信長の居城の清州城(きよす じょう)のことです。なお、1582年の清洲会議(きよす かいぎ)とは、別の出来事です。1582年の清洲会議は、1582年に信長が死んだので後継者(こうけいしゃ)を決めるための会議です。
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:1570年には、信長に敵対する浅井・朝倉の連合軍と戦争になり姉川の戦いが起きるが、この浅井・朝倉連合軍をやぶる。
:1571年には仏教勢力の延暦寺が浅井・朝倉に味方してことなどから、比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を焼き討ちにする。いわゆる<big>'''「延暦寺の焼き打ち」</big>'''をした。
 
また、仏教勢力にも容赦は無く、一向一揆の根拠地である大阪の石山本願寺を1580年には屈服させた。
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* 長篠の戦い
[[ファイル:Battle of Nagashino.jpg|700px|thumb|長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。]]
1575年に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である <big>'''長篠の戦い</big>'''(ながしのの たたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは、織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により、織田が勝ち、武田は負ける。
武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。
 
 
* 安土城(あづちじょう)
1576年、近江(おうみ、滋賀県)に城を築かせ(きずかせ)、5層の天守閣(てんしゅかく)を持つ <big>'''安土城</big>'''(あづちじょう) を築かせる。
 
安土城の城下町では、次に説明する楽市楽座(らくいち らくざ)などの新しい政策が行われた。
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また、各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し、だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。
 
そして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、<big>'''楽市楽座</big>'''(らくいち らくざ)といいます。
 
商業都市の堺は自治都市だったが、信長は堺を支配下に置き、自治の権利をうばい、直轄領にした。
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1582年、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は家臣の秀吉(ひでよし)などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。
 
このとき、家臣の<big>'''明智光秀</big>'''(あけち みつひで)が反逆をして、この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。
信長は当初は応戦していたといいますが、やがて敵の兵数を知るとけを覚悟し、家臣の森蘭丸(もり らんまる)らに寺に火を放たせ、信長は自刃(じじん)したと
言います。
 
この1582年の本能寺での一連の事件が<big>'''本能寺の変</big>'''(ほんのうじのへん) です。
 
 
<big>'''信長は、天下統一をしていません。</big>'''
天下統一ならず、信長は死亡します。
のちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉です。
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このようにして、信長の支配権の争いに秀吉は勝って行き、信長の領地を受け継いでいく。
 
1583年に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に<big>'''大阪城</big>'''(おおさかじょう)を築かせ、この大阪城を本拠地(ほんきょち)にした。
 
そのあと、秀吉は各地の大名たちを平定し従えていきます。徳川家康も、秀吉は従えさせた。
 
1585年、羽柴秀吉は朝廷から <big>'''関白</big>'''(かんぱく) の称号を、もらう。
1586年、羽柴秀吉は朝廷から<big>'''豊臣</big>'''(とよとみ)の姓(せい)をもらい、<big>'''豊臣秀吉</big>'''(とよとみ ひでよし)と名乗る許可を得ます。秀吉は、関白と太政大臣(だいじょうだいじん)の朝廷の地位を手に入れる。
 
そして秀吉は、各地の大名どうしに争いをやめるように停戦命令として惣無事令(そうぶじれい)を1585年に出す。停戦命令に従わなかった九州の島津(しまづ)氏は、1587年に征伐され屈服させられた。
 
そして1590年には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょう うじまさ)を滅ぼします。同1590年、秀吉に従っていなかった東北の奥羽(おうう)の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで<big>'''秀吉が天下統一をなした。</big>'''
 
秀吉は支配下に大坂、堺、京都、などの重要都市を直接支配下に置いた。佐渡(さど)金山、生野(いくの)銀山、石見銀山(いわみぎんざん)なども直接支配下に置いた。
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* 太閤検地(たいこうけんち)
 
農民から年貢を取るための土地の調査を<big>'''検地</big>'''(けんち)という。
 
検知そのものは信長の時代からも行われていたが(※ 教育出版などの検定教科書に記述がある)、さらに秀吉は各地でちがっていた物さし(ものさし)の長さや ます の容積などを統一し、また、全国の田畑の面積や土地のよしあしを調べた。(※ 信長はそもそも全国統一してないので、物差し などの全国統一のやりようがない。日本を全国統一したのは秀吉である。)
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そして検知の記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である<big>'''石高</big>'''(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られた。
 
検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。
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* <big>'''刀狩</big>'''(かたながり)
1588年に農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令の<big>'''刀狩令</big>'''(かたながりれい)をだします。名目は大仏を京都の方広寺(ほうこうじ)に作るので材料の鉄が必要なため、という名目です。秀吉の狙いは、一揆(いっき)を防ぐため、というのが現代(2014年に記述)での一般的な考えです。
 
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* 兵農分離
このような検地や刀狩の結果、農民と武士との中間的な立場の人間がいなくなり、農民と武士との身分のちがいが、はっきりとしました。このようなことを現代の用語で<big>'''兵農分離</big>'''(へいのう ぶんり)といいます。
 
*人掃令(ひとばらい れい)
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:また、奴隷を買う側の他にも、日本人のなかにも戦乱などの際に日本人を狩って奴隷にして海外に売りさばいている悪人もいるわけだが・・・。)
 
1587年にキリスト教の宣教師(せんきょうし)を日本の外へ追放(ついほう)する<big>'''バテレン追放令</big>'''(バテレンついほうれい) を出します。バテレンとは、ポルトガル語で神父を意味する パードレ padre が由来の言葉。 (※ ポルトガル語表記「padre」は、おぼえなくてよい。) しかし南蛮貿易は許可していたこともあり、取り締まりの効果は不十分だった。
 
 
=== 朝鮮出兵 ===
国内を統一した秀吉は、つぎに、外国を征服(せいふく)しようとした。そのため、中国大陸の帝国である明(みん)に、日本が取ってかわろうと考えた。まず、マニラ(フィリピン)や台湾に、日本への服属を求める手紙を送った。そして、明を征服することを秀吉は考えた。このための足がかりとして、まず朝鮮(ちょうせん)に通行の許可(きょか)や協力などをもとめたが、朝鮮に断られたため、朝鮮との戦争になり、2度にわたって朝鮮に兵をおくって戦争をした。この戦争を日本での現代の呼び方で、<big>'''朝鮮出兵</big>'''(ちょうせん しゅっぺい) とか <big>'''朝鮮侵略</big>'''(ちょうせん しんりゃく)と 言う。
 
※ 教科書には「朝鮮侵略」という表記のみを用いる教科書もあるが、日本国民間での「朝鮮侵略という表記のみを用いる。」というような合意は無いし、教科書検定も指示していない。「朝鮮出兵」の表記も、教科書検定で認められている。( たとえば平成23年度検定版、育鵬社(いくほうしゃ)「新しい日本の歴史」にて「朝鮮出兵」の表記を確認。 )
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* 茶道(さどう)
[[Image:Sen no Rikyu JPN.jpg|200px|thumb|千利休<br>(画:長谷川等伯)。利休は、のちに秀吉の怒りを買い、自害を命じられ、自害した。]]
室町時代に生まれた茶の湯は、<big>'''千利休</big>'''(せんの りきゅう)により、質素さや簡素さなどの「わび」(侘び)を重んじる、「侘び茶」(わびちゃ)とよばれる茶道(さどう)へと発展した。
織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。
 
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[[Image:Kano_Eitoku_002.jpg|330px|thumb|left|『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)、狩野永徳。]]
 
ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。<big>'''狩野永徳</big>'''(かのう えいとく) や 弟子の狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。
 
狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。