「日本史/近代/戦前」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
加筆。
74 行
# 日本は南京を包囲し中心に進む作戦を採り、戦線から離脱した中国軍兵士を全員殺害するという方針であった。
#* 日本も批准し公布した[[w:ハーグ陸戦条約|ハーグ陸戦条約]]に違反する(兵器を捨て投降した者を殺傷したこと、助命せざることを宣言したこと)。
# いよいよ南京城内に侵攻を始める。
#* 12月7日に、南京の調略も間近と見た方面軍司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を作成するも、実際にはことごとく破られる。
#* 略奪行為ならびに失火、放火を禁じたが、ここまで食糧を補給せずに行軍中の徴発、略奪を強要し、厳寒(12月)の頃にまともな耐寒装備や野営等の準備も無い進軍(→火で暖をとるようになる)を強要しておきながら禁止してももはや効力が無いに等しい。
#** ここまでそのような行為を強制しておきながら、突然の禁止が守られるはずも無い。
#*  「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
# 12月11日、各新聞が華々しく南京調略を報じ、祝賀の提灯行列があるなど、翌日にかけて全国で南京を落としたことを祝される。ところが、この時点ではいまだ銃声が止むことはなく、依然として戦闘は継続状態にあった。
#* そもそもこれは、各新聞やメディアが「南京一番乗り」を競い、一部の部隊が壊れた城壁の瓦礫に旗(日章旗)を立てた<ref group="注釈">この部隊、その後中国軍に逆包囲され全滅に近い損失を出す。</ref>ことを「南京一番乗り」として報じたことが元凶の誤報であったが、真実は国民に伝わることはなかった。
# 12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めたことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。
# 中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一般人になることによって何とか生き延びようとした。
#* 兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという<ref group="注釈">混乱の現れとも言えるだろう。</ref>。
# 12月13日に南京を攻略する。
 
118 ⟶ 128行目:
 
== 註 ==
=== 注釈 ===
<references/ group="注釈">
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==