「日本史/近代/戦前」の版間の差分

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=== 対外戦争 ===
日清戦争は日本vs清国の戦争だが、代理戦争としてみると、イギリスvsドイツとの代理戦争のような様相もある。清国の軍制改革をしたお雇い外国人のドイツ出身軍人コンスタンチン・フォン・ハンネケン (Constantin von Hannecken)は、日清戦争中でも李鴻章の側近である<ref>{{harvnbsfn|立命館経済学|p=546}}</ref>。当時の清国の保有する最新式の大型軍艦である{{Ruby|定遠|ていえん}}と{{Ruby|鎮遠|ちんえん}}も、ドイツ製である。さらに、この軍艦・{{Ruby|定遠|ていえん}}にすら、日清戦争における黄海回線中、ハンネケンは{{Ruby|定遠|ていえん}}に乗り込んでいる<ref>{{harvnbsfn|立命館経済学}}</ref>
 
== 第二次世界大戦 ==
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===== 前夜 =====
 
1937年、北京郊外の[[w:盧溝橋|盧溝橋]]において日中の軍事衝突である[[w:盧溝橋事件|盧溝橋事件]]が発生する。日本の[[w:近衛文麿|近衛文麿]][[w:近衛内閣|内閣]]は派兵を決定。[[w:日中戦争|日中戦争]]へと発展する。しかし、この時点ではまだ軍及び政府は不拡大方針をとり、「北支事変」の呼称を用いていた。約1カ月後には上海に「上海地区の日本人居留民保護」を目的として派兵される。この派遣軍もそれらの理由から (不拡大方針) 精鋭の現役兵ではなく、予備兵であった。しかし、上海派遣軍を指揮する中支那方面軍の大将、[[w:松井石根|松井石根]]は拡大派であり、彼は南京を落とせば中国政府は降参するものと考えていた。この頃、日本のメディアや風潮は「支那{{Ruby|[[wikt:膺懲|膺懲]]|ようちょう}}」、すなわち「中国を懲らしめる」などと中国に対する戦意高揚を狙っており、6月に組閣した近衛内閣は拡大派の思惑 (国民を戦争によって政府についてこさせる) に沿って、「挙国一致」の指導者となる。
 
9月、国民党と共産党は[[w:抗日民族統一戦線|抗日民族統一戦線]]を形成 ([[w:第2次国共合作|第2次国共合作]]) し、日中戦争は泥沼化を始める。日本の軍部では、拡大派が不拡大派を抑えて戦線は拡大の一途をたどることとなる。そして、この頃から、当時首都であった南京への爆撃が本格化し、のちの南京事件への一歩を踏み出す。
 
11月中旬に上海を攻略するも、南京を制圧することで中国政府の降伏を狙う松井は己の考えを実戦で実行し成功させる必要に駆られていた。本来はこれで作戦目的を完了し、兵は3カ月に及んだ戦闘から解放されるはずだった。この時点で物質の現地での購買が徴発に変化し、軍紀が乱れていることは陸軍上層部にも知れ渡っていた。しかし、上海派遣軍を指揮する中支那方面軍指令部は11月15日に独断で南京追撃の敢行を決定しており、不拡大派の軍指令部はその報告 (19日) に対し即座に (20日) 作戦の対象地域から逸脱している旨を返すも、命令に違反し19日に南京への進軍が始まる。しかし、参謀本部を無視し正式命令も無い状態で強行した南京進攻作戦は、進軍に停滞が発生すれば前進の停止を命じられる可能性が高い。それを回避し、軍上層部に独断の追認をさせるため、南京に急進撃をかける必要があった。しかし、上海派遣軍は既に疲労していた。そこで、中支那方面軍指令部は上海派遣軍と第10軍 (上海の制圧の際に後から投入されたので、軍に余力があり、南京進撃に積極的だった) に「南京1番乗り」を競わせたのだ。上海派遣軍は上海の制圧のための軍であり、後方支援部隊がなく、既に物質を現地での調達に頼っていたが、挑発され「1番乗り」を煽られ、徴発に変化し始めていた調達は上海戦後も帰れず南京進撃に駆り出された不満が現れ、エスカレートしていく。さらにこの派遣軍は北支事変が正式な戦争ではないとされたため、兵の組成が天皇の命令を伴わないものであり、法務部 (軍の行動を軍刑法に基づき取り締まる) が存在しなかった{{Harvsfn|笠原十九司|1997}}。南京事件前夜、既に十分な予兆が出ていた。
 
===== 南京陥落 =====
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#*  「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
# 12月11日、各新聞が華々しく南京調略を報じ、祝賀の提灯行列があるなど、翌日にかけて全国で南京を落としたことを祝される。ところが、この時点ではいまだ銃声が止むことはなく、依然として戦闘は継続状態にあった。
#* そもそもこれは、各新聞やメディアが「南京一番乗り」を競い、一部の部隊が壊れた城壁の瓦礫に旗(日章旗)を立てた<ref  group="注釈">この部隊、その後中国軍に逆包囲され全滅に近い損失を出す。</ref>ことを「南京一番乗り」として報じたことが元凶の誤報であったが、真実は国民に伝わることはなかった。
# 12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めたことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。
# 中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一般人になることによって何とか生き延びようとした。
#* 兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという<ref  group="注釈">混乱の現れとも言えるだろう。</ref>。
# 12月13日に南京を攻略する。
 
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|publisher = 岩波書店
|isbn = 4-00-430530-6
|ref = harv
|ref = {{SfnRef|笠原十九司|1997}}
}}
 
== 註 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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