「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
M 箇条書きを見出しとして使用している部分の修正…と思ったが長く重いため諦めた
タグ: 2017年版ソースエディター
一部削除。
127 行
[[File:Yoshinogari-iseki zenkei.JPG|thumb|440px|right|吉野ケ里遺跡,遠景]]
 
{{ruby|佐賀|さが}}県にあります。
 
まわりを{{ruby|濠|ほり}}でかこまれた {{ruby|環壕|かんごう}}集落 です。
 
矢がささった{{ruby|人骨|じんこつ}}からは{{ruby|矢尻|やじり}}が{{ruby|刺|さ}}さっているものも見つかっています。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できます。
 
濠の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。
147 行
=== 日本統一へ ===
==== {{ruby|邪馬台国|やまたいこく}} ====
* 邪馬台国
* {{ruby|魏志倭人伝|ぎしわじんでん}}
中国大陸の3世紀ごろの歴史書の '''『{{ruby|魏志|ぎし}}』{{ruby|倭人伝|わじんでん}}''' では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かります。{{ruby|東夷伝|とういでん}}では100あまりの国が、魏志倭人伝では30ほどの国まで減っているので、このあいだの長い年月に、統一が進んでいっことが分かります
 
そして、日本にはこれら30あまりの国をしたがえた {{ruby|邪馬台国|やまたいこく}} がありました。邪馬台国で、代表的な地位にあった人物は、'''{{ruby|卑弥呼|ひみこ}}''' という女性です。{{ruby|彼女|かのじょ}}の政治は、まじないやうらないによるものだったようです。
 
邪馬台国の場所は、わかっていません。
魏志倭人伝によると、{{ruby|倭|わ}}の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたようです。
 
邪馬台国の場所は、{{ruby|魏|ぎ}} に、外交の使いを送りだ不明ですした
 
[[File:King of Na gold seal.jpg|260px|thumb|left|金印。 ]]
もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の海上に出てしまい、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。
57年、日本は、{{ruby|魏|ぎ}}の{{ruby|皇帝|こうてい}}から、'''金印'''を受け取りました。そのほか、100{{ruby|枚|まい}}の{{ruby|銅鏡|どうきょう}}と、{{ruby|絹|きぬ}}織物や、毛織物などを、日本は受け取りました。
 
邪馬台国の場所についての有力な説は、九州北部にあったという説と、{{ruby|奈良|なら}}県の{{ruby|大和|やまと}} にあったという説です。
 
 
邪馬台国は、{{ruby|魏|ぎ}} に、外交の使いを送ります。
 
[[File:King of Na gold seal.jpg|260px|thumb|left|金印。 ]]
57年、日本は、{{ruby|魏|ぎ}}の{{ruby|皇帝|こうてい}}から、'''金印'''を受け取りました。そのほか、100{{ruby|枚|まい}}の{{ruby|銅鏡|どうきょう}}と、{{ruby|絹|きぬ}}織物や、毛織物などを、日本は受け取りました。
 
{{ruby|魏志倭人伝|ぎしわじんでん}}によると、{{ruby|卑弥呼|ひみこ}}の政治は、まじないやうらないによるものだったようです。卑弥呼は、{{ruby|宮殿|きゅうでん}}にこもりきりで、人々の前には、ほとんど{{ruby|姿|すがた}}を見せなかったようです。宮殿には、{{ruby|物見|ものみ}}やぐらや{{ruby|柵|さく}}があり、兵士が守っていたようです。
 
{{-}}
222 ⟶ 213行目:
* {{ruby|仏教|ぶっきょう}}の伝来
また、{{ruby|仏教|ぶっきょう}}も、外国から伝わりました。538年に、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島の{{ruby|百済|くだら}}という国の王から、仏像や{{Ruby|経典|きょうてん}}が、日本の{{ruby|天皇|てんのう}}に送られました。
 
仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで始まった{{ruby|宗教|しゅうきょう}}です。
 
{{clear}}
272 ⟶ 261行目:
 
聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの{{ruby|改革|かいかく}}をすすめました。
 
:聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から{{ruby|退|しりぞ}}けるためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の{{ruby|親戚|しんせき}}です。
 
 
聖徳太子らによる改革のひとつに、'''{{ruby|十七条|じゅうしちじょう}}の{{ruby|憲法|けんぽう}}'''の制定があります。
305 ⟶ 291行目:
==== そのほかの{{ruby|改革|かいかく}} ====
* {{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}の制
聖徳太子らによる改革には、'''{{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}の制'''というものもあります。これは、家がらに関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手がらによって、役人に位が与えられます。位は、一代かぎりです。
役人の位を12{{ruby|段階|だんかい}}に分けたので、このような名前で{{ruby|呼|よ}}ばれます。これ以前は、家がらによって位が与えられたのですが、改められました
 
<!-- 光村図書の教科書で、冠位十二階を紹介している。 -->
401 ⟶ 387行目:
この都が平城京にあった時代を '''{{ruby|奈良|なら}}時代''' といいます。
 
<!-- 厳密にはのちの794年に平安京に移る前に、長岡京に移っています。 -->
 
平城京は、道の通りが{{ruby|碁盤|ごばん}}の目のように、区画が整理されています。
 
{{clear}}
[[File:Wadokaichin coin 8th century Japan.jpg|thumb|left|200px|和同開珎]]
奈良時代の都では、{{Ruby|和同開珎|わどうかいちん}}という貨{{ruby|幣|へい}}が708年に発行され、使われていました。
 
 
{{clear}}
518 ⟶ 501行目:
:'''「この世をば わが世とぞ思{{ruby|ふ|(う)}} {{ruby|望月|もちづき}}の 欠けたることも なしと思{{Ruby|へ|(え)}}ば」'''
(この世は、望月(満月)のように何も欠けているものがなく、{{ruby|私|わたし}}(道長)のためにあるようなものだ。)
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:'''{{Ruby|藤原実資|ふじわらさねすけ}}の日記'''
::{{Ruby|寛永|かんえい}}2(1018)年、今日は道長さまの{{Ruby|娘|むすめ}}さまの{{ruby|威子|いし}}さまが、{{ruby|中宮|ちゅうぐう}}になられる日である。道長さまが{{ruby|私|わたし}}(日記の作者である実資)を{{Ruby|呼|よ}}んで、こういわれた。
::「和歌をよもうと思う。君もかならず歌をかえしたまえ。」と言われた。
:::私は返事をして「きっと歌をかえしましょう。」と答えた。
::つづけて、道長さまはこう言われた。「{{ruby|自慢|じまん}}の歌なのだよ。べつにあらかじめ作っておいた歌では無いがね。」と。
:そして、歌をよまれた。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば。」と。
 
:::私は答えた。「とても、すばらしい歌です。返す歌も作れません。(道長以外の)みんなで、このお歌を唱和するのがよろしいでしょう。」ともうしあげた。みんなも、私の言葉におうじ、この歌を唱和した。道長さまは、たいそう気をよくして、歌をかえさなかった私をせめなかった。
 
:(『{{Ruby|小右記|しょうゆうき}}』より。)
</div>
 
 
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|300px|thumb|left|平等院鳳凰堂]]
674 ⟶ 643行目:
守護の{{ruby|役割|やくわり}}は、その国の軍や{{ruby|警察|けいさつ}}の管理者でした。地頭の役割は、{{ruby|荘園|しょうえん}}および公領の管理や、税である{{ruby|年貢|ねんぐ}}の取り立てでした。
 
頼朝は1192(1185)年に朝廷から '''{{ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}''' に任命されました
 
頼朝は{{ruby|鎌倉|かまくら}}(現在の{{ruby|神奈川|かながわ}}県)に、武家による政治の{{ruby|拠点|きょてん}}である {{ruby|鎌倉幕府|かまくらばくふ}}を開きました。鎌倉に幕府があった時代を '''{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代''' といいます。
2,107 ⟶ 2,076行目:
 
 
=== 大正時代の{{Ruby|暮||く}}らし ===
大正時代の終わりまでには、{{ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|大阪|おおさか}}など大都市では、バスやデパートなどが、日本に、すでに登場していました。