「日本史/近代/戦前」の版間の差分

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この際に「後方支援部隊を増強する案」が提示されるも、「戦機を逃す」としてこれを拒否。
中国政府も南京の防御が厳しくなってきたため、12月2日、ドイツ大使を通じて和平条件(不拡大方針で'''日本が提示した'''トラウトマン和平工作)を認める意向が伝えられる{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=78}}も、拡大派中心になっていた軍や近衛内閣の閣僚はこれをないがしろにした{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=78}}。中国政府は遷都し、南京は首都ではなくなった。ところが、拡大派の主張する「中国一撃論」(<ref group="注釈" name=南京一撃論>南京を落とせば中国は屈服するというもの)。</ref>に乗せられ、総勢16万以上の日本軍がいよいよ南京城内<ref group="注釈">南京はヨーロッパの古い城址と同じように市街を城壁で囲んでいた。</ref>の攻略に取り掛かる。日本は南京から放射状に伸びる幹線道路を用いて外側から包囲し中心に進む作戦を採り、戦線から離脱した中国軍兵士を全員殺害する<ref group="注釈">日本も批准し公布した[[w:ハーグ陸戦条約|ハーグ陸戦条約]]に違反する(兵器を捨て投降した者を殺傷したこと、助命せざることを宣言したこと)。</ref>
 
12月7日に、南京の調略も間近と見た方面軍司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を作成するも、実際にはことごとく破られる。それは略奪行為ならびに失火、放火を禁じたが、ここまで食糧を補給せずに行軍中の徴発、略奪を強要し、厳寒(12月)の頃にまともな耐寒装備や野営等の準備も無い進軍(→火で暖をとるようになる)を強要しておきながら禁止してももはや効力が無いに等しい。さらに「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
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先述の同士討ちに関してだが、中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、これにより「南京死守」の命令に行動する兵士とそうでない兵士が混在した。河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一なるになることによって何とか生き延びようとした。兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという<ref group="注釈">混乱の現れとも言えるだろう。</ref>。
 
12月13日、南京攻略。その後日本軍はしばらく滞留した。そして、日本軍は軍門に下った者までも殺す<ref group="注釈">既に国際法違反。</ref>だけでなく、「便衣兵(一般人に紛れた軍人)を探す」として特に詮索もせず<ref group="注釈">正式には軍事裁判を開くなどの手順を踏まなければならない。</ref>多くの成人男性を虐殺した。これにより、その後も2月頃まで'''約<u>20万</u>人'''<ref group="注釈" name="東京裁判">信頼性の無い説が多いが、論争に晒されることもある。なお、戦後の東京裁判は戦争犯罪者1人1人の功罪が取り上げられ、全体像は深掘りされていない。</ref>が殺害され{{Sfn|笠原 十九司|1997|pp=224&ndash;225}}、おびただしい物質が強奪された。この'''虐殺及び略奪、強姦など言語道断の人としてあるまじき愚かな行為'''を一般に「南京事件」と呼ぶ。なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。結局、海軍の思惑で始まった南京戦は、軍上層部の名誉的な予想とは別の意味合いで歴史に名を残したが、中国政府を倒すことはできず、日本にとっても何の利益も生まなかったのだ。
 
===== 地獄の終焉 =====
前述のように、南京奪取後も中国政府は武漢に首都機能を移転(事実上の遷都)し、元からの抗日的感情に南京事件が火をつけ、中国国民のより高まった戦闘継続の意志によって戦争は継続される。拡大派の「南京一撃論」<ref group="注釈" name="南京一撃論" />は虚実の妄想であった。以後も戦争は継続される。
 
===== 終戦後 =====
{{Notice|本来、太平洋戦争の終戦後関係の節に書くべき内容をここに書いています。実際は戦争が継続されました。|注意}}
1945年、日本はポツダム宣言を受諾、降伏文書に調印し、ようやく戦争は終結した。その後、敗戦国の軍人などに対して戦争中の責任を追及する軍事裁判、極東国際軍事裁判 (東京裁判) が行われた。南京事件 (及びその前後) についても触れられたが、国民は軍部による総力戦で国力が低下し、日々の暮らしで精一杯であった。おまけに南京の一件は戦時中国民に知らされることがなかったため、
 
====== 日本政府や日本の人々のこの事件に対する認識並びに行動 ======
{{節stub}}<!-- 家永教科書事件について記述する予定 -->
 
===== 時系列 =====
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# 西洋と同じく、産業革命 → 景気沈滞(日露戦争不況) → バブル景気(大戦景気)→ 労働争議、の時代に変わって行った。又、10年周期で好景気と不景気が循環した。
 
== 参考書籍文献 ==
* {{cite web
| first = John L.Rawlinson
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}}
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[人権思想と革命]]
* [[産業革命と市民革命]]
* [[ナポレオン戦争]]
* [[ウィーン体制]]
* [[ナショナリズムの形成]]
* [[ラテンアメリカの独立]]
* [[帝国主義]]
* [[世界大戦への道]]
* [[20世紀における共和制国家の成立]]
* [[第一次世界大戦]]
* [[ベルサイユ体制]]
* [[第二次世界大戦]]
* [[近代]]
 
{{日本史info}}<!-- {{先代次代2
|タイトル = [[日本史]]
|先代名 = [[日本史 江戸時代/後期]]
178 ⟶ 198行目:
|現代名要約下=[[近代]]
|次代名要約下=[[現代]]
}} -->
 
[[category:日本の歴史|せんせん]]