「小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり」の版間の差分

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:古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に{{ruby|盛|も}}り上がった古墳を{{ruby|円墳|えんふん}}と言います。四角く盛り上がった古墳を{{ruby|方墳|ほうふん}} と言います。円墳と方墳があわさったような、かぎ{{ruby|穴|あな}}のような形の古墳を {{ruby|前方後円墳|ぜんぽうこうえんふん}} と言います。大阪府{{ruby|堺|さかい}}市にある {{ruby|大仙|だいせん}}(大山)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。
:弥生時代に比べて古墳時代は、古墳作りのような大規模な事業ができるほど人口が増えます<ref name="人口"/>。これは、大陸から、牛や馬がもちこまれたり<ref name="牛馬">『魏志倭人伝』には、「倭には、馬や牛はいない」と書かれていますので、この時代(古墳時代)に伝わったことがわかります。馬は、漢字の音(昔の中国語の音)で「マ」と発音しますが、それがなまって「うま」となったとされています。</ref>、鉄を製造する技術が普及したためであると考えられています。
:なお、このころ、中国は国内が乱れたため、邪馬台国を書いたような歴史書がとだえ、4世紀の様子はあまり伝わっていません。ただし、また、4世紀末から5世紀にかけて朝鮮半島に倭の軍隊が攻め入ったことが、朝鮮半島の石碑<ref>「{{ruby|好太王|こうたいおう}}の碑」といいます。</ref>に残っています。このように、この当時も朝鮮半島とは盛んに行き来がありました
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;古墳の{{ruby|副葬|ふくそう}}品
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:大和政権は、東西に兵を出して、日本の「くに」を一つにまとめようとします
:5世紀後半に作られたと見られる埼玉県の{{ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳から見つかった{{ruby|鉄剣|てっけん}}には、「ワカタケル大王」という名がきざまれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。また、熊本県の {{ruby|江田船山|えだふなやま}}古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という同じ名の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲におよんでいたことがわかります。このことから、大和政権は、5世紀後半から6世紀前半にかけて、日本を統一したのではないかと考えられています。
:5世紀に入ると中国はやや安定し、南北に王朝ができ、より安定した南の王朝に日本が使者を何度も送ったことが記録されており、これを送ったのは大和政権の{{ruby|大王|おおきみ}}(天皇)であろうとされています。
;「くにづくり」についての日本神話
:日本に、文字(漢字)が伝えられたのは、4世紀後半から5世紀前半にかけてであろうとされています。伝説では、朝鮮半島から渡ってきた{{ruby|王仁|わに}}が伝えたとされていますが、その前から、ある程度の読み書きはできていたと考えられますし、1人の伝えたもので、文字が伝わるものでもありません。おそらく、朝鮮半島から、漢字を読み書きできる集団が移住してきて大和朝廷につかえたことの、{{ruby|象徴|しょうちょう}}だと考えられます<ref>実際に、王仁の子孫とされる{{ruby|西文|かわちのふみ}}氏は、朝廷に{{ruby|史|ふひと}}という書記の役職で朝廷につかえます。</ref>。