小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり

この章の概要

★時代区分:原始時代、石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代
★取り扱う年代:おおむね5世紀以前

狩猟・採集から農耕へ
大昔、日本に人々が住みはじめたころ、人々は、木の実をひろったり(採集)、動物や魚を狩などでつかまえて(狩猟)、食料や衣服としていました。このころ、ものを切ったりするのに使った道具は石でできていました。このような道具を、石器といい、この時代を「石器時代」と言います。時代がだんだん進むと、人々は、土を火で焼き固めると固くなってうつわなどを作ること(土器)ができることを発見します。最初は低い温度で厚くもろい器や人形(土偶)を作っていましたが(このような土器を「縄文土器」といい、この時代を「縄文時代」と言います)、さらに時代が進んで薄く硬い土器が作られるようになりました(このような土器を「弥生式土器」といい、この時代を「弥生時代」と言います)。
縄文時代から弥生時代に変わるころ、人々は狩猟・採集のくらしから田んぼや畑をたがやして米などを作る生活(農耕)をするようになりました。狩猟・採取の生活から農耕生活になると、人々は定住し「むら」ができます。人々が互いに行き来するようになると、「むら」はだんだん大きくなり、また、いくつかの「むら」が集まって「くに」となります。
「くに」の統一
「くに」を統治する王や女王は、海を越えて中国や朝鮮半島など大陸に使者を送ったりしました。その結果、大陸から青銅を作る技術や文字(「漢字」)などの文化が流入しました。鉄器が普及したことで石器は使われることがなくなり「石器時代」は終わります。この時代、「くに」の王など有力者は、墓として「古墳」を作りましたが、そこには埴輪(はにわ)などのほか、青銅製の鏡(銅鏡)などが副葬されています(この時代を「古墳時代」とも言います)。
そして、これらの「くに」をまとめて今の日本の元を作ったのが、天皇を長とした大和(やまと)朝廷(大和政権)です。統一前に「くに」をひきいていた有力者などは豪族と呼ばれます。

大昔の暮らし

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北海道で出土したナイフ状の石器
石器時代と狩猟生活
日本に人類が住み始めたのは、いろいろな説がありますが、ほりだされたもので確かめられるところでは、だいたい3万8000年前と言われています。
そのころ、日本列島に住んでいる人たちは、海や川の近くに住んで、石や骨でつくった刃物や槍や矢をつかって、シカやイノシシなどの動物を、とらえて食料にしていました。このような石や骨でつくった道具を、石器といい、この時代を「石器時代」と言います。動物の骨は、とがらせて使うことが多く、とがらせたものを 骨角器(こっかくき) と言います。骨角器のようなとがった骨も出土することがあります。狩りなどで、槍の先の武器として使ったりすることが多かったものと思われます。
石器も、最初のうちは、石をただ割ったものを使っていたのですが、時代がくだると、固い石をといでするどくしたり、黒曜石(こくようせき)と言われるガラスに似た石をうすくとがらせてナイフのようにしたものも見られます。
考古学(こうこがく)
この時代には文字がありませんでしたから、何が起こったのかという記録は残っていません。しかし、土をほりかえしてみると、このように使った土器や、とって食べたと思われる動物の骨、火を使ったあとなどが見つかることがあります。このようなものを、よく調べて大昔はどうであったかを研究する学問を考古学と言います。

縄文時代

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縄文土器
人々は、土を火で焼き固めて土器をつくるようになりました。その土器に縄の模様がついているので、この時代に作られた土器を 縄文(じょうもん)土器 と言います。この土器は、採取した木の実などを貯めたり、食べ物を煮炊きする「なべ」に用いたりしました。ふちに、炎のような飾りをつけたものは実用的ではありませんが、神々や祖先をまつる時に用いられたものと考えられています。
この縄文土器を使用した、約1万2000年前から約3000年前までの時代のことを、 縄文(じょうもん)時代 と言います。
 
土偶(亀ヶ岡(かめがおか)遺跡)
土偶
器だけでなく、土を焼き固めた人形が見つかる場合があります。これを、土偶(どぐう)といっています。土偶は、食料が増えることや女性の安産をいのったものだと考えられています。


貝塚
 
加曽利貝塚、北貝層断面
土地を掘り返すと、多くの貝がらがまとまって発見されることがあります。そこには、貝がら以外にも、動物の骨や、魚の骨、土器の破片などが出土することもよくあります。研究の結果、これは、縄文時代の人々が住み着いた土地で、貝がらなどをごみとして捨てた場所であることがわかりました。これを、貝塚(かいづか)といい、周辺に縄文の人々の集落があったことがわかります。
貝塚には、東京都の大森(おおもり)貝塚や、福井県の鳥浜(とりはま)貝塚や、千葉県の加曽利(かそり)貝塚などが有名です。
貝塚や石器などに限らず古い時代の物が見つかる場所のことを、 遺跡と言います。遺跡などから出土する物(これを出土品や遺物と言います)によって、その時代の暮らしもわかります。
魚つりに必要な、「釣り針」と「もり」が、縄文時代の遺跡から出土されることも多く、漁もしていたことがわかります。
縄文時代の人の家の建物は、竪穴(たてあな)建物(竪穴住居) といい地面に穴をほりさげたあとに、柱を立て、草ぶきの屋根をかけた建物[1]にすんでいました。

三内丸山遺跡

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三内丸山遺跡 六本柱建物(復元)
青森県の 三内丸山(さんないまるやま)遺跡 は、約5500年前から約1500年前の間の縄文時代の集落だったということがわかっています。
この三内丸山遺跡から、クリ、クルミ、トチといった実のなる樹木を栽培したあとが見つかっています。つまり、すでにこの時代から一種の農耕が始まっていたものと考えられています。
また、多くの土器や石器のあとも見つかっており、大型の掘立(ほった)て柱の跡も、見つかっていますが、この用途はまだ分かっていません。
ヒスイの玉や、黒曜石でできた刃物のようなものも見つかっています。ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の糸魚川(いといがわ)などの他の土地でとれるので、他の地域と交易があったのだろう、と考えられています。
この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として代表的な遺跡です。


弥生時代

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弥生土器
弥生(やよい)土器
約3000年前から、土器は、それまでの縄文土器に比べて、うすくかたいものとなりました。これは、縄文土器に比べて、土を焼き固めるのに高い温度で焼き固めることができるよう技術が進歩したためです。これを、弥生(やよい)土器(または、「弥生式土器」)と言います[2]
この弥生土器を使用した、約3000年前から約1800年位前(紀元後3世紀中期)までの時代のことを、 弥生(やよい)時代 と言います。
稲作(いなさく)のはじまり
縄文時代の生活は狩猟・採集によるものが主でした。縄文時代の後期になって農耕をやっていたと考えられますが、あまり大規模なものではありません。弥生時代を特徴づけるのは、稲作をはじめ定住したことです。
2400年ぐらい前のころから、現代中国の揚子江(ようすこう)(または、長江(ちょうこう))周辺から、日本に水田(田んぼ)を用いて米を栽培する技術(稲作)が伝わりました。
稲作は、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方南部にまで広がりました[3]
この時代の農具は、まだ、木製や石器です[4]()から米をとるときに、 石包丁(いしぼうちょう) が、使われました。
「むら」の誕生
米は乾燥させると、長期間保管ができます。米を大量に保管することで、冬など食料となるものが少なくなる時期でも、人々は安定した生活をおくることができます[5]。米は縄文時代から採集または水田を使わずに栽培されていたことがわかっていますが、水田を作って栽培することで、収穫量が大きく上がります。一方で、土地をならして水田をつくったり、ため池などの水源を確保し水を引く水路を作ったりする作業は少人数でやるのはむずかしいことです。そして、一度作った水田は何年も使い続けないと、また、荒れ地をきりひらいて水田を作ることから始めないといけなくなります。稲作を続けていくために、人々は水田を中心に定住を始めます。米などの農作物が安定して取れることで人口が増えていき、やがて、多くの人々が住む「むら」ができます[6]
高床(たかゆか)倉庫
米は、 高床(たかゆか)倉庫 で保管されていました。
高床倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするためです。なお、風通しをよくするため、という理由も考えられます。ねずみの害を防ぐという理由の有力な根拠として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床倉庫が見つかっています。弥生時代の多くの住まいは、縄文時代同様、竪穴建物でした。
金属器の伝来
およそ2300年前、青銅器や鉄器などの金属器とその製造法が伝わります。
青銅とは、銅 と すず(金属の1つ)を、とかしてまぜあわせた金属でつくられた合金です[7]。比較的低い温度で溶けて加工することができるという特徴があります。鉄は、今でも身近にある非常に硬い金属ですが、製造するためには、青銅より強い火力を必要とします。世界の歴史では、まず、金属器としては青銅が普及し、続いて実用的な鉄が普及したのですが、日本には、ほぼ同時期に伝来したと考えられ、青銅器は、おもに祭りの道具を作るのに使われ、鉄器が、農具や武器などの実用品につかわれるようになりました。
石器の原料である石に比べると、鉄は加工が簡単で強くするどいものを作ることができるため、鉄の農具は農地を深くたがやすことができるようになり、鉄器で耕した農地は石器で耕した農地より豊かになり、石器を使う人たちを圧倒するようになります。こうして、鉄器など金属器を使い始めると、石器が使われなくなるため、それ以降を石器時代とはいわなくなります[8]
青銅器は表面がさびても形を残す性質があるため、銅(けん)や、銅(ほこ)、銅(たく)、銅(きょう)などが残っています。一方、鉄は、うめられると、さびてボロボロになってしまいますし、鉄自体、貴重なものだった[9]ので、再利用して、あらたな道具として作り直されることが多く、当時のものはほとんど残っていません。


 
登呂遺跡全景
登呂(とろ)遺跡
静岡県の登呂遺跡は、1943年(昭和18年)発見され、1947年に考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われた遺跡です。8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴建物に似た平地建物高床建物を建てたあとが検出されました。この他にも、農耕や狩猟、魚釣りのための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土しました。


 
吉野ケ里遺跡,遠景
吉野ケ里(よしのがり)遺跡
佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、昔から、遺物の出土が見られた土地でしたが、工業用地開発にあたり調査をしたところ、1989年に弥生時代の大規模な集落あとであることが発見されました。
この遺跡は、まわりを(ほり)でかこまれた 環壕(かんごう)集落 であるところに特徴があります。ほりの内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。ほりは集落を守るためにめぐらされたと考えられています。
また、矢がささった人骨も見つかっており、これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが想像できます。おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、それぞれの集落で、さらに多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じ、集落どうしで、土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。このような争いが、身分の差を作っていった理由の一つだとも、思われています。


「むら」から「くに」へ

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「くに」の誕生
こうして「むら(村)」ができると、村同士のあらそいがしばしば起こりました。その原因は、村と村の間に水源がある時にどちらが使うかというものであったり、不作などで食糧が足りなくなったのでとなりの村をおそって食糧をうばったりしたものだったのでしょう。相手の村に対抗するため、別の村と共同してあらそうことがあったかもしれません。
強い村が弱い村をしたがえたり、村同士で共同したりして、村はだんだん大きなものとなっていきます。村が大きくなってくると、人の行き来もふえ、道を作ったりしなければならなくなります。また、人が集まると、人々は同じ農耕(稲作)ばかりではなく、野菜や果物を作ったり、魚をとったり、カゴなど竹細工や木工品を作ったりと別々のことをやって、それぞれ作った農作物や、とった魚や動物、作ったカゴなど工作品とを交換して生活を豊かにすることができるようになります。こうしたものの交換の場として、(いち)ができます。
田を耕したり、物を収穫したりする能力は人それぞれです。村の中にも豊かな人とそうでない人の差はできました。さらに、たとえば、広い田を持つ豊かな人は、田を持たない人に収穫の一部を与える代わりに自分の田をたがやさせたり、貧しい人の子どもをもらってきて育て、やはり、自分の農地で使ったりもしたでしょう。村のあらそいで負けた人々が、このような立場になることもあったとも考えられます。このころには、こうした豊かな人たちと、その人たちに支配される人々の差がでてきました。
村が大きくなるにつれ、ばらばらの人をまとめるリーダーが必要になってきます。リーダーは、ため池・水路や道をつくったり、整備することの指示をしたり、市を開いたり、市でのもめごとをおさめたり(仲裁)、また、他の村とのあらそいでは武器を持って戦ったり、それを指揮したりしたでしょう。このリーダーには、上でのべた豊かな人たちがなったり[9]、そのような人の中で能力が高いために人々が押し上げたりしたのでしょう。知識をたくわえ、(かみ)の声として伝えて、そのようなリーダーになった人もいたかもしれません。
さらに、時間がたつと、村はますます大きくなっていきます。だんだん、このリーダーたちは、自分で田を耕さず、日々の指示や仲裁や戦うことだけを仕事とするようになり、リーダーたちの生活は村の人々が収穫の一部をわけることで成り立つようになります。すなわち、「」です。税の仕組みができた村を「くに」と言います[10]。そして、のちに「くに」のリーダーの、さらに長を「」、女性の場合は「女王」と言ったりします[11]
「くに」は、「むら」と同様に、となりの「くに」とあらそうなどして、大きくなっていきます[12]。このころになると、朝鮮半島をはじめとする大陸としばしば行き来するようになります[13]。「王」の中には大陸から渡ってきたものもいるかもしれませんし、大陸にわたって王になったものもいるかもしれません。
中国との交流
中国には、約5000年前から青銅器を作り、約3500年前には文字(漢字)を使っていた古い文明をもった人々が住んでいました。紀元前3世紀には、大きな国となって、それを皇帝(こうてい)が治めていました。
日本の「くに」の王は、皇帝に(みつ)ぎ物をおくり、関係をもちました。これは、皇帝に貢ぎ物をおくると、そのお返しに数倍の価値の品物を与えられ、また、皇帝によって「くに」の王としての地位が認められたからです。
中国の歴史書には、日本の「くに」が貢ぎ物をおくったことが記録されています。
 
金印。「漢委奴国王」印
  1. 最初の記録は、紀元前1世紀に、当時の(かん)王朝(おうちょう)[14](前漢[15])の朝鮮半島にある役所に貢ぎ物がなされたこと記録されています。当時の日本は「()[16]」と呼ばれ、百数国に分かれていたと書かれています。これが、日本のことが文書に書かれた最初の例です。
  2. 57年、倭の()国が貢ぎ物をし、漢(後漢[15])の皇帝は、金印をさずけました。金印は江戸時代になって、現在の福岡県で発見されました。金印には「漢委奴国王」と書いてあります。これは、一般に「(かん)()(=倭)の()の国王」と読んでいます。「漢が支配する倭(=日本)の奴の国の王」という意味です。
  3. 107年、倭国王が来て、奴隷160人を貢ぎ物として、皇帝に会うことをねがった。文明の進歩していない日本からの貢ぎ物は、おもに人(奴隷)だったことがわかります。
  4. 147年から189年にかけて、倭国の中で大きな戦争があって、国々が互いに争ったことが記録されています。その当時になると、中国も日本に興味を持っていたことがわかります。
  5. 235年、()[17]の皇帝に、使いをおくりました。おくった国は、邪馬台国(やまたいこく)といい、その王は女性で卑弥呼(ひみこ)といいました。
    • この卑弥呼が魏におくった使者については、くわしく記録されており[18]、当時の社会をよく知ることができます。以下にいくつか例をあげます。
      • 百数国あった国は、このころ、中国と行き来のある国は、約30国になった。
      • 邪馬台国は30国をしたがえているが、狗奴国(くなこく)と対立している。
      • 卑弥呼はうらないやまじないで国をまとめていて、その姿を人前にあらわすことはない。
      • 人々は、顔や体に()(ずみ)を入れ、貫頭衣と言われる単純な服を着ている。
      • 養蚕をして糸をえている。牛や馬は飼っていない。
      • 邪馬台国からの貢物は男女の奴隷10人とわずかな布に対して、皇帝は、金印に加えて、大量の錦などの高価な織物や金、刀、銅鏡100枚などを与えた。
    • 邪馬台国の場所は分かっておらず、古くから多くの人が色々な説を出して論争をしています。奈良県と北部九州が有力ですが、結論は出ていません。

「くに」の統一

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古墳時代

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仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)[19]と伝えられている大山古墳。前方後円墳、大阪府堺市
3世紀から4世紀ごろになると、各地で古墳(こふん)といわれる、大きな墓が作られるようになります。古墳には「くに」の王や有力者(豪族(ごうぞく))が埋葬(まいそう)されたと考えられています。この、3世紀ごろから7世紀ごろの時代を 古墳時代 と言います。
古墳は全国に分布しますが、特に九州地方から中国地方をへて、近畿地方にかけて多く見られます。古墳は朝鮮半島南部にも見られ、この地域との関係が深かったことがわかります。
古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に()り上がった古墳を円墳(えんふん)と言います。四角く盛り上がった古墳を方墳(ほうふん) と言います。円墳と方墳があわさったような、かぎ(あな)のような形の古墳を 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん) と言います。大阪府(さかい)市にある 大仙(だいせん)(大山)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。
弥生時代に比べて古墳時代は、古墳作りのような大規模な事業ができるほど人口が増えます[12]。これは、大陸から、牛や馬がもちこまれたり[20]、鉄を製造する技術が普及したためであると考えられています。
なお、このころ、中国は国内が乱れたため、邪馬台国を書いたような歴史書がとだえ、4世紀の様子はあまり伝わっていません。ただ一方で、4世紀末から5世紀にかけて朝鮮半島の北部に倭の軍隊がせめいって北部の国(高句麗(こうくり))と戦ったことが、朝鮮半島の石碑[21]に残っています。このように、この当時も朝鮮半島とは盛んに行き来がありました。


古墳の副葬(ふくそう)
古墳からは、鏡や玉・勾玉(まがたま)(つるぎ)などが副葬[22]されています。ほかにも、埴輪(はにわ) という、土を焼いて作られた筒状のもの[23]が発見されています。これは、時代がくだると、人や牛馬[20]、家や船などをかたどったものが見られるようになります。埴輪から、当時の人々がどのような姿をし、どのような家に住み、どのような船に乗ったのかなど、当時の生活の様子を知ることができます。これら、古墳の副葬品からわかる古墳時代の文化のことを古墳文化と言います。


大和政権

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真ん中の、(たて)に長いものが、発掘された鉄剣(てっけん)
現在の奈良県奈良市周辺、大和(やまと)川上流部の奈良盆地(ぼんち)は、「やまと(後に「大和」の字を当てます)」と呼ばれる稲作に適した豊かな土地[24]で、大和川を下って、現在の大阪府中部周辺も一体となった、この地域における「くに」の王や豪族は、大変有力なものとなりました。それは、この地方に、大きな古墳が数多く発見されていることからもわかります。
この地方の豪族たちは、自分たちのリーダーとして大王(おおきみ)[11]をおしたて、それに従うことになります。この大王(おおきみ)が、現在の天皇の祖先とされ、大王(おおきみ)の政府を大和朝廷(ちょうてい)[25]と言い、この大和地方の勢力を大和政権(やまとせいけん) と言います。
大和政権は、東西に兵を出して、日本の「くに」を一つにまとめようとします
5世紀後半に作られたと見られる埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳から見つかった鉄剣(てっけん)には、「ワカタケル大王」という名がきざまれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。また、熊本県の 江田船山(えだふなやま)古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という、「ワカタケル大王」と考えられる名前が刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲におよんでいたことがわかります。このことから、大和政権は、5世紀後半から6世紀前半にかけて、日本を統一したのではないかと考えられています。
5世紀に入ると中国はやや安定し、南北に王朝ができ、より安定した南の王朝に日本が使者を何度も送ったことが記録されており、これを送ったのは大和政権の大王(おおきみ)(天皇)であろうとされています。
「くにづくり」についての日本神話
日本に、文字(漢字)が伝えられたのは、4世紀後半から5世紀前半にかけてであろうとされています。伝説では、朝鮮半島から渡ってきた王仁(わに)が伝えたとされていますが、その前から、ある程度の読み書きはできていたと考えられますし、1人の伝えたもので、文字が伝わるものでもありません。おそらく、朝鮮半島から、漢字を読み書きできる集団が移住してきて大和朝廷につかえたことの、象徴(しょうちょう)だと考えられます[26]
したがって、文字が伝わるまで日本で何があったのかはよくわかりません。また、文字が伝わった後も、しばらくは書かれたものも少なかったため、記録はほとんど残っておらず、やはり詳しいところはわかっていません。
この時代のことを知るには、出土品などから考古学の方法によるか、中国などに残る歴史書にたよるしかありません。
しかし、文字のない時代にあっても、人々は、いろいろなできごとを、物語にして語り伝えてきました。これを、「口伝(くでん)」といいます。人が記憶によって伝えるのですから、語り伝えている間に、正しく伝わらなかったり、伝える人に都合よくかえられたり、また、よくわからないことについては、神秘的なできごと、つまり、(かみ)さまのやったことにしてしまうなど、正確なものとはいえませんが、元々のできごとを想像させたり、それを語りついだ人々の考えを知ったりすることができます。このようにして、語り伝えられた物語を神話(しんわ)といいます。
日本においても、神話は語りつがれていました。8世紀になって、日本人が漢字を自由に使いこなし、紙なども大量に入手できるようになると、日本の歴史をまとめることをはじめます[27]。この時に、日本神話を多く書き残しました。特に、大和朝廷の成立に関係する神話については『古事記(こじき)』・『日本書紀(にほんしょき)』という書物にまとめます。この二つの書物の名をとって、これらの神話を、記紀(きき)神話と言います。以下に簡単に紹介します。すでにいくつか知っている話もあるかもしれません。別のページでは、もう少し詳しく解説します。
ただし、神話はあくまでも物語です。これを読む時に歴史的事実とごちゃごちゃにならないよう注意しましょう[28]
国産み・神産み神話
男神イザナギと女神イザナミは結婚して、日本の国土の島々を産み、また、さまざまな物事に関するたくさんの神々を産みました。
高天原(たかまがはら)神話
イザナギの子である太陽の女神アマテラスは、神々の土地である高天原(たかまがはら)をおさめますが、弟の男神スサノオが暴れるので、天岩戸(あまのいわと)と言われるほらあなにかくれてしまいます。太陽の神がかくれたので、世の中は真っ暗やみになります。困った神々は策略をめぐらしアマテラスを天岩戸からひっぱりだして、元の平穏な世界にもどります(天岩戸伝説)。スサノオは高天原を追放されます。
出雲(いずも)神話
高天原を追放されたスサノオは、出雲(現在の島根県)に向かいます。出雲で、人々を困らせる大蛇の化物ヤマタノオロチの話を聞き、これを退治し出雲に住んでここを治めます(ヤマタノオロチ伝説)
出雲の神さまであるオオクニヌシは、兄弟の神々からいじめられていましたが、海岸でひどい目にあっているシロウサギを助けるなど優しい心の持ち主であったので(因幡(いなば)の白兎伝説)、多くの人々に受け入れられ、やがて、スサノオをついで出雲を治め、日本全国をおさめることになります。オオクニヌシの国は、オオクニヌシを厚くまつることを条件にアマテラスからの使者にアマテラスの子孫にゆずることを約束させられます(国譲り神話、出雲大社由来)。
天孫降臨(てんそんこうりん)神話・日向(ひゅうが)神話・神武東遷(じんむとうせん)神話
アマテラスは孫のニニギに日本を治めさせることとし、ニニギは天上の高天原から日向(現在の宮崎県)の高千穂(たかちほ)におります(天孫降臨(てんそんこうりん)神話)。
ニニギの子のホオリ(山幸彦(やまさちひこ))は、兄のホスセリ(海幸彦(うみさちひこ))と対立しましたが、ホオリがホスセリをしたがえました(海幸山幸伝説)。
ホオリの孫であるイワレヒコは、日向から船出し瀬戸内海沿岸の国々をしたがえ、大和を征服し、初代天皇である「神武天皇」となりました(神武東遷(じんむとうせん))。
ヤマトタケル神話
景行天皇の皇子であるヤマトタケルは、西に九州の熊襲(くまそ)を平定したのち、東国に向かい、各地を平定しました。

脚注

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以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ それでは、「『竪穴建物』ではない建物」とはどういうものでしょう。柱を固定するのに穴を掘って建てたものを、現在でも「掘立(ほった)て小屋」といって、粗末(そまつ)な建物のたとえに使います(実際に、そのやり方で建てる建物はほとんどありません)。穴を掘って柱を固定するだけなので大変簡単な建物の建て方(工法(工法))ですが、この工法だと、うめられた木材の柱は、地面の水分によってすぐに腐って、建物がだめになります。時代がくだると、地面に大きな石(「束石(つかいし)」といいます)をしいてその上に柱を置き、横組みによって、おのおのの柱が倒れないような工法になりました。こうすることで、木造の建物でも長期間使い続けることができるようになったのです。現在の木造建築の多くはコンクリートで硬い基礎をつくり、その上に置いて固定する工法となっています。
  2. ^ 1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚(向ヶ岡貝塚 東京大学構内)で発見されたためこの名がついています。
  3. ^ 弥生時代の遺跡は、新潟県北部と千葉県・茨城県を結んだ線より西側で発見されており、弥生時代には東北まで稲作ができる品種がなかったと考えられています。
  4. ^ 北部九州の一部では鉄を用いた農具も見つかっています。
  5. ^ 同じような穀物に、小麦やトウモロコシがあります。小麦は、乾燥した土地を好むので日本の気候にあまり合いませんし、トウモロコシは、まだ日本に伝わっていませんでした。
  6. ^ 「むら」ということばは、「むらがる・むれる(集まる)」や「むれ(集まったもの)」と関係があると言われています。
  7. ^ ブロンズとも呼ばれます。銅像の多くの材料は青銅です。皆さんの身の回りにある、もっと身近な青銅製のものは十円硬貨(十円玉)でしょう。
  8. ^ 世界の歴史では、使われる金属器によって「青銅器時代」「鉄器時代」ということもあり、現代も含めて「鉄器時代」ですが、皆さんは覚える必要はありません。「石器時代」が終わったことだけ理解しておいてください。
  9. ^ 9.0 9.1 鉄は、材料となる砂鉄や鉄鉱石が日本では希少で、製造に大量の炭を使い、鍛治(かじ)という特殊な技術が必要であったため、当時の生活から見るとかなり高価なものでした。
  10. ^ 「くに」ということばは、「むら」ほど明確な関係は、わかっていませんが、「()む」「(くみ)」と関係があるとも言われています。
  11. ^ 11.0 11.1 「くに」の長については、当時の言葉が残っていないので、中国語の考え方(漢字)を当てています。少し後の時代に、「主人」という意味で「きみ(君)」と呼ばれていたらしいとも考えられています。「くに・くむ・くみ」と少し似ていますね。「きみ」を支配するものが「おおきみ」です。
  12. ^ 12.0 12.1 弥生時代の日本の全人口は60万人くらいだったのではないかといわれています。次の古墳時代の終わりころになって、ようやくその10倍くらいになります。紀元前1世紀頃は100数カ国あったとされる(これは、九州北部から近畿地方までと考えられていますから、おそらく200以上はあったでしょう)ので、「くに」といっても、人口数千人から数万人の規模であったと考えられます。
  13. ^ 稲作や金属器製法の伝来は大陸からなので、それ以前も行き来はあったでしょうが紀元前1世紀くらいから特にふえます。
  14. ^ 同じ家系の皇帝によって治められた時代を王朝と言います。
  15. ^ 15.0 15.1 漢は一度ほろぼされましたが、一族がまた王朝を開きました。滅ぼされる前の王朝を「前漢(ぜんかん)」、新しくできた王朝を「後漢(ごかん)」と言います。
  16. ^ なよなよした人、背が低い人(矮)などの意味で、あまり良い意味ではありません。
  17. ^ このころ、中国では後漢はほろぼされ、「魏」が最も有力な王朝となっていました。
  18. ^ この歴史書を、『魏志(ぎし)倭人(わじん)(でん)』と言います。
  19. ^ (りょう)」とは天皇や皇后といった皇族のお墓の呼び名です。「仁徳天皇陵」とは仁徳天皇のお墓という意味です。
  20. ^ 20.0 20.1 『魏志倭人伝』には、「倭には、馬や牛はいない」と書かれていますので、この時代(古墳時代)に伝わったことがわかります。馬は、漢字の音(昔の中国語の音)で「マ」と発音しますが、それがなまって「うま」となったとされています。
  21. ^ 好太王(こうたいおう)の碑」といいます。
  22. ^ 遺体とともに埋葬されることを言います。
  23. ^ 「はに」-土で作ったもの、「わ」-円形のもの、で、「はにわ」と言います。
  24. ^ 現代の考え方では、多くは川の下流の海に近い広い低湿地の方が稲作に適していると考えられていますが、そのような土地は水害に弱く、江戸時代くらいになるまでは、このような盆地や台地で水の豊富な土地が稲作の中心でした。
  25. ^ 天皇を中心とした政治の仕組みを朝廷(ちょうてい)といいます。
  26. ^ 実際に、王仁の子孫とされる西文(かわちのふみ)氏は、朝廷に(ふひと)という書記の役職で朝廷につかえます。
  27. ^ 次の章の「奈良時代」で詳しく説明します。
  28. ^ たとえば、ここに紹介する神武天皇の話は『古事記』によると、約2700年前の話になるのですが、そのころに、鉄などの高度な文明があったことは、考古学上発見されていません。

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