「小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり」の版間の差分

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:さらに、時間がたつと、村はますます大きくなっていきます。だんだん、このリーダーたちは、自分で田を耕さず、日々の指示や仲裁や戦うことだけを仕事とするようになり、リーダーたちの生活は村の人々が収穫の一部をわけることで成り立つようになります。すなわち、「'''税'''」です。税の仕組みができた村を「'''くに'''」と言います<ref>「くに」ということばは、「むら」ほど明確な関係は、わかっていませんが、「{{ruby|組|く}}む」「{{ruby|組|くみ}}」と関係があるとも言われています。</ref>。そして、のちに「くに」のリーダーの、さらに長を「'''王'''」、女性の場合は「'''女王'''」と言ったりします<ref name="王">「くに」の長については、当時の言葉が残っていないので、中国語の考え方(漢字)を当てています。少し後の時代に、「主人」という意味で「きみ(君)」と呼ばれていたらしいとも考えられています。「くに・くむ・くみ」と少し似ていますね。「きみ」を支配するものが「おおきみ」です。</ref>。
:「くに」は、「むら」と同様に、となりの「くに」とあらそうなどして、大きくなっていきます<ref name="人口">弥生時代の日本の全人口は60万人くらいだったのではないかといわれています。次の古墳時代の終わりころになって、ようやくその10倍くらいになります。紀元前1世紀頃は100数カ国あったとされる(これは、九州北部から近畿地方までと考えられていますから、おそらく200以上はあったでしょう)ので、「くに」といっても、人口数千人から数万人の規模であったと考えられます。</ref>。このころになると、朝鮮半島をはじめとする大陸としばしば行き来するようになります<ref>稲作や金属器製法の伝来は大陸からなので、それ以前も行き来はあったでしょうが紀元前1世紀くらいから特にふえます。</ref>。「王」の中には大陸から渡ってきたものもいるかもしれませんし、大陸にわたって王になったものもいるかもしれません。
;中国との交流<span id="中国との交流"/>
:中国には、約5000年前から青銅器を作り、約3500年前には文字(漢字)を使っていた古い文明をもった人々が住んでいました。紀元前3世紀には、大きな国となって、それを{{ruby|皇帝|こうてい}}が治めていました。
:日本の「くに」の王は、皇帝に{{ruby|貢|みつ}}ぎ物をおくり、関係をもちました。これは、皇帝に貢ぎ物をおくると、そのお返しに数倍の価値の品物を与えられ<span id="朝貢"/>、また、皇帝によって「くに」の王としての地位が認められたからです。
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:#107年、倭国王が来て、奴隷160人を貢ぎ物として、皇帝に会うことをねがった。文明の進歩していない日本からの貢ぎ物は、おもに人(奴隷)だったことがわかります。
:#147年から189年にかけて、倭国の中で大きな戦争があって、国々が互いに争ったことが記録されています。その当時になると、中国も日本に興味を持っていたことがわかります。
:#<span id="邪馬台国"/>235年、'''{{ruby|魏|ぎ}}'''<ref>このころ、中国では後漢はほろぼされ、「魏」が最も有力な王朝となっていました。</ref>の皇帝に、使いをおくりました。おくった国は、'''{{ruby|邪馬台国|やまたいこく}}'''といい、その王は女性で'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#卑弥呼(ひみこ)|卑弥呼]]|ひみこ}}'''といいました。
:#*この卑弥呼が魏におくった使者については、くわしく記録されており<ref>この歴史書を、『{{ruby|魏志|ぎし}}{{ruby|倭人|わじん}}{{ruby|伝|でん}}』と言います。</ref>、当時の社会をよく知ることができます。以下にいくつか例をあげます。
:#**百数国あった国は、このころ、中国と行き来のある国は、約30国になった。