完全表記と不完全表記で挙げた母音字による母音表記のうち, (2)「一つの母音字の母音としての音価が一つだけでないこと」と (3)「同じ母音が別々の文字であらわされること」 は他の言語の表記法にもみられるものであるが, (1)「同一文字が子音・母音の二重の音価を持っていること」 (4)「同一の語でありながら完全表記と不完全表記とが共存すること」 (5)「すべての母音が表記されるのではないこと」 はこの母音表記法が間に合わせ的な方法であることによる. いずれにしても,もともと子音だけを表記すれば事足りたのは,ヘブライ語の仕組みの然らしめるところであって,ヘブライ語を知っている者にとっては、これで十分なのである。 事実,現代ヘブライ語でも,依然としてこの表記法が守られているのである.
さて古代ヘブライ語は,紀元前 6 世紀頃から次第に,日常生活における主役の座をアラム語に譲り始め, 紀元 3 世紀には完全に姿を消してしまった.そうでなくても聖書ヘブライ語はユダヤ人にとってますます古い言語になっていった. そしてその表記法が上に述べたような欠陥を含むものである以上,聖書本文についていくつもの可能な読みのどれが正しいのかという問題が起こってくる. こうして,読みの曖昧さを除去し発音を明確に伝承するため,発音符号を本文に付けようという試みが,パレスチナやバビロニアのユダヤ教伝承学者(マソレト)の間でなされ, 三つの方式が今日に伝えられている. そのうち,8-10世紀にティベリア (Tiberias, ヨハネ福音書623 に言及されているガリラヤ湖西岸の都市.2 世紀末以来ユダヤ教学者の一大中心地であった)の伝承学者たちが考案した, ティベリア式と呼ばれるマソラ( מַסּוֹרָה 《伝承》)符号は,母音だけでなく,子音の発音や礼拝の際の朗唱のための音調までも,詳細に規定したものである. こうして本文の読みを一義的に決定することによって 彼らは聖書に対する解釈をも示したのであった. いずれにせよ,現存の聖書写本中,全巻完備した最古の写本たるレニングラード本(Codex Leningradensis(1008-9)) は,ティベリア式マソラ符号をそなえたもので, 現在我々が用いる刊本(例えば Biblia Hebraica Stuttgartensia (1967-77) はこれに拠っているし, ヘブライ文字による現代ヘブライ語の表記で母音を明示する場合もティベリア式の母音符号を用いる.
ティベリア式符号は,アクセント符号まで含めると,全部で数十種にのぼるが,是非知っていなければぬものは,それほど多くない.