11.4 前置詞の説明
文1 の前置詞 אֶלは「方向」を表し、我々の ヘ に近い。そして ヘ が ニ と殆ど同義的であるように אֶל は 10.3 で学んだ לְ と意味の重なる部分があるが、לְ ほど多義的ではない。לְ は、10.3 で見た「所有」の意味からもうかがえるように、総じて対象(この場合、前置詞の支配する名詞によって表されるもの)と主体(この場合、その前置詞句と結合された名詞句によってあらわされるもの)との密着関係を表す。従って方向を表す文脈(名詞文では主体の表す意味によって判断される)においては、לְ がその対象を接近し得る目標として捉えるのに対し、אֶל は対象への志向性を意味する、と考えられる。
文2、文3の前置詞 עַל の基本的な意味は「上」であるが、英語の on のように、様々の派生的意味においても用いられる。
文3の前置詞 כְּ はだいたい主体と対象との「類似」を表し、英語の前置詞では as が一番これに近い、と考えられる。
文4の前置詞 עַדは、מִןが原点・起点を表すのに対し「到達点」を表し、日本語の マデ が一番近い。מִן と組になって「…から…まで」を表すとき、ここのように עַד の前に接続詞 וְ が置かれることがあるが、これは義務的ではない。例えば
מִנֶּגֶב וְעַד־בֵּית־אֵל 《ネゲブからべテルまで》
מִן־הַבֶּטֶן עַד־יוֹם מוֹתוֹ 《(母の)胎から死の日まで》
מִנָּבִיא וְעַד־כּׂהֵן 《預言者から祭司に至るまで》
מִטּוֹב עַד־רַע 《善から悪まで→善も悪も》
文5の עִם は、日本語の助詞のうちでは ト に一番近く、対象が主体の相手であること(「神我らと共に」「敵との戦い」)、ひいては同時性(「トンネルを抜けると…」)まで表す。しかし「…と言う」のようには用いられない。
文6の אִתִּי は אֶת に一人称単数代名詞が接尾した形だが、אֶת は対象が主体のそばにいるという関係を表すと考えられ、やはり ト に近いが、עִם のような同時性の意味はない。
文7の תַּחַת は「下」で、独立においても用いられる名詞であるが、圧倒的に多くの場合、連語形で他の名詞の前に置かれ、前置詞として機能している。「代わり」を意味することもある。例えば
זֶרַע אַחֵר תַּחַת הֶבֶל 《アベルの代わりの別の子種》
文8の בֵּין は「あいだ」という名詞で、前置詞としては、多くの場合ここの例のように בֵּין を繰り返して וְ で結合される。だから直訳すれば「イスラエルの間とペリシテ人の間」ということになる。
以上に見たように、ヘブライ語の前置詞が日本語の名詞で訳されるとき、その連語的性格は日本語訳にもそのまま反映する。例えば
בֶּן הָאִישׁ 《その男の息子》
אֶת הָאִישׁ 《その男のそば》
しかし日本語の名詞句は格助詞なしでは文中で機能しないのが普通だから、この場合 ニ や ヲ 等を添える必要があるのに対し、ヘブライ語にはそのような、いわば純粋の、格助詞は存在しないのである。このことは、例えば例文5で「この四十年」という名詞句がそのままで副詞句の働きをすること(この点は日本語も同じ)、属格関係が連語句で表現されること、そして、〈主部-述部〉関係や、同格関係が何ら表面的な標示なしに表されることと、関連しているのである。例えば
דָּוִד בֶּן־הָאִישׁ 《その男の息子ダビデ》または《その男の息子は(が)ダビデだ》、
דָּוִד אֶת־הָאִישׁ 《その男のそばのダビデ》または《その男のそばにダビデがいる》。