高校生活ガイド/推薦入試や総合型選抜などに向けて 補足
大学入試の総合型選抜でどうしても部活などの能力をアピールしたいなら
編集神戸大学付属の中等教育学校(いわゆる中高一貫校)の、探究論文のためのガイドライン中で「課題研究の成果として論文以外の制作を伴う研究のガイドライン」として、下記のように言われています[1]。べつに総合型選抜の自己アピール書は論文ではないので、下記のままに従って書く必要は無いですが(そもそも文字数制限があるので、自己アピール書に論文は書けない)、しかし論文というのは下記のような書き方ですし、下記を高校生に要求している国公立の高校も日本に存在します。
第 1 版(2023 年 4 月 4 日) 課題研究の成果として論文以外の制作を伴う研究のガイドライン
- 制作物のみをもって論文の完全な代替とすることは認めない。あくまで課題論文の提出は全員に求
める。
- 課題論文に別添する形で、制作物やその写真、実演の録画を提出することは認める。その場合、課
題論文の規定字数相当の内容があるか否かの判断は、制作物の量・質を考慮して行うものとする。
- 具体的には、課題論文の序論・結論に相当する部分が制作物により代替されうるとは通常考えられ
ない。一方、本論に相当する部分の大部分を制作物により代替することは十分に考えられる。
- 序論には本研究の社会的・学問的(芸術的)意義を述べるとともに、本研究で取り組む問い、もしく
は明文化された問いの形になりづらければ課題について明記することが求められる。5 年生以上は 先行する制作の事例について分析し、本研究の新規性について明記することも求められる。
- 本論部分では、序論で述べた課題を解決するための制作方針について述べるとともに、実際の制
作物やその写真、実演や制作物作動の様子の録画を添付する。
- 何らかの課題を解決するための制作方針が明記されていることは、制作が研究として認められるた
めの必須要素であり、これがない制作は本校の課題研究としては認められない。何らかの創作を伴 う制作であればその創作方針が明示されるべきである。既存作品(楽曲等)の実演を制作物として 課題研究とする場合は、それに対する自身の解釈や、身体操作の独自の工夫などを実演方針として 明示することが求められるのであって、解決すべき課題に特に対応しない実演や単なる模倣は本校 の課題研究としては認められるものでない。
- 結論部分では、別添した制作物によって序論で明示した課題が解決されたことを主張することが求
められる。加えて、本研究において解決しきれなかった課題を展望として述べることも推奨される。
文中に「5年生」とあるのは、中高一貫校なので、中学からの通算の年数を数えている(高校2年生に相当)。
本節では、文学部や経済学部や法学部などへの総合型選抜を念頭に、話します(美大とか音大とかは念頭に置いていません。また、私大の体育学部なども念頭に置いてません。)
「高校生が部活などで頑張ったのは分かった。」「問題は、それ、志望する大学での研究と、どう関係あるの?」、これを説明することが望まれます。
なのに、なんの説明もなく、「制作物のみをもって」(論文の完全な)「代替とすること」は、社会通念上、認められないのです。
特に国公立の大学の場合、税金を使って大学が運営されているので、研究に社会的・学問的(芸術的)な「意義」の説明がなければいけません。志望者に、説明責任があります。
単に、「スポーツが得意」とか「絵が上手い」とか、それは建前上は、国公立の総合型選抜では求めていないでしょう(私大はどうか知らない)。そういうのは、私大の「スポーツ推薦」とか「文化活動推薦」みたいな、別の方式の推薦を受けてください。
上記引用中に「 何らかの課題を解決するための制作方針が明記」とあるように、部活などの活動の努力や成果(客観的に第三者機関によって証明できる成果)を、社会の課題解決にどう結び付けるかが、言えることが望まれます。
実際に、社会の課題を解決することまでは、要求されていません。金銭的・時間的に、解決までは無理です。そもそも長年のあいだ解決できなかった社会課題だから、たかが高校生ごときのお子様でも発見できる「課題」として残っているのです。
自身で解決しようとするのではなく、これから、学問の力によって、課題の一部でいいので、解決までの道すじを社会でつくろうとする事に、あなたも協力するために自発的にあれこれすることが望まれているのです(具体的に何をするかは個々人による)。
基本的に、学問の多くは、再現性や言語化を重視します。分野によっては、再現性だけは低い分野もあるかもしれませんが(たとえば歴史学などは実験が不可能なので、再現性は低いかもしれない)、しかし言語化はそれでも可能なはずです。
美大や音大などは例外かもしれません。しかし、もし文学部や経済学部や法学部などを志望するなら、言語化をして、税金をあずかっている国公立の大学教員たちの納得のいく説明をできなければいけません。
もし、そういう言語化がイヤなら、そもそも文学部や経済学部などの学問に向いていません。文学作家に向いているかどうかは知りませんが、しかし文学部の国文科と言うのは決して小説家の養成所ではありません(そういうのは専門学校です)。例えるなら、文学部の歴史学科の研究者が、たとえ戦国大名を研究することはあっても、研究者自身がけっして大名になる必要は無いのと同様に、文学部の国文科では小説家になること自体は求められていません。
ましてや、国公立の大学の文学部などは、断じてスポーツ選手の養成機関でもありません。
上記の当wikiの説明では、説明の都合上、国公立を例に説明しましたが、私大の志望でも上記のような事はすこしは考えるべきでしょう。私大だって、私学助成金などの税金の財源とした補助金をもらっています。また、大学教授は科研費などの補助金を国からもらう際、国への説明責任があるわけです。
上記の引用が出来たからって、合格するかどうかは知りません。ただ、割とハッキリ言えるのは、もし上記の引用が出来ない人が合格しても、例外としてスポーツ推薦で難関大に合格するような余程(よほど)の業績ではないかぎり(全国大会のトップ8入りとかでないかぎり)、研究への情熱の評価ではなく、単に全国大会などの業績によるスポーツ推薦・文化活動推薦が適用されて合格したに過ぎない、という事です。
文学とか美術学・音楽学ならともかく、それ以外の学問を目指す場合、あくまでスポーツや美術や音楽などは、なにか知的なことを求めるなら、人生の指針の参考の一つにすぎません。
竹内 健『XユーザーのKen Takeuchiさん』 (※ 竹内氏は、東大・中央大の電子工学の教授です)
Ken Takeuchi @kentakeuchi2003
スポーツやアート・芸術に惹かれるのは、研究者としての創造性・インスピレーションのヒントを得たいから。加えて、アイデアを実装してリアルにするための、マネジメント・組織運営のヒントを学びたいからなんだよなあ。アート・ミュージカル・スポーツを見てても、自分の研究が常に頭の中にある。
午前10:09 · 2024年7月7日
たとえば作家の世界では、理論を構築するよりも、実際に作品を構築する事が偉く、理論はその手段に過ぎませんので、作品を最終的につくらないかぎりは無能として扱われます。これはこれで、彼らの業界内では合理的な手法です。
ですが、法学や経済学などの学問の世界には、作家のその慣習は、なんの関係もありません。どんなに創作をしようが、それをもとに、経済・経営など社会科学に使えそうなアイデア出しの手法や、あるいはチーム・マネジメントの手法などを見いだせないかぎり、無意味なのです。
作家の世界が「作品を最終的に作らない限り、無能として扱う」なら、それと同様にまた、名作を見たり模写したりしようが自主制作しようが「最終的に、社会科学・工学に使えそうなアイデア出し手法・マネジメント手法などを見いだせない限り、単に遊んでいるだけの無能として扱う」なのです。でなければ、「小学生の学校の鼓笛隊クラブの女の子のほうが、芸のできない一般の法学部生よりも頭いい」ことになってしまいます(背理法)。
法学部・経済学部などを目指す場合、あくまで、スポーツだの映画だのは異業種の観察対象としての事例のうちの一つにすぎません。
映画など作家の世界で、「作品を最終的に作らない限り、無能として扱う」は、これはこれで彼らの業界内では合理的であり、というのも、理屈では「もっともらしそう」に聞こえるアイデアでも、実際に試作品を試してみたら、問題点が多く見つかるアイデアというのも、かれらの世界では昔から言われている事だからです。無能扱いしてくる人は、べつに嫌がらせなどで言っているのではなく、守秘義務とか機密保持契約とかある業界の中で、なんとか分かるように親切心で、業界志望者にそう指導しているわけです。「心・技・体」のうち、理屈っぽい技だけでなく、作品を完成させる等して、批判的な人を黙らせる力が必要なのでしょう。
しかし、作家志望者でない人々には、そのチカラの風習は、何の関係もありません。法学部や経済学部や理系を志望する人に必要なチカラは、国数英理社などの学力です。必要なチカラが、まったく異なります。
にもかかわらず、インターネット上には、「文科系の大学では、創作をしなければ価値が無い」とか意味不明な事を言っている頭おかしい人が、よく、2ちゃんねる系まとめサイトに出現します。おそらく、「文科」と「文化」の区別がつかない外国人、つまり同音異義語を知らない外国人でしょう。ネット上の宣伝工作のバイトでは、1000文字で330円をもらえるバイトがあります。彼ら外国人の誤字脱字を見ると、日本語キーボードではありえない種類の誤字脱字をしているので、外国人の仕業だと分かります。
文学部ですら、べつに文学部というのは国文学科だけではありません。歴史学科や心理学科や英文科も文学部です。なぜ、歴史学科で、たとえば戦国時代の研究をしている人が、なぜ小説を書かなければいけないのか、支離滅裂で意味不明です。移民のネット工作員は、このように意味不明な主張をします。歴史学科は、歴史の勉強をする学科です。小説の書き方は、関係ありません。地理学科も、地理を研究する学科です。小説は関係ありません。
どうも頭の悪い人は、文学部というのを、小説の研究の学科だと思ってるようです。
昭和の大卒の少ない時代ならともかく、さすがに2020年代にもなって、文学部というものを小説を研究する国文学科だけだと思っているのは、バカすぎる。低学歴すぎる。何一つとして社会科の勉強をしていない無知を、さらけだしてしまっている。
困ったことに、コンテンツ産業人にも、こういう頭悪い外国人と同レベルのことを言っている人がいますが、淘汰されません。きっと消費者のレベルに比例をしているのでしょう。
さて、コンテンツ産業では、消費者になりそうなターゲット層を定めます。そして、ターゲット層ではない人々からの批判や疑問などは無視、後回しをします。それはそれで、彼らの仕事としては合理的です。予算は有限ですので、ターゲット層のみに集中的にサービスを提供するのも合理的です。
しかし、けっして、作家になるわけでもない高校生や中学生までもが、それを真似てはいけません。
たとえば法学部を志望する人が、映画マニアだったとして、映画産業のターゲット層以外を無視・軽視しようとしても、
その志望先の法学部の教員たちがそもそもコンテンツ産業のターゲット層以外です。
経済学部や法学部などを志望する受験生なら、その受験生自身がターゲット層にしなければならない相手は、その経済学や法学の知識人や、その学問を学んだ人材に相談をする客層です。決して、ターゲット層を間違えてはいけません。
そして、美術や音楽を経済学・法学に応用する場合は、たとえプロやセミプロの美術家や音楽家が納得しなくても、経済・法律分野のターゲット層である経済人や経済系人材・法律系人材さえ納得させられれれば良い。けっして、「作品をつくって作家たちを納得させる」なんて意気込みをもってはいけません。ターゲット層を大きく間違えています。
経済人や法律人材との話のなかで、たまたま話題が美術や音楽の話になったときに、相手をそれなりに納得・感心させられれば良いのです。
分かりやすく例をあげましょう。たとえば「ゆとり教育」時代の教育評論で、お茶の間でテレビで政治討論番組を親子で見ていて、テレビの人が「今の時代は学歴などの競争にとらわれる必要はない。いまはマンガやアニメなどのコンテンツ産業だってあるのだから。」と2005年くらいに言ったとしましょう。ビジネスマンの父親から「どう思う?」って子が聞かれたときに、子が
「この評論家は間違っていると思う。少年ジャンプは人気投票があって、投票の結果が悪くて単行本の売れ行きが悪いと連載が打ち切りだって昔から有名だし。最近はどうか知らないけど。少年ジャンプで連載していた漫画家の江川達也は、雑誌スパのコラム連載で最近、マンガ業界は競争のきびしい業界だと言っていたくらい。他の漫画家も、同じような事を言っていたはず。たしか、小林よしのりという漫画家がいて、似たような事を90年代に言っていた。漫画家は、連載が打ち切られたら、無職だと。だからヤクザモンの業界だって。 あと、アニメ業界だと、とにかく残業が多いので有名。 少なくとも評論家の、マンガやアニメが「競争」でないという論理は間違っている」とか、こういう風に論拠と見解を出せればいいのです。
べつに、少年ジャンプにマンガ原稿を持ち込むをする必要はありませんし、ネットにイラストをアップロードする必要もありません。そんなのは、父親は求めていないでしょう。
こういう議論ができるようになるためには、まず土台である、経済知識や法律知識、さらには国語・数学・理科・社会・英語の学力もそれなりに固める必要があります。
そういうのが分からない人は、社会の底辺です。そういう世界を知らないだけの人です。
どうも世間には、映画などテレビ番組など娯楽のフィクションの産業だけ、および、せいぜい加えて芸能ニュースだけを「経済・産業」だと勘違いしているかのような人が、チラホラいます。作家に就職したわけでもないのに、好きな産業以外のターゲット層を無視する病理がありますが、単なる心の病気です。
まるで、マンガ『ドラゴン桜』を読んだだけで、なんか猛勉強したつもりなっているアレと同じです。「東大を目指しただけで、東大に合格できる努力をしたつもり」とか「地元の国立大を目指しただけで、地元の国立大に合格できるほどに努力したつもり」になっている人たちと同レベルか、それ以下です。
どの文化の鑑賞でも「現実を忘れさせる瞬間」にいつまでも浸り続けてはいけません。酒やタバコと同じになります。「真・善・美」(しん・ぜん・び)という格言があります。学校の卒業までの期間といった一定の範囲内に、文化に投入した時間に比例する価値のある「真実」に到達できなけれれば、それは、単なる遊びの現実逃避なのです。
商売人のスポーツ選手や作家などから「ご声援、ありがとうございます」などと褒めてもらえても、その人たちはアナタの人生に何の責任も持ちません。
「スノビズム」という言葉があります。教養のあるフリをする態度です。大学で求められるのは、けっして教養のあるフリのスノビズムではなく、実際に学力があるか、もしくは研究能力があるか、です。大学は本来、あくまで、学問の研究と教育のための機関だからです。それ以外の事は、大学でない場所でも可能です。
文化人たちが何を言おうが、どんなにスポーツや芸術の実演が出来ても、アマチュア級に留まる限り、最終的にはそれを通して学力や知能や判断力などを高めないかぎりは、単に自分が社会の競争から置いていかれるだけであり、入試や就職活動などの際に、現実を突きつけられるだけなのです。
上記の神戸大付属の卒論の方針のなかに、「何らかの課題を解決するための制作方針」とあります。
世の中には、課題の解決の意識の無いくせに、「自分は建設的だ」と勘違いしている人も多く存在します。
たとえば、本音では問題解決するのが目的でなく、自己顕示が目的で、「世間の目から、私は「問題解決する生産性の高い人物」だと、見られたい」という願望があるだけの、しょうもないフリーライダー的な人物も世間には多くいます。しかもタチの悪いことに、本人は「自分は建設的であり、問題解決力がある」と勘違いをしていたりします。
教育評論は、そういう人をひきつけやすい分野のひとつです。義務教育は誰もが受けるので、誰でも経験をした事があるからです。また、ある種の芸術なども、そういう人をひきつけやすい分野です。
とりあえず、教育のほうを述べましょう。
SNSなどのアマチュアの教育評論の投稿を見ると、教育を語るくせに、たとえば論理的思考の重要性をかたるくせに、自分自身はたとえば統計にもとづいた議論をできない、たとえば建設的な議論をできない、・・・そういうダメな人達は多くいます。
プロの教育評論家の情報にもしマチガイがあったら、単に修正の必要性を伝えればいいだけですが(もしくは、自分で教育評論をネットで始めればいい)、しかし、やたらと相手の評論家のマチガイをあげつらって文句ばかり言う人も、SNSの教育評論のフォロワーには多くいます。
まるで匿名掲示板あたりの、よくてヤジウマと変わらない水準で、ネットでは教育評論が多く語られています。
たとえ、書籍などを出版するようなプロの教育評論家の本人自身は建設的であっても、その読者がまったく建設的でなく文句ばかり言う人である場合も、少なくないのです。政治や教育などは、誰もが参加せざるを得ないため。建設的でない人も議論に多く参加してしまっています。
具体的な議論、たとえば「教科書や学習指導要領のカリキュラムのどの単元を、具体的にどこをどう変えるか?」とか、そういう具体的な議論はせずに、単に「教育は大切だ!」、「教育は国家百年の計だ!」とか漠然と言うだけの教育評論ファンとか世間には多くいます。
そいつに言われるまでもなく、教育が大事なことは有権者の多くは分かっています。だから税金で小中高の教育が支えられているのです。議論すべき問題は、限りある税金のなかで、どこをどう重点を置く配分をするか、代わりにどこを削らざるを得ないか、あるいは増税をすべきなのか、そういうトレードオフの議論を客観的な論拠をもって行う事です。
「教育が大事だ」とか言って、自分と関係ない大学受験の偏差値を追いかけて「〇〇大学の偏差値が2ポイント、あがった」とか受け身の情報ばかり調べてばかり(単に予備校が発表した情報や分析を聞いているだけ)。
その「偏差値が2あがった」とされる大学の過去問を解くようなことすらもせずに、それどころか一般的な受験参考書での勉強すらせずに、最近の高校カリキュラムの具体的な中身も知らずに(2022年に大幅に指導要領が改訂しています)、単に模試の発表する大学偏差値を追いかけるだけで、自分まで勉強ができる気になった、アタマのヘンなヒトは多いのです。
教育産業の問題解決をするのが目的ではなく、まるで競馬で「どのウマが勝つか?」を予想するゲームのように、
「どの大学が偏差値競争に勝つか?」という勝ち馬を予想するゲームをしているだけの人たちです。そういう遊び人のいう教育評論は、真に受けてはいけません。元ネタの予備校などの分析はまあ参考になるので、話半分に聞きましょう。
まるで、プロ野球を鑑賞して、自分も野球が上達したつもりになっている、アタマのヘンな人と同類です。そういう人でも、教育評論をします。カンフー映画をみて強くなったつもり的な。
芸術の界隈の中にもいるでしょう。たとえば名画を見て、「自分も絵が上手くなった」的な。それと同類です。名曲を聴くのも同様でしょうか。
一般的な学部の大学受験の総合型選抜において、課題解決をする気が無い人は、課題解決に向けて動いていない人は、それと同じ扱いをされるわけです。高校生だと、資金力などに限りがあるので、直接的な課題解決は不可能です。しかし、だからといって、課題解決を将来的にもする気のない人、課題解決の負担を他人にばかり押し付ける人も、同様です。
歴史漫画や歴史小説ではなく、歴史をまず学べ
編集戦前から、進学校の生徒は、実は学業以外と体育以外は、あまりしていません。よく「読書が教養」とか言われますが、しかし小説など空想の読書に関する限り、それは戦前の学生の教養に反しています(証拠は後述)。マスコミで宣伝される小説・マンガなどの物語は、当然ながら商売の都合です。
実際には、歴史小説などを読むよりも、まずは歴史学そのものを学ぶほうが知識人のあり方です。これはもう、昭和の学生モノの小説『ああ玉杯に花受けて』でも指摘されている事です(青空文庫でも読めます 『佐藤紅緑 ああ玉杯に花うけて』 )。この小説は、旧制高校生(今の大学の前半あたり)と旧制中学(今の高校あたり)たちの学生生活を描いた、バイブル的な本です。
証拠として、作中の下記のような一節があります。
「そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたければ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役者が扮した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、しずかに考える方がどれだけ面白いか知れない、活動の小屋は豚小屋のようだ、はきだめのようだ。あんな悪い空気を呼吸するよりも山や野やただしは君の清浄な書斎で本を読むほうがどれだけいいか知れない、活動なんていやしいものを見ずに、もっとりっぱな趣味を楽しむことはできないのか、高尚で健全で男性的な趣味はほかにいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、きみはそれを考えないのか」
こういう意見は都合が悪いから、けっしてテレビなどのマスメディアには出ませんが、しかし、日本のある種の高学歴の大人たちの本音はこうです。
一応、ノンフィクションの娯楽も、歴史学の研究に役立った事例もあります。NHkの大河ドラマなどで、たとえば戦国大名の伊達政宗(だて まさむね)のような、歴史上の人物のドラマが放映されたりした際、いままで史料を隠していた古くからの寺社などが、この機会にと史料を公開してくれたりする事もあるらしいです。正しさだけでは世の中は動かないのも、また社会の真実です。清濁(せいだく)併せ吞む(あわせのむ)ことが大人には要求されます。
恋愛評論家の藤沢数希は、下記のようにSNS(ツイッター)で述べています。
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa あと、当たり前の真実はあまり語られない。情報のボリュームで判断すると、間違った方向にばかりいく。真実はただそこにあるから。作り出さなければいけないものは偽りだけ。 午後2:09 · 2018年12月15日
Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa 真実が語られる量は大変に少なく、さらに真実は耳障りの悪いものが多いので、ネットでも本でもふつうに情報収集してると、どんどんダメな方向に行く。 午後2:10 · 2018年12月15日
「著作物を作ることが偉い」「作品をつくる事が偉い」「人を楽しませる事は素晴らしい」・・・という発想は、一般的な学問を目指すなら、すてたほうが良さそうです。それはあくまで、作家の業界のなかでの業界内での創作ノウハウに過ぎません。
ビートたけしの言うように、芸をする人よりも農家でお米などを作る人のほうが偉いのが世界の真実です。農家で銅像が立った人は少ないでしょうが、偉いのです。
現代の教育に対する反対意見はメディアによく取り上げられますが、しかし賛成意見は取り上げられません。しかし現実には、賛成意見も多いのです。
結論から言うと、普通科高校の高校生の多くにとっては、放課後の生活も、部活・委員会のほかの時間は、なるべく5教科を中心として学校の予習・復習および受験の勉強をしておくのが、いちばん得です。時には、探究活動などに充てるのも良いかもしれません。
せっかく「人生勉強のため」と思って小説やら哲学書・思想書などを読みあさっても、あまり大人社会では高くは評価されません。なぜなら、多くの大人が子供にやってほしいのは、大人だとやりづらい事、それを求めています(例外的な大人もいます)。大人になってからスポーツを始めたり、音楽を始めるのは、場所や設備の確保などで、かなり大変です(けっして不可能ではないですが)。
大人になってから小説はいつでも読めるし、そもそも大人の本人でも読めるからです。小説などを読んでもいいですが、あまり時間をかけすぎないようにしましょう。
例外として、将来の夢として、「作家そのもの・小説家そのものを強く目指している」とかでないかぎり、小説などを長々と数十冊も読む必要は無いのです。ここでいう「強く目指す」とは、たとえば年収が平均値を下回ってでも目指したいとか、残業が多くても目指したいとか、そういう意味です。
学校が提供する部活や委員会などの活動内容は、それなりに合理的です。なぜなら、規制の多い公立高校はともかく、名門私立高校だって決して何も考えない馬鹿じゃないし、大学付属校だってバカじゃないのです。そういう私立高校でも部活などを採用している以上、それなりに合理的です。
5教科についても、高校で習う事は基本的に、独学しづらい内容です。独学は決して不可能ではないですが、しかし独学だと、なかなか手こずって習得に時間のかかる内容です。なので、高校生の今は、普通科高校の人は、5教科を中心に勉強したほうが良いのです。
別に「小説などは有害なので読むな」という話ではありません。「高校生の今は、それを読みあさるタイミングではない」・「時期が違う」・「今はそのタイミングではない」という話です。大学生や社会人、あるいは小学生はどうか知りません。
読書で思い出しましたが、進学校の私立高校を文化祭などで見ると、図書室とは別に、教室の学校文庫には参考書ばかりが置いてあったりします。チャート式などが教室に置いてあるのです。それが現実です。「小説ではなく、学問の書をなるべく読め」というのが暗黙裡のメッセージです。
5教科は多くの高校で重視されているので、その教育への反対意見も議論になりやすい一方、体育や芸術や家庭科などの反対意見というか低い評価は取り上げられづらいのが現実です。現実には、体育や芸術や家庭科などにも反対意見というか低く評価する意見をもつ大人も、多く居ます。世間の人のなかには、商売の都合上、口では言わないですが、本音では あまり体育や芸術を評価していない大人も、少なからず居ます。
このため、将来的な(高卒後・大卒後の)就職活動などに向けては、特になんでも得意になることを目指す必要は、経済的には、特に必要は無いのです。「スポーツも絵も音楽もできる。もちろん勉強も」とか言った人材を目指しても、あまり活躍の場は無いのです。仕事で使えそうなのは、小学校や幼稚園の先生くらいでしょうか。
芸術ファンや漫画などのファンの人は、芸術などを軽視されるとムッとして不満になる人も多かったりしますが、そういう本人だってスポーツを軽視していたりするのが現実です。