高等学校世界史探究/アメリカ独立革命Ⅰ

北アメリカの植民地編集

 かつて、15世紀末にカボット父子が北米沿岸を探検し、1580年代にはウォルター・ローリーがヴァージニアに植民地を作ろうとしました。それでも、イギリスが本格的に北アメリカ植民地の建設を始めたのは17世紀になってからです。国王から特許を与えられた企業や個人領主が、植民地化事業を担当しました。1607年、ジェームズ1世はロンドン会社に特許状を与え、ジェームズタウンやヴァージニア植民地の建設を開始しました。

 
メイフラワー号

 1620年、ピルグリム=ファーザーズと呼ばれるピューリタン(清教徒)の一団がプリマス植民地を立ち上げました。宗教の自由を求めて、ステュアート朝絶対王政下から逃げ出し、メイフラワー号でヴァージニア北部に渡り、植民地建設を始めました。船を降りる前に、彼らはメイフラワー条約に署名し、自分達の政府を設立し、法律を制定し、お互いを尊重し合おうと約束しました。1630年、新教徒ピューリタンはマサチューセッツ植民地を設立し、植民地議会を設置し、植民地の自治を出来るようにしました。プリマスやマサチューセッツを中心に発展したニューイングランド植民地のピューリタニズム(清教主義)、信仰の自由、民主主義などの思想は、徐々にアメリカの精神風土に根付いていきました。マサチューセッツ州、コネチカット州、ロードアイランド州、ニューハンプシャー州、メーン州、ヴァーモント州は、いずれもアメリカ合衆国の北東部に位置しています。

 植民地は特許状の内容によって3種類に分けられました。自治権を持つ植民地では、住民が総督と植民地評議会を選びました。領主植民地では、特許状を持つ領主が知事を選びました。そして王領植民地では、国王が総督を選びました。王立植民地の数は時代とともに増えていきました。しかし、住民代表で構成される植民地議会は、大幅な自治を与えていました。

 1600年代、旧キリスト教徒がメリーランド州に移住しました。また、1644年から1718年まで生きたクエーカー教徒のウィリアム・ペンは、ペンシルバニア州などの植民地を築きました。クエーカー教徒は1600年代にイギリスで始まった新教の一派です。政府からフレンド教会といわれています。宗教的な感動で祈る時に震えるので、人々はクエーカー(震い派)と呼ばれています。平和主義者の立場から、戦争には全く反対で、軍隊に入るのも拒否しています。1732年にはジョージア州が建設され、北アメリカ東海岸に13のイギリス植民地が建設されました。これらの植民地が成立した背景は様々ですが、宗教的自由、政治的独立、経済的自由を求めて母国を離れました。植民地では地域ごとに次の産業が発展しました。

北部 造船・漁業・製造業
中部 製鉄
南部 大農場(プランテーション)経営で煙草、藍、コメが栽培

マサチューセッツ植民地とジョン=ウィンスロップ編集

 1588年から1649年まで生きたジョン・ウィンスロップは、マサチューセッツ植民地の初代総督です。彼は裕福な庭師、ケンブリッジ出身の弁護士、ピューリタンの知的エリートの一員でした。マサチューセッツ湾会社が他の植民地の特許会社と違ったのは、ジョン・ウィンスロップがそれを植民地に移したためです。彼らは、植民地を本国の人間に運営させたくはありませんでした。その代わり、ピューリタンが主導する植民地を建設しようとしました。1630年、ピューリタン達はマサチューセッツに移り住み、ジョン・ウィンスロップを植民地の総督と会社の総裁に選びました。彼は、自分に従う500人以上の男、女、子供を、良い使命を持った人間の家族だと考えていました。ジョン・ウィンスロップの厳格なピューリタニズムは、植民地の人々を真面目で勤勉にしましたが、同時に他の宗教を持つ人々を受け入れないようにしました。ピューリタン教会のメンバーだけが投票権を持ち、ピューリタンのグループが町を運営しました。教会に入るには、その信仰や生き方が見られていました。そこで、政教分離を望むロジャー=ウィリアムズと、牧師で完全民主主義を信奉するトマス=フーカーは、マサチューセッツ州を離れ、ロードアイランド州とコネティカット州の植民地を建設しました。

 ジョン・ウィンスロップが親切で良い人だったとしても、彼の死後に起こったボストンやセイラムでの魔女狩りは、厳格なピューリタニズムと無関係ではありません。

アメリカ合衆国の奴隷制の始まり
煙草の栽培には多くの労働力が必要でした。1619年、ヴァージニア州に20人の黒人奴隷が連れてこられました。しかし、その後40年間で、連れてこられた黒人奴隷は300人程度でした。当初は、退屈できつい仕事も白人奴隷の働きに頼っていました。1679年に王立アフリカ会社が設立されると、イギリスは奴隷貿易を独占するようになりました。これにより、黒人奴隷の大規模な取引が行われるようになりました。1680年代には、10年間で6万人の黒人奴隷がヴァージニアにやってきました。奴隷は南部で買われたとはいえ、アフリカから黒人を連れてくる船を造ったのは北部の人達でした。ニューイングランドの港町の船主達が稼いだ金の多くは、奴隷貿易からもたらされたものでした。金持ちの船主は、そのモラルのために、人々が奴隷制に立ち向かうのをしばしば困難にしました。

七年戦争後の植民地と本国の対立編集

 
フレンチ・インディアン戦争の地図

 フランスがカナダからミシシッピ川流域まで植民地を持っていたため、イギリスの植民地が西へ向かって発展しにくくなっていました。1800年代、イギリスとフランスは植民地をめぐって何度か衝突を繰り返しました。七年戦争(1756年〜1763年)では、イギリスは辺境でフランス人やインディアンと戦いました(フレンチ・インディアン戦争)。結局、イギリスが勝利し、1763年のパリ条約により、イギリスはミシシッピ川以東のカナダを手に入れました。

 イギリスは、自国の産業や貿易を守るために、植民地を原料や市場の供給源として維持する以下の重商主義政策をとっていました。イギリスの貿易や産業だけでなく、イギリス領西インド諸島で作られた商品を守るため、植民地は自由に貿易や物作りを出来ませんでした。

法律名 内容
1651 航海法
1699 毛織物法 イギリスの製造業を守るため、植民地の毛織物輸出を禁止しました。
1732 帽子法 ビーヴァー皮製帽子の輸出を禁止しました。
1733 糖蜜法 イギリス領西インド諸島のサトウキビ農園を支援するため、イギリス帝国以外から植民地に輸入される糖蜜は1ガロン6ペンスの関税をかけました。
1750 製鉄品法 すでに稼働している工場を除き、植民地での鉄製品製造を禁止しました。

 しかし、七年戦争が終わるまでの間、フランスやインディアンの攻撃から身を守るために、植民地はある程度の自衛力を身につける必要がありました。そこで、この重商主義的規制を忠実に守らない行為は、「有益なる怠慢」とされました。

 七年戦争が終わると、フランスと付き合う必要がなくなったイギリス政府は、植民地に対する締め付けを厳しくするようになりました。だからインディアンとの問題が起きないように、植民地の人達は好き勝手な行動が出来ませんでした。また、お金の問題もあり、戦争や植民地の運営にかかる費用の一部を植民地が負担しなければならなくなり、課税が強化されました。その内容を表にまとめます。

出来事 内容
1763年 国王宣言線 植民地の人はアパラチア山脈より西には移動出来ません。
1764年 砂糖法 他国から砂糖をアメリカに持ち込む際に関税をかけました。

 植民地の人々は、国内でのこれらの政策に非常に不満を持っていました。さらに彼らを苦しめたのが、1765年の印紙法でした。印紙法は、植民地で作られた新聞、パンフレット、トランプ、商取引の証書、裁判所の書類、許可証などに切手を貼って、より多くの税金を取ろうとするものでした。植民地の多くの人々に影響を与える税金なので、パトリック・ヘンリー(1736年~1799年)が関わったヴァージニア州議会の決議のように、各地で反対運動が起きました。

 植民地はイギリス議会に誰も送っていないため、勝手に課税すればイギリス国民の権利や自由に背くと考えていました。「代表なくして課税なし」が、植民地が連合に参加したくない理由でした。印紙税は翌年には撤回されましたが、1767年、議会は新たに硝子、鉛、茶などに課税するタウンゼント諸法を成立させました。これにも、国産品のボイコットなどの反対運動が広がりました。結局、茶税以外は全て廃止されました。しかし、マサチューセッツ州では反対運動が続き、1770年に「ボストン虐殺事件」が起こりました。1770年の「ボストン虐殺事件」は、ボストン市民が集会に集まり、イギリス軍が抵抗運動を抑えようとして起こった事件で、5人が死亡しました。急進派のパンフレットなどは、この事件を利用して、反英運動の推進に貢献しました。

 
ボストン茶会事件

 イギリス議会は1773年に茶法を成立させ、イギリスの東インド会社が税金を払わずにアメリカに茶を出荷出来るようにしました。その結果、東インド会社の茶貿易の独占に反対する運動が高まりました。1773年12月、ボストンでインド人に変装した過激派がボストン港で東インド会社の船を襲い、積荷の茶を海中に投棄する事件が発生しました(ボストン茶会事件)。ボストン茶会事件を受けて、1774年、イギリス政府は厳しい法律を次々と制定しました。ボストン港は封鎖され、マサチューセッツ州の自由は制限され、軍隊が駐屯しその費用が州に課され、オハイオ川以北の地域がケベック州に編入されました。

 1774年、自国での抑圧のため、12植民地のうちジョージアを除く11植民地の人々がフィラデルフィアに集まり、第1回大陸会議を開催しました。この会議では、植民地政府が植民地人の権利と自由を侵害し、イギリスとの貿易を停止しようとする計画に反対する「宣言と決議」を行いました。

独立戦争の開始と独立宣言編集

 
レキシントン・コンコードの戦い

 1775年4月18日、ボストン郊外のレキシントンコンコードで、イギリスの正規軍と植民地のミニットマンが戦闘を繰り広げました(レキシントン・コンコードの戦い)。植民地では正規軍をレッドコートと呼び、ミニットマンは、民兵の一員で、いざという時に戦えるように準備していた農民です。アメリカ独立戦争はレキシントン・コンコードの戦いから始まりました。コンコードの農民が銃を隠している事実を知ったイギリスのゲージ将軍は、700人の兵士を送り込み、軍事倉庫を破壊しました。レキシントンでは、反撃しようとした植民地主義者の集団と戦闘になり、植民地主義者のミニットマンがコンコードで捜索から戻ってきたイギリス軍に発砲しました。この時、どちらが先に発砲したかはわかりません。しかし、植民地のニュースは、イギリスが戦いを始めたといち早く報じました。植民地の人々は、イギリス軍が行った残酷な行為と、イギリス軍に反撃した人々の「英雄的な戦い」について詳しく聞きました。そのため、彼らは悲しみと怒りを覚えました。ニュースは、植民地の人脈を通じて広がっていきました。すでに各地に「通信連絡委員会」が設置され、植民地宣伝がより多くの人々に届くようになっていました。1775年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議が開催されました。この会議で大陸軍が結成され、ジョージ・ワシントン(1732年〜1799年)が最高司令官に任命されました。

 当初は、植民地の3分の1程度が独立を望む愛国派(パトリオット)でした。この中には、自営業の農民、中小の商人や実業家、そして一部の大農場主が含まれていました。イギリスを支持する忠誠派(口イヤリスト)や平和を願う中立派は、独立への準備が出来ていない人がほとんどでした。しかし、戦争が進むにつれて、人々の平和への願いは薄れ、独立への思いが高まっていきました。トマス・ペイン(1737年-1809年)は1776年1月に小冊子『コモン・センス』を出版しました。君主制の悪いところを指摘し、共和政の導入と独立をわかりやすく主張した内容です。3ヵ月で12万部も売れ、平和を望む人々から独立を望む人々へと、人々の心を変えていきました。

 1776年7月4日、大陸議会で独立宣言が合意されました。トーマス・ジェファーソン(1743年~1826年)が作成し、他の代表者達が目を通しました。独立宣言の最初の部分では、合衆国が自由でなければならない理由が述べられています。ジョン・ロックの政治理論は、自然権や自然法に大きな影響を与えました。生命、財産、幸福追求の権利や、社会契約説に基づく政府の役割、人民主権、革命権などが挙げられます。本書の中盤では、ジョージ3世の政権運営に関する問題点を20以上挙げています。最後に、植民地はアメリカ合衆国として独立すると言っています。

 独立宣言は、植民地の人々に、イギリスとの和解か独立かの選択を迫りました。また、植民地を新しい国家に変えて、イギリスとの対立を内乱から国際戦争に発展させました。

トマス・ペイン編集

 イギリスでコルセットを作る女性のもとに生まれ、職を転々とした後、ベンジャミン・フランクリンに言われてアメリカに渡りました。彼の著書『人間の権利』も有名です。

アメリカ独立宣言(抜粋)
神は全ての人を平等にし、奪えない権利をお与えになりました。これには、生きる権利、自由である権利、幸せになろうとする権利が含まれます。これらの権利を守るために、人々は政府を持つ必要があり、その政府の力は、それが支配する人々から来なければなりません。もし、どのような形の政府であれ、これらの目標の邪魔になるのなら、国民は、その政府を修正・排除し、国民が安全で幸せになれるように、自分達が最善だと思う原則に基づいて新しい政府を立ち上げる権利があります。これで終わりです。……現在のイギリス国王は、過去に何度も侮辱され、法律を破ってきました。それらは全て、我々の国家を完全に政府に支配させるためのものです。以上の内容を証明するために、私達は事実を公正な世界に示そうと考えています。

以上でアメリカ独立革命Ⅰの内容は終わりです。

資料出所編集

  • 山川出版社『改訂版 詳説世界史研究』木村靖二ほか編著 ※最新版ではありません。