高等学校世界史探究/フランス革命とナポレオンⅠ

旧制度のフランス編集

 革命前のフランス社会は旧制度アンシャン・レジーム)と呼ばれ、正統性を失った伝統的な階級制度が維持されていました。第一身分である聖職者と第二身分である貴族は、それぞれ異なる権利を持っていました。第三身分である平民(市民や農民など)は、物を作り、経済を支えていても、政治的な権利を持っていませんでした。封建制や領主制が実権を失ったとはいえ、聖職者や貴族は、絶対王政のおかげで封建的な権利を維持出来ました。絶対王政では、王は全権を握っていましたが、同時に伝統や慣習によって制限されていました。国王は地域や階級によって異なる利害を無視して統治出来ませんでした。

 聖職者と貴族は、フランスの人口2000万人以上のうち、約55万人、人口の2%程度を占めていました。彼らは税金を払わなくてもよく、農民から年貢を徴収出来るなど、特別な権利を持っていました。大司教や司教、宮廷貴族は重要な官職に就き、高い報酬と年金を受け取っていました。反対に、下級聖職者や地方貴族の多くは経済的に苦しい生活を送っていました。

 旧家出身の旧貴族と平民出身の新貴族が特権階級を構成していました。富裕市民の中には、土地や爵位を手に入れて貴族になった人もいました。新しい貴族の中には、高裁の判事など、官職を獲得して維持する「法服貴族」もいました。新貴族と旧貴族の対立もありましたが、中には銀行や貿易に携わる貴族もいました。エリートとして、貴族と市民上層部も似てきました。自由主義的な貴族やブルジョワ市民は、啓蒙主義のメッセージを最もよく理解し、反体制運動を指導していました。これらのエリート層は、フランス絶対王政の支配から抜け出していました。

 
サンキュロット

 決して、第三階級が全て同じだった訳ではありません。銀行家、大商人、企業家、地主など上流市民の人々の利益は、特権階級と同じでした。この富裕市民をブルジョアジーといいます。旧制度の問題点のほとんどは、弁護士、公証人、作家、医師、教授など自由職業者や新興商工業者が指摘しました。都市部の職人、工芸家、労働者などの下層階級の人々は、貴族のようなキュロットを着ないため、サンキュロットと呼ばれました。革命期には、このような人々が最も過激な行動を起こしました。

 国民のほとんどが農民でした。農民の間にも様々な富がありました。農民の多くは折半小作農で、メチエと呼ばれました。彼らは租税、領主的・封建的諸貢、そして教会への十分の一税を支払わなければなりませんでした。領主と教会が取る税金は、農民の稼ぎの約20%に匹敵しました。

王政の危機編集

 
全国三部会

 ルイ14世の時代から、宮廷や戦争、貴族の年金などにお金が使われるようになり、フランスの財政は悪化していました。アメリカ独立戦争の戦費として20億リーブルを追加し、革命直前のフランス財政は危機に直面していました。ルイ16世(1774年~1792年)は、農業経済学者のジャック・テュルゴー(1727年~1781年)とスイス人銀行家のジャック・ネッケル(1732年~1804年)を財政長官にして、財政の立て直しを試みました。しかし、富裕層の課税方法の変更案は、聖職者や貴族で構成される有識者会議によって断られました。このため、高等法院と貴族達は、法律に違反する行動をとるようになりました。彼らは、特権階級から見て王が完全な権力を持たないように、1614年以来行われていなかった全国三部会の開催を要求しました。彼らには第三身分の抗議も加わっていました。そこで、国王は三部会の召集という彼らの要求に同意しました。財政危機のため、君主制に問題がありました。

 革命前のフランスは、経済も悪化していました。ブトウ酒の過剰生産がブドウ栽培農家を苦しめ、1788年には異常気象で穀物が不作になりました。その後、1786年の英仏通商条約により、フランスの工業は大きな影響を受けました。英仏通商条約では、イギリス企業がフランスで商品を販売出来るようになりました。その目的は、イギリスと協力し、イギリスから援助を受けながら、フランスの工業化を目指す点にありました。

 各身分について、三部会の議員の選び方が違っていました。第三身分は、選挙人が選ばれ、選挙人集会で議員が選ばれました。選挙期間中、第三身分は激しい宣伝を行いました。エマニュエル・ジョゼフ・シエイス(1748年~1836年)は、『第三身分とは何か』というパンフレットを書き、大きな反響をよびました。 第三身分が「すべて」で唯一「人民」を代表していると主張しました。聖職者、国民議会の指導者、三部会の第三身分代表でした。国民公会議員の時は何も言いませんでしたが、ナポレオン・ボナパルトの大統領時代のクーデターには参加しています。三部会には、それぞれの身分や地域の要求を盛り込んだ『陳情書』が渡されました。

革命の勃発編集

 1789年5月5日、三部会はヴェルサイユ宮殿で開かれました。第一身分議員約300人、第二身分議員約300人、第三身分議員約600人でした。聖職者の多くは、改革の内容を知っている下級聖職者でした。オノーレ・ミラボー(1749年~1791年)とエマニュエル・ジョゼフ・シーエスは、他の身分を離れて第三身分に選出されており、その代表的人物でした。オノーレ・ミラボーは伯爵でしたが、三部会の第三身分の一員でもありました。彼は国民議会を作る上で非常に重要な役割を果たしました。彼の死後、彼が革命を立憲王政の形で維持し、宮廷に接近し、秘密資金を提供しようとしていた事実が明らかにされました。

 
球戯場の誓い

 第三身分は、議員の身分別資格調査を拒否し、身分別投票の代わりに個人別投票を求め、身分別のあらゆる審議も拒否して、特権階級に立ち向かいました。1ヶ月間、妥協策を探ろうとした結果、1789年6月17日、一部の聖職者を含む第三身分は、自分達の会を「国民議会」を名乗り、自分達だけが国民の代表者だと言いました。6月20日、議場が閉鎖されたため、第三身分は宮殿の球戯場に集まりました。一人を除いて全員が、憲法を制定するまでは帰らないと宣誓しました(球技場の誓い・テニスコートの誓い)。6月27日、国王は、聖職者と貴族に第三身分に加わるよう告げ、国民議会に承認を与えました。7月9日、国民議会は正式に憲法制定国民議会と改称し、憲法制定に向けた作業を開始しました。国民議会の設立は大胆な試みでしたが、王の承認を得て、法律に従って進められました。

 
バスティーユ牢獄

 国王の側近は、国王に強硬な態度をとらせようとしました。7月11日、国王は軍隊をヴェルサイユに集め、財務官ジャック・ネッケルを解雇しました。温厚で優柔不断なルイ16世には明確な計画や戦略は存在せず、軍隊が脅威となり、パリは大混乱に陥りました。パレ・ロワイヤル界隈では、人々は武装するように伝えられました。宮殿と庭園は、かつてオルレアン家が所有していました。庭園を囲む回廊は店舗となり、パリの中心地となりました。7月12日には、武器製造所の略奪、入市税関署の放火など、デモは大混乱に陥り、治安維持のための民兵(国家警備隊)が結成されました。7月14日、群集は修道院から小銃と大砲を奪い、より多くの武器弾薬を持っていると思われたバスティーユ牢獄を襲撃しました。バスティーユ牢獄は1400年代に建てられた城塞です。1600年代以降、監獄として使われるようになりました。投獄されていたのは、貴族やブルジョワの人達がほとんどで、かなり裕福な暮らしをしていました。囚人も少なく、ジャック・ネッケルは節約のために解体を決意して、落札業者も決まっていました。牢獄が占拠された後、バスティーユの司令官やパリ市長などが殺される革命最初の虐殺が行われました。

資料出所編集

  • 山川出版社『改訂版 詳説世界史研究』木村靖二ほか編著 ※最新版ではありません。