高等学校世界史探究/古代オリエント文明とその周辺Ⅰ

オリエント世界の風土と民族

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 オリエントの語源はラテン語のオリエンスで、「日の昇るところ」という意味です。古代ローマ人は、ローマやイタリア半島の東部を指す言葉として使っていました。時代とともに地域が変わっても、歴史的に「中東」という言葉は、現在「中東」、「中近東」と呼ばれている地域を指しています。東はイラン高原の東端、西はエジプト、北はコーカサス山脈、南はアラビア半島に挟まれた地域です。北と東のアナトリアからアルメニア、イランにかけての地域とアラビア半島南西部、紅海を挟んだ地域に台地や山脈が見られます。それ以外の地域は、大部分が平地となっており、大半が砂漠か乾燥地帯です。雨があまり降らない地域がほとんどで、その分高温です。ただし、高地では季節的に雨が降る地域もあります。

 
肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域

 メソポタミアからシリア・パレスチナ地方にかけての細長い緑の帯が「肥沃な三日月地帯」です。そこでは、羊・山羊・駱駝などを放牧して生活していました。また、雨水に頼る乾地農業も行い、海岸沿いや河川敷の平野部、オアシスに広がって小麦や大麦、豆、オリーブ、ナツメヤシなどを栽培していました。ティグリス川、ユーフラテス川、ナイル川の三大河川の流域では、季節的な氾濫を利用した灌漑農業が早くから発達しました。その結果、大規模な集落が形成され、穀物生産を基盤とした高度な文明も発達しました。

 ティグリス川とユーフラテス川の流域のメソポタミア(川と川の間の土地)に、民族系統不明のシュメール人が最初の都市文明を築きました。しかし、メソポタミアは開放的な地形なので、アラビア半島やその周辺の台地からセム系やインド・ヨーロッパ系の遊牧民や山岳民族が、豊かさを求めて次々とやってくるようになりました。そのため、長く複雑な歴史を歩みました。一方、エジプトは、ナイル川があるのが幸いしました。東西を砂漠に囲まれ、北は海、南はナイルの急流に囲まれています。ナイル川の中流部には、船が通れない場所が6カ所あります。そのため、他国の敵から攻撃を受ける心配はあまりありません。

 シリア・パレスチナ地方は、両地方を移動するための通り道になっていました。セム語系の人々は地中海の貿易で活躍しました。セム語系やインド・ヨーロッパ語系の民族がオリエント世界で活動しました。しかし、シュメール人、フルリ人、「海の民」のような系統不明の民族も活動しました。

 オリエント社会では、早くから宗教的権威によって人々が支配される神権政治が行われていました。神権政治は、大河を利用して洪水を調節し、作物を栽培する事業に多くの人々を組織し、動員する必要性から発展しました。オリエントでは、様々な種類の神権政治が存在しました。メソポタミアでは、王が神官として人々に神の望みを伝え、エジプトでは、王が神となりました。

駱駝の家畜化
 一瘤駱駝は、紀元前3千年紀前半にアラビア半島南東部で初めて飼育されたといわれています。このラクダはオリエントで重要な役割を果たします。一方、内陸アジアのシルクロードで活躍した二瘤駱駝は、同じく紀元前3千年紀にイラン北東部のホラーサーン地方かさらに北で家畜化されたと考えられています。つまり、砂漠の奥地に住む遊牧民の食料として利用されていたかもしれません。当初は牛の乳搾りに使われていました。その後、農作物の運搬や馬にも乗れるように変化し、砂漠を長距離移動するための重要な手段となりました。紀元前2千年紀の終わりから紀元前1千年紀の初めにかけて、シリアやメソポタミアに住んでいました。彼らは交易や商業の発展、その後のアラブ人の軍事的成長にとって非常に重要な存在でした。

シュメール人とセム語系諸族

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 水源地帯の雪解け水によって、ティグリス川やユーフラテス川は毎年増水します。メソポタミアは灌漑や排水設備を整備したため、この水を利用し、多くの作物を育てられました。紀元前4千年紀の中頃から、ティグリス川やユーフラテス川下流の沖積平野に住む人々の数が増えていきました。神殿を中心とした大きな村落が生まれ、銅器青銅器が広く使われるようになりました。この頃、人々は文字を発明しました。

メソポタミアとエジプトの農業
 メソポタミアやエジプトでは、中世ヨーロッパの10倍以上の農業生産性がありました。しかし、高温で乾燥した地域で灌漑農業を行うと、水が蒸発するため、土地の表面に塩分が蓄積します。海水淡水化のための排水を行わないと、土地が使えなくなります。エジプトでは、ナイル川の水量が多く、流域の傾斜が比較的大きいため、灌漑後、下流に灌漑用水を落とすと、耕地の表面についた塩分が洗い流される仕組みになっていました。しかし、平坦な土地が多いメソポタミアでは、水捌けが悪く、耕地が塩素化する傾向がありました。また、水の流れが緩やかなため、水路に泥状の雨水が溜まりやすく、この時期、大洪水がたびたび起こっていました。
 
紀元前2100年頃、ウル第3王朝の時代に、ウルのジッグラトが建設されました。

 紀元前3000年頃、人々が必要とする以上の物資があったため、神官、戦士、職人、商人など、農業や牧畜で直接働かない人々の数が増え、大きな村落が都市へと発展していきました。都市を建設した最初の民族はシュメール人です。紀元前2700年頃までに、シュメール人の都市国家のほとんどが両河川の合流地点の近くにありました。ウルウルクラガシュはこれらの都市の好例で、紀元前250年頃のウル第1王朝時代に最盛期を迎えていました。各都市は周囲に城壁をめぐらし、その中央に高いジッグラト(聖塔)の形をした守護神の神殿がありました。ジッグラトは、頂上に神殿を持つ人工的な山です。メソポタミア各地の都市に建設されました。3階建ての建物の最上部には、月の神を祀る神殿があります。下から上まで、正面の階段はまっすぐ上に伸びています。バベルの塔は、バビロンのジッグラトにまつわる作り話かもしれません。人々はこの神が都市を支配していると考え、最高神官でもある王が神の名で神権政治として都市を運営していました。理論的には、全ての土地は神のものです。人々は神殿の共同体の一員でした。国庫は神殿の倉庫ですから、神殿の税金が保管されていました。神殿は他国との貿易を全て管理しながら、戦争は神の名で戦いました。しかし、支配者の軍事的責任が大きくなるにつれ、王権は次第に世俗的になり、神殿の目的と対立する王は、時に祭司の権力を制限しようとしました。

 各都市国家は、大規模な治水や灌漑によって農業生産を高めました。交易で必要な物資を手に入れ、儲けたお金で美しい神殿・宮殿・王墓を建設し、より高度な文明社会を築きました。しかし、都市は互いに支配権をめぐって争い続け、また周辺の丘陵部族や遊牧民が襲ってきたため、力を失っていきました。やがて、セム語系のアッカド人が都市を支配するようになりました。

 アラビアからメソポタミアに移動したセム語系諸族には、中部地方に定住したアッカド人がいました。紀元前24世紀のサルゴン1世の時代、彼らはメソポタミアの都市国家群を1つにまとめました。この最初の統一メソポタミア国家は、シリアや小アジアやアラビアも支配しましたが、約1世紀後、東方から山岳民がやってきて滅ぼされました。アッカド語が滅んだ後も、長い間オリエント世界の共通語でした。アッカド語の都市の遺跡はまだ誰も見つけていません。ウル第3王朝のもとで、紀元前3千年紀の末にシュメールの勢力が一時的に戻ってきました。しかし、アムル人と呼ばれるセム語系の遊牧民が大量にシリア砂漠からメソポタミアにやって来ました。セム語系のアムル人が紀元前19世紀にバビロンを首都とするバビロン第1王朝(古バビロニア王国)を樹立しました。紀元前18世紀、メソポタミアは第6代ハンムラビ王のもとで統一され、中央集権国家となりました。ハンムラビ王は多くの運河を建設し、治水・灌漑に取り組みました。また、シュメールの法律をまとめたハンムラビ法典を作り、王国に住む様々な異文化をまとめ、統一しようとしました。20世紀初頭、フランスの研究チームがペルシアの古都スサで、石碑に書かれた原文を発見しました。全282条まで書かれているハンムラビ法典は、神々がハンムラビ王に統治権を与えます。その上で、国家は被害者に代わって司法権を行使して犯罪者を罰して、都市社会の安全を守らなければならないとする内容です。特に、刑法は「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則と被害者の身分によって違う刑罰を受けていました。

メソポタミアとインドの交流
 アッカドの王は、インドへの海路を支配するために、アラビア半島のペルシア湾沿岸にも遠征しました。ペルシア湾沿岸の各地からはインダス文字が書かれた印章が発見されています。これらの印章は、メソポタミアとインダス川中・下流域が古くから交易を行っていた痕跡を残しています。メソポタミアの粘土板にはよくこの話が出てきますが、よく出てくるディルムンやマガンという場所は、それぞれバーレーンやオマーンではないかと考えられています。これらの場所は、インドと交易し、銅をつくっていたので重要な場所でした。木材などの建築用資材もインドから運ばれてきました。

資料出所

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  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 ※最新版と旧版両方含みます。
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』