高等学校世界史B/モンゴル帝国

モンゴル帝国編集

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チンギス=ハンの即位

テムジン(Temujin)とは、チンギス=ハンの若いころの名前。

※ 数学っぽく等式で書くなら
「テムジン」=「チンギス=ハン」
である。

1204年ごろにモンゴルを統一したテムジンが、1206年に諸部族長の集会(クリルタイ)で指導者に推薦され、チンギス=ハンと名乗り、国名を大モンゴル国と称した。

第5代のフビライ(クビライ、Khubilai)は、1271年ごろ都をカラコルムから大都(だいと)(現代の北京)に移し、1271年に国号を元(げん)に変えた。

※ つまりモンゴルの首都は、
カラコルム → ペキン
というふうに移動した。
※ つまりモンゴルの国号は、
「大モンゴル国」 → 「元」(ゲン)
というふうに変化した。


では誰がカラコルム(Khara Khorum)を都にしていたかというと、オゴタイ(Ogotai)がカラコルムを都にしたのである。ではオゴタイとは誰かというと、チンギスの三男であり、チンギスの次に即位した人物である。

そしてオゴタイは1234年に金を攻めて滅ぼし、華北を領有した。

中学では、「モンゴル帝国は、ヨーロッパまで攻め込んだ」と習うかもしれないが、では、いつ誰が攻め込んだかというと、

オゴタイの甥(おい)のバトゥ(Batu)が、オゴタイから西方のヨーロッパ遠征を命じられ、そしてバトゥはヨーロッパに遠征して、オゴタイは1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍をやぶった。

なお、モンゴル帝国は、西アジアのアッバース朝も滅ぼしている。 フレグがバグダードを占領し、アッバース朝を攻め滅ぼした。

そしてモンゴル帝国の各地の征服地には、南ロシアのキプチャク=ハン国、中央アジアのチャガタイ=ハン国、イラン方面のイル=ハン国、などのように、チンギス=ハンの子孫たちが治める地方政権となった。

さて(※ 再掲)、第5代のフビライ(クビライ、Khubilai)は、1271年ごろ都をカラコルムから大都(だいと)(現代の北京)に移し、1271年に国号を元(げん)に変えた。

つづいてフビライは、1279年に南宋を滅ぼし、よって中国全土は統一された。チベットや高麗も属国になった。

なお、フビライの出身の家系は、オゴタイの家系ではない。そのため、オゴタイの家系と、フビライの家系で、勢力あらそいの戦争があったのであり、1266年にハイドゥの乱となっていた。この反乱が約40年間つづいて、鎮圧された。

フビライは周辺諸国に遠征し、モンゴル軍はベトナム・チャンバー・ビルマ・日本などに遠征をした。

元軍(げんぐん)が日本に襲撃する前に、朝鮮(高麗)を征服し、従えていた。このため、日本へ侵略軍は、元軍と高麗軍の連合軍である。

元軍による日本への侵略のことを日本語で「元寇」(げんこう)と言う。(※ 「元寇」は高校世界史の検定教科書でも登場する用語です。) 元軍は、1274年と1278年の2回にわたって日本を襲撃したが、2回とも鎌倉武士によって撃退された。

元寇では、元軍は、「てつはう」と呼ばれる火薬弾をもちいていたと言われている。

元による(日本と朝鮮以外の)他の国への遠征は、おおくの場合、遠征先の国からの強い抵抗にあい、征服は失敗した場合が多い。

モンゴル帝国の政治体制編集

  • 人種と政治

元の政治制度は、形式的に、中国の官僚制度を採用した。しかし実質的な政策決定は、モンゴル人が政策を決定した。また、中央アジア・西アジア出身の者が、色目人(しきもくじん)として、官僚などとして活用された。

科挙の回数が、少なかった。人材登用で重視された人材は、武人や実務官僚が重視された。いっぽう、儒学は重視されなかった。

金(きん)の支配下にあった人は、漢人(かんじん)と呼ばれた。「漢人」には、華北の漢民族のほか、契丹人(きったんじん)・女真人(じょしんじん)が含まれる。

南宋の支配下にあった人は、南人(なんじん)と呼ばれた。

交通編集

広大な領土を統治するために駅伝制(えきでんせい、ジャムチ)がしかれた。 これにより交通網が発達し、これを商人が活用し、ムスリム商人が活用し、ムスリム商人による通商が活発になった。

また、海上交易は、宋に引き続き、元も海上交易を行ったため、陸上交易の発達と同様に、海上交易も盛んになった。そのため、杭州(こうしゅう)・泉州(せんしゅう)・広州(こうしゅう)などの港市が繁栄した。また、海運も発展し、長江下流から山東半島を経由して大都にたる海運も発展した。

経済編集

モンゴル政府から紙幣が発行された。その紙幣は交鈔(こうしょう)という。貨幣では、銀・銅銭・金などが用いられた。とくに銀が、貨幣では中心的に扱われた。

また、余った銅銭が日本に輸出され、日本の商業の発展に役だった。

東西交流編集

当時、西ヨーロッパは十字軍をおこしており、そのためイスラーム勢力とヨーロッパは対立していた。そのためヨーロッパは、モンゴルにも関心があった。

ヨーロッパ諸国は、使節をモンゴルに送って、内情をさぐった。 ローマ教皇インノケンティウス4世は、修道士ブラノ=カルピニ(Plano Carpini)を使節として送った。 フランス王ルイ9世はルブルック(Ruburuck)を使節として送った。

またイタリア商人マルコ=ポーロが大都に来て、元に仕え(つかえ)、マルコ=ポーロのヨーロッパの帰国後、マルコ=ポーロはその見聞を『世界の記述』(東方見聞録)にまとめた。

※ 「東方見聞録」(とうほう けんぶんろく)とは、明治時代ころに日本人が意訳したときに命名した題名だと思われています。マルコ=ポーロの書いたその本のもともとの題名は不明なようです。欧米では『世界の記述』のような意味の題名で知られています。

なお、モロッコ生まれのムスリムの旅行家イブン=バットゥーダは、この時代の大都にも来ている。(イブン=バットゥーダについては、※ 高等学校世界史B/イスラーム世界の形成と発展を参照せよ。)

イスラーム圏の人びとが通商などで中国にきたり、モンゴル帝国じたいがイスラーム圏の西アジアを支配していたことから、モンゴル帝国もイスラーム文化の影響を受けた。

そして、イスラームの天文学を取り入れて郭守敬(かくしゅけい)が授時歴(じゅじれき)をつくった。 なお、のちの日本の江戸時代の貞享暦(じょうきょうれき)は、この授時歴を手本にしている。


モンゴル帝国の文化編集

外来の文化編集

チベット仏教が重視された。

元(げん)でキリスト教が布教され、また、元では、ネストリウス派キリスト教が保護された。

1294年にモンテ=コルヴィノが大都でキリスト教カトリックの司教になった。

中国でキリスト教が布教されたのは、この時代が、はじめて。

文字編集

文字は、ウイグル文字が、普及した。言語は、モンゴル語が、政府などで使われた。 つまり、政府の命令書などでは、モンゴル語をウイグル文字で記載した。

パスパ文字がつくられたが、普及しなかった。 パスパ文字をつくった人は、チベット仏教の教主パスパである。パスパは、フビライの宗教顧問である。

中国内発祥の文化編集

戯曲が庶民文化として発達し、元曲(げんきょく)となって流行った。

モンゴル帝国の衰退編集

14世紀に入ったころから、財政がうまくいかなくなり、元(げん)政府はその場しのぎに交鈔の乱発や専売の強化をしたため、民衆が苦しみ、 紅巾の乱(こうきんのらん)が起こり、1368年に元(げん)は明(みん)軍に大都をうばわれ、元(げん)はモンゴル高原に退いた。

※ この「紅巾の乱」によって、中国の王朝が「元」から「明」に変わる、と見なしてよいだろう。
モンゴル人自体は北方に撤退しただけであり、けっしてモンゴル人が滅んだわけではない。
ともかく、こうして中国の王朝は、
元→明(ミン)
と変化した。