高等学校世界史B/中国の分裂と遊牧国家の台頭

三国時代へ

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184年に黄巾の乱ののち、2世紀末〜3世紀初頭に漢は戦乱などにより衰退していき、最終的に後漢は220年に滅ぶ。そして、黄巾の乱のうち、戦乱のあいだ、しだいに曹操(そうそう)・孫権(そんけん)・劉備(りゅうび)の三者が台頭したが、この三者のうち誰ひとりも中国統一できずに死ぬことになる。

黄巾の乱は、宗教結社である太平道(たいへいどう)が184年に起こし始めたとされる反乱であり、宗教指導者である張角(ちょうかく)が指導していた。(※ 検定教科書の範囲内。山川出版社などの教科書に記載あり。) この宗教の信者は、黄色い布を頭に巻いていたので、彼らによる反乱を「黄巾の乱」という。また黄巾賊は後に皇甫嵩や曹操などに滅ぼされ、残党黄巾賊へと落ち延びていった。  


220年に、曹操の子の曹丕(そうひ)が、後漢の皇帝から帝位をゆずりうけて、華北で(ぎ)を建てる。これに対抗した孫権は(ご)を建て、劉備は後の蜀漢、(しょく)を建てた。

こうして、中国は名目上は三分され、三国時代になった。

三国の中でも、魏がもっとも優勢であり、魏は蜀を滅ぼした。魏の臣下の司馬炎(しばえん)(「武帝」(ぶてい)と名乗る)が帝位をうばい、(しん)(西晋)を建て、魏は280年に呉をやぶって中国統一した。


  • 制度

また、三国時代の魏から、官吏の登用制度として、それまでの登用方法(郷挙里選)を改革して、中央任命の中正官が人材を9等級に分けて推薦させる九品中正(きゅうひん ちゅうせい)が始まった。しかし結果的に、豪族が官吏に選ばれるのが主流になった。

魏の曹操によって、荒れ地を国有化して、農地として農民に耕作させて税をとる屯田制(とんでんせい)が始まった。

  • 『三国志』について

『三国志演義』(さんごくし えんぎ)という小説があるが、これは普の時代に書かれた歴史書『三国志』とは別物である。

『三国志演義』は、明(ミン)の時代に書かれたノンフィクション小説である。

三国志演義では、蜀(しょく)や劉備を中心にしてストーリーが書かれている。しかし、『三国志』では魏が正統とされている。

『魏志』「倭人伝」は、この三国志の中に登場し、日本についての記述が登場する。

南北分裂

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南北朝

晋が建国されたが、しかし、まもなく帝位をあらそう一族のあらそいが起きた。これを 八王の乱(はちおうのらん) という。このあらそいで、服属していた匈奴などの遊牧諸民族が独立していき、遊牧民たちは最終的に晋の首都・洛陽(らくよう)を占領し、晋は滅んだ。洛陽や長安などの華北の一帯は、遊牧民の領土になった。

華北では、遊牧民族の諸国家の群雄割拠になった。五胡十六国(ごこ じゅうろっこく)時代という。 その華北での遊牧民族国家の争いのなかから、最終的に、鮮卑(せんぴ)の拓跋部(たくばつぶ)が台頭し、北魏を建て、439年に北魏の太武帝(たいぶてい)が華北を統一した。

その後、華北では、さまざまな王朝に変わるので(合計で5王朝)、一連の華北の王朝をまとめて北朝(ほくちょう)という。

長江から南あたりを「江南」(こうなん)という。中国南部の江南では、晋がいったん滅びると、司馬睿(しばえい)が江南の建康(「けんこう」、現在の南京あたり)で即位し、晋を再興した(東晋、とうしん)。 江南の東晋は約100年間つづいたが、武将が実権をにぎるようになり、420年ごろ、武将の劉裕によって東晋は滅ぼされ、そして劉裕によって420年に(そう)の王朝が起こる。

そのあと、江南でも何度か王朝が興亡し、宋(そう) → 斉(さい) → 梁(りょう) → 陳(ちん)の4王朝が興亡し交代した。この江南の4王朝をまとめて、南朝(なんちょう)という。

そして、北朝と南朝をまとめて、南北朝(なんぼくちょう)といい、この時代を南北朝時代という。

  • 備考

なお、南朝での歴代の王朝の数の数えかたで、宋・斉・梁・陳の4朝に、さらに呉と、東晋とを加えて、六朝(りくちょう)という場合もある。

また、南北朝に、さらに三国時代をくわえた3世紀半あまりの期間を、魏晋南北朝(ぎしん なんぼくちょう)という場合もある。

内陸アジア

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前6世紀のころ、南ロシアの草原を支配した遊牧民国家のスキタイがあらわれた。 つづいてモンゴル高原南部に匈奴(きょうど)があらわれた。天山(てんざん)山脈北部に烏孫(うそん)があらわれた。

匈奴は、前3世紀に冒頓単于(ぼくとつぜんう)が急速に勢力を拡大した。冒頓単于(ぼくとつぜんう)は東胡(とうこ)や月氏(げつし)を駆逐した。そして冒頓単于は大きな遊牧国家を築いた。

前3世紀に大宛(だいえん)(別名:フェルガナ)。

紀元後2世紀ごろには匈奴の南下は弱まったが、しかし紀元後2世紀ごろからモンゴル高原で鮮卑(せんぴ)が台頭した。

東北系の鮮卑のほかにも、西方のチベット系の氐(てい)・羌(ぎょう)などがいた。そのほか、匈奴の一派の羯(けつ)もいた。

3世紀ごろ、中国では三国時代だった。4世紀はじめの304年ごろ、晋の内紛もあって、これら周辺地域の遊牧民族が独立し蜂起しはじめた。

その後、5世紀に、モンゴル高原で柔然(じゅうぜん)が台頭した。柔然は、鮮卑(せんぴ)の建てた北魏(ほくぎ)と対立した。 いっぽう、モンゴル高原北部で高車が台頭し、柔然と対立した。

魏晋南北朝時代の制度

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485年に北魏で、農民に土地を一定の基準で与える均田制(きんでんせい)が始まった。 また、村落の行政単位として、5家を隣、5隣を里、5里を党というふうに三段階の単位をつくり、それぞれに長を置いた。北魏の始めた、この、三段階の村落行政単位の制度を、三長制(さんちょうせい)という。 これらの制度のねらいは、農民を把握することや、農業生産の安定化などが、ねらいだと考えられている。

魏晋南北朝時代の文化

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仏教はすでに紀元前後に西域(中央アジア)から中国に伝わっていたが、中国で普及したのは4世紀後半ごろからである。この4世紀後半ごろに、西域から仏僧の仏図澄(ぶっとちょう)や鳩摩羅什(くまらじゅう)などが中国に仏教を伝えにやってきて、五胡の諸国で仏教がさかんになった。そして江南では、貴族のあいだに仏教が広まった。

いっぽう、在来の民間信仰や神仙思想は、仏教の普及に刺激されて変化し、民間信仰・神仙思想は老荘思想などを取り入れて、道教(どうきょう)となった。道教の布教者の寇謙之(こうけんし)は、北魏の太武帝に信任された。太武帝の時代に仏教は弾圧された。

東晋の法顕(ほっけん)は、仏典をもとめてインドに留学し、旅行記『仏国記』を著した。

 
雲崗(うんこう)の石仏(せきぶつ)

仏教の普及にともない、石窟(せっくつ)寺院がつくられた。雲崗(うんこう)・竜門(りゅうもん)・敦煌(とんこう)などが、そのような石窟寺院のある場所である。

当時の文化として、老荘思想のように世俗を超越して、自由な議論をする清談(せいだん)が好まれた。文学では、東晋の陶潜(とうせん)の詩や、謝霊運(しゃれいうん)の詩が好まれた。(※リンク: 陶潜の作品『桃花源記』(とうかげんき)については、高等学校古典B/漢文/桃花源記を参照。)

絵画では、「女史箴図」(じょししんず)を描いた顧愷之(こがいし)がある。

 
女史箴図

結末

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589年に隋(ずい)が南北朝を統一する。589年に、隋が南朝の陳をたおして、南北朝を統一する。