高等学校古文 > 高等学校古文/歴史書 > 十八史略
ここでは『十八史略』の中でも高校漢文で出題されやすいものだけを扱う。なお、高校の教科書や参考書では本文の一部を省略することが多い。本稿で扱う漢文もそれらに準拠している。
鼓腹撃壌
編集白文と書き下し文
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帝尭陶唐氏帝嚳子也。其仁如天其知如神。就之如日、望之如雲。都平陽。茆茨不剪、土階三等。治天下五十年、不知天下治
有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、
尭立七十年、有九年之水。使鯀治之。九載不績。尭老倦于勤。四嶽挙舜、摂行天下事。尭子丹朱不肖。乃薦舜於天。尭崩、舜即位。 |
帝 尭立ちて七十年、九年の水有り。 |
- 尭 尭は伝説上の天子。特に儒教では理想の君主としてあがめられる。
- 土階三等 天子の宮殿にある階段は本来石造りで9段ある。だからこれは大変質素なものである。
- 億兆 人民のこと。
- 微服 直訳すれば「粗末な服」。意訳すると「おしのび」。
- 九載 九年間
- 四嶽 もともとは泰山(東岳)・華山(西岳)・衡山(南岳)・恒山(北岳)の四つの霊峰。これから転じて東西南北の諸侯の長官を意味する。
- 舜 尭と並ぶ伝説上の天子。儒教では先の尭とセットで尭舜と呼び、どちらも理想的な君主としてあがめられる。
- 不肖 親に似ないこと。さらに、愚か者の意味もある。
- 崩ず 天子の死。崩御。
現代語訳
編集帝尭陶唐氏は帝嚳の子である。そのいつくしみの心は天のよう(にゆきわたるもの)で、その知恵は神のようだった。尭に近づくと太陽のようであり、遠くから眺めると(恵みの雨をもたらす)雲のようだった。平陽を都とした。宮殿のかやぶき屋根の端は切りそろえず、階段は三段のみだった。天下を治めること50年になったが、世の中が(平和に)治まっているのかいないのか、人民は自分を天子として戴くことを願っているのかいないのかを知らなかった。側近のものに聞いてもわからない。政治を行う者に聞いてもわからない。民間の者に聞いてもわからない。そこでおしのびで町の大通りへ出かけて行くと童謡が聞こえてきた。(それは)「民衆の暮らしを成り立たせているのは帝尭の偉大な恩恵にほかならない。(民は)知らず知らずのうちに帝のお手本に従っている」(というものだった)。老人がいた。口中に食べ物をほおばり、腹鼓を打ち、壌を撃って歌って言うことには、「日が出れば働き、日が沈めば帰って休む。井戸を掘って水を飲み、田んぼを耕して食べる。帝尭の力(おかげ)などどうして俺たちに関係あろうか(いや、ない)」と。
帝尭が即位して70年になった。9年も洪水が引かなかった。鯀に治水の仕事をさせた。(しかし)9年間も実績をあげられなかった。帝尭も年をとって政治に飽きてきた。四嶽の官が舜を推薦したので、彼に政治を代行させた。尭の子丹朱は親に似ない馬鹿息子だった。そこで舜を天に推薦した。帝尭が崩御すると、舜が即位した。
解説
編集尭が大変理想的な天子であったことを示す文章である。まず「茆茨不剪、土階三等」は天子として大変質素であると述べたが、ここには単にぜいたくをしないというだけでなく、人々になるべく負担をかけないようにしたという意味も含まれる。
誤解されやすいのは老人の歌である。現代の価値観からすると尭をないがしろにしているように見えるが、ここでは尭の仁徳が人々に強く意識されることなく、ごくごく自然に溶け込んでいることを示しているのである(ついでにいうと、側近から民間の者まで尭に世の中が治まっているかどうか聞かれてもわからなかったとされているが、これも尭の仁徳があまりに自然であり、これが特別なことだと思わなかったからである)。こうした「偉大さを世間に知らしめる」というのではなく「自由で豊かな生活を送れる世の中を、ごく自然な形で作り上げる」というのは現代ではなかなか理解しにくいところであるため、テストの際、本文の意図に関する問題で引っかかりやすい。
また、尭が年老いて自分の息子ではなく、賢者とされた舜に天子の位を譲ったことも注目したい。ここで中国における理想的な王朝交代である禅譲が行われたのだ。この尭から舜への「政権移行」と比較して、次の「采薇之歌」を見てみよう。
采薇之歌
編集白文と書き下し文
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西伯卒、子発立。是為武王。武王東観兵至於盟津。是時諸侯不期而会者八百。皆曰、「紂可伐矣。」王不可引帰。紂不悛。王乃伐紂、載西伯木主以行。伯夷・叔斉叩馬諫曰、「父死不葬、爰及干戈。可謂孝乎。以臣弑君、可謂仁乎。」左右欲兵之。太公曰、「義士也。」扶而去之。王既滅殷為天子、追尊古公為太王、公季為王季、西伯為文王。天下宗周。伯夷・叔斉恥之、不食周粟。隠於首陽山、作歌曰、
遂餓而死。 |
彼の西山に登り 其の 暴を以って暴に 遂に餓ゑて死せり。 |
- 兮 主に詩賦に用いる置き字。
- 西伯 直訳では「西の諸侯の長」の意味。ただし、ここでは周の文王(公)・姫昌をさす。
- 卒 死ぬこと。
- 武王 周の武王・姫発のこと。周の創始者。
- 盟津 黄河の渡し場。今の河南省孟県の南とされる。
- 紂 殷の最後の王、紂王のこと。暴君として知られる。
- 木主 位牌。
- 兵す ここでは殺すという意味。
- 太公 太公望・呂尚のこと。周の文王・武王の参謀として仕えたとされる。
- 古公 武王の曽祖父。
- 追尊 死者をあがめて後から尊号を送ること。
- 公季 武王の祖父。
- 宗 もともとの意味は「本家・主人」。転じて、天子とすること。
- 粟 もみ殻のついた米。転じて、扶持米・俸禄(現代流に言えば給料)。
- 首陽山 西山と同じ。山西省にある山。
- 薇 わらび、ぜんまい。シダ植物で山菜の一種。わらびの根からはわずかにデンプンが取れる。
- 神農 三皇の一人。薬草を探して人民を病気から救ったといわれる。
- 虞 舜のこと。
- 夏 中国最古の王朝とされる(ただし科学的に証明されていない)夏王朝の創始者・禹(う)のこと。黄河の治水に成功したことをもって舜より天子を禅譲された。
現代語訳
編集西伯が亡くなり、子の発が位についた。これが武王である。武王は(紂王を反省させるために)軍事力を示しながら、盟津までやってきた。このとき、諸侯は約束したわけでもないのに集まった者が800人にも達した。皆「紂王を討伐すべきです」と言った。(しかし)武王はそれを承知せずに自国に引き上げた。(ところがそれでも)紂王は反省して行いを改めなかった。(ついに)武王は紂王を討伐しようと決心して、西伯の位牌を(戦車に)載せて出発しようとした。伯夷と叔斉は馬の手綱を取って諌めて言った。「父君が亡くなられてまだ葬式も終わらないのに戦争をなさろうとしています。これを『孝』と言えるでしょうか。臣下の者が主君を殺そうとしています。これを『仁』と言えるのでしょうか。」(武王の)側近たちはこの二人を殺そうとした。太公は「正義の人である」と言った。(太公は)二人を助けてその場から立ち去らせた。(さて、)王はすでに殷を滅ぼして天子となり、古公には太王と、公季を王季と、西伯を文王とおくりなした。天下(の者)は周を天子とした。伯夷・叔斉はこれを恥として、周の俸禄を受けようとせず、首陽山に隠れ、歌を作った。
- あの西山に登って、そこのぜんまいを採っている。
- (武王は)乱暴な行為で(紂王の)暴虐な行為にとってかわった。(しかも武王は)その悪さを理解しない。
- 神農・虞・夏(のような理想的な時代は)たちまち過ぎ去ってしまい、われわれはどこでこの身を落ち着けたらよいのか。
- ああ、もう死のう。わが運命は衰えてしまった。
とうとう(二人は)餓死した。
解説
編集先ほどの「鼓腹撃壌」で行われた禅譲に対して、こちらでは武力によって暴君を倒す「放伐」が行われた。しかし、放伐を良しとしない伯夷・叔斉は命がけでこれを止めようとする。「臣下が君主を殺すことは不正であるし、暴力に暴力で対抗するのは過ちだ」というわけである。一度は太公望・呂尚によって助けられるが、結局は自分の信念を曲げずに(事実上)自殺してしまう。
さて、この伯夷・叔斉は兄弟であり(そもそも「伯」は兄、「叔」は弟の意味)、もともとは孤竹君という諸侯の子だった。父の死後、兄弟で位の譲り合いをして、とうとう二人とも地位を継承せずに国を去ったという経歴の持ち主である。この前日談と二人の最期はその後、いろいろな人物に影響を与え、その評価も賛否両論であった。特に司馬遷は『史記』の列伝(個々の人物伝や異民族の民俗集)のトップにこの二人を挙げて、正しい人が困難に遭遇することを「天道是か非か」と問いかけているのは特に有名である。また、日本でも徳川光圀が若い頃に影響を受けたことでも有名である。
鶏口牛後
編集- (けいとう ぎゅうご)
「合従連衡」(がっしょう れんこう)ともいう。
白文と書き下し文
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秦人恐喝諸侯求割地。有洛陽人蘇秦。遊説秦恵王、不用。乃往説燕文候、与趙従親。燕資之、以至趙。説粛候曰、「諸侯之卒、十倍於秦。并力西向、秦必破矣。為大王計、莫若六国従親以擯秦。」粛候乃資之、以約諸侯。蘇秦以鄙諺、説諸侯曰、「寧為鶏口、無為牛後。」於是六国従合。 蘇秦者、師鬼谷先生。初出遊、困而帰。妻不下機、嫂不為炊。至是、為従約長、并相六国。行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。昆弟妻嫂、側目不敢視、俯伏侍取食。蘇秦笑曰、「何前倨而後恭也」。嫂曰、「見季子位高金多也」。秦喟然歎曰、「此一人之身。富貴則親戚畏懼之、貧賎則軽易之。況衆人乎。使我有洛陽負郭田二頃、豈能佩六国相印乎。」於是、散千金、以賜宗族朋友。既定従約帰趙。粛侯封為武安君。其後、秦使犀首欺趙、欲破従約。斉魏伐趙。蘇秦恐去趙、而解従約。 魏人有張儀者。与蘇秦同師。嘗遊楚、為楚相所辱。妻慍有語。儀曰、「視吾舌、尚在否。」蘇秦約従時、激儀使入秦。儀曰、「蘇君之時、儀何敢言。」蘇秦去趙而従解。儀専為横、連六国以事秦。 |
魏人に張儀といふ者有り。蘇秦と師を同じくす。嘗て楚に遊び、楚相の辱しむる所と為る。妻 |
- 従親 「従」は「縦」と同じで、ここでは南北の意味。よって「従親」は南北の同盟をさす。
- 鄙諺 世間のことわざ。
- 鬼谷先生 姓は王、名は詡(く)。現河南省登封県の鬼谷にいたために鬼谷先生と号した。蘇秦・張儀の師であるため、縦横家の祖とされる。著作として『鬼谷子』を著したとされるが疑わしい。
- 相 政治家のトップである宰相のこと。「相たり」で「宰相になる」と解する。
- 喟然 嘆く様子。がっかりして。
- 「洛陽負郭の田二頃」 「負」は背、「郭」は外城の意味。このことから「洛陽の外城を背にした」となる。さらに城に近い田は良い田だったとされる。「頃」は面積の単位で、1頃は約170a(一説には約280a)。
- 犀首 秦の役職。ここでは遊説家だった公孫衍のこと。
- 激す 刺激する。発奮させる。
- 横 「衡」と同じ意味で東西をさす。
現代語訳
編集秦の国は(ますます強大化して)諸侯をおどして土地を割譲させようとした。洛陽の人に蘇秦(という人)がいた。彼は秦の恵王に遊説したが採用されなかった。そこで燕の文候に(自説を)説いて趙と南北同盟を結ばせようとした。燕は(その説に賛成して)資金を出して、趙へ行かせた。(趙の)粛候に「諸侯の兵力を合わせると秦の十倍になります。力を合わせて西に向かえば、秦は必ず敗北します。王様のために計画を立てますと、六国が南北同盟を結んで秦(の圧力)をはねのけるにこしたことはありません」と説いた。粛候は(その説に賛成して)蘇秦に資金を提供して諸侯に同盟を結ばせた。蘇秦は卑近なたとえを用いて諸侯に説いて言った。「鶏の口になったとしても、牛の尻になってはいけません」と。こうして六国は南北連合を結ばせた。
(さて、話を戻して、かつて)蘇秦は鬼谷先生に習っていた。初めに(秦に)遊説する為に故郷を出たが、困窮の果てに帰ってきた。(しかし)妻は、はたおり機を下りず、兄嫁は彼の為に食事を作らなかった。その後、連合の長となり、六国の宰相を兼ねることになった。(旅の途中で)洛陽を通り過ぎた(ときのこと)。彼の行列の車や馬は、王のようであった。 兄弟や妻、兄嫁などは(恐れ入って)彼から目をそらし、まともに見ることができなかった。ただ平身低頭で付き従い、食事の給仕をした。蘇秦は笑って言った。「どうして前は威張っていたのに、今度はうやうやしいのか」と。兄嫁は「あなたの身分が高く、金持ちになったのを見たからです」と言った。蘇秦はがっかりしてため息をついて言った。「私は同一人物であるのに、 裕福で身分が高ければ親戚も恐れてびくびくし、貧しく身分も低ければ軽んじあなどる。まして一般の民衆はなおさらだ。 もし、私に洛陽郊外の良田が二頃あれば(安穏としていられたのだから)、六国の宰相の印を腰につけることができただろうか」と。そこで、莫大な金をばらまいて、親族や友人に与えた。やがて蘇秦は同盟を結び終えて、趙に帰った。粛侯は彼に領土を与え、武安君とした。その後、秦は犀首に命じて、趙をあざむき同盟を破壊しようとした。(その計略によって)斉と魏は趙を攻撃した。蘇秦は(その様子を見て)恐れて趙を去ったため、南北の六国同盟は消滅してしまった。
(さて、今度は)魏の国の人に張儀という者がいた。蘇秦と同じ鬼谷先生に師事した。かつて、楚に遊説した際、楚の宰相に恥をかかされた。妻は怒って文句を言った。張儀は「私の舌を見ろ、まだちゃんとあるか(もしあるならばきっと名誉を挽回してやる)」と言った。蘇秦が南北六国の同盟を結んだとき、(蘇秦は)張儀を怒らせ(ると同時に発奮させ)て秦に行くよう仕向けた。張儀はこう言った、「蘇君が健在なうちは、どうして私は(彼の策に反するような)自説を説くだろうか(いや、そんなことはしない)」と。蘇秦が趙を去って、南北六国の同盟は崩れた。(そこで、ついに)張儀はもっぱら連衡を説いて、六国を横に連ねてそれぞれを秦に仕えさせた。
解説
編集この話の中で少しわかりにくいのは張儀が「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん(蘇君が健在なうちは、どうして私は彼の策に反するような自説を説くだろうか)」といったことだろう。
まず蘇秦の説いた「合従」について見てみよう。これは秦以外の全ての国々が協力して秦に対抗する作戦である。それに対して張儀が説いた「連衡」は秦が六国それぞれと同盟を結ぶことで、六国をばらばらにすると同時に事実上、秦に服属させる外交戦略である。蘇秦・張儀によって七国の同盟関係が変化した(「対秦包囲網」から「秦への従属政策」へ)ことから二人が行った外交戦略の名前をとって「合従連衡」という言葉が生まれた。現代では立場や目的が異なる団体や人物が一時の利害から協力すること(そして、それがすぐに破綻ないし変化しそうなこと)を指す。
このあたりは『史記』の「蘇秦列伝」「張儀列伝」に詳しいのだが、少し述べる。蘇秦は合従が秦によって破られるのをおそれ、同門の張儀を秦に派遣することで合従を有利に運ぼうとした。しかも、ただ派遣するだけでなく侮辱して怒らせ、発奮させると同時に活動資金に困っている張儀をひそかに支援して秦に行かせて、恵王に仕えられるようにした。張儀は後日、このことに気付き、蘇秦への恩義と深い洞察への感服から蘇秦が健在なうちは合従策に手を出さないことにしたといわれる。
先従隗始
編集白文と書き下し文
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燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、 於是昭王為隗改築宮、師事之。於是士争趨燕。 |
隗曰はく、「 是に於いて昭王隗の為に改めて宮を築き、之に師事す。是に於いて士6争ひて燕に |
- 幣 礼物。
- 孤 王侯の謙遜した一人称。特に喪中(死者を弔う間)に使う。
- 涓人 「涓」は「潔」の意味。王の左右にいて清掃をつかさどる者。
- 千里の馬 古来より中国では、最高の名馬は一日に千里走るとされた。なお、当時の中国の1里は540m。
- 期年 一年。
- 士 賢士・賢者。
現代語訳
編集燕の国は太子の平を立てて王とした。これが昭王である。戦死者を弔い、生存者を見舞い、へりくだった言葉遣いをし、多くの礼物を用意して、賢者を招聘しようとした。昭王は郭隗にたずねて、「斉はわが国の混乱につけこんで、燕を攻め破った。私は燕が小国で、報復できないことをよく承知している。(そこで)ぜひとも賢者を味方に得て、その人物と共に政治を行い、先代の王の恥をすすぐことが、私の願いである。先生、それにふさわしい人物を推薦していただきたい。私自身その人物を師としてお仕えしたい」と言った。
郭隗は、「昔の王で、涓人に千金を持たせて、一日に千里走る名馬を買いに行かせた者がおりました。(ところが、涓人は)死んだ馬の骨を五百金で買って帰って来ました。王は怒りました。涓人は言いました『(名馬であれば)死んだ馬の骨でさえ(大金を出して)買ったのです。まして生きている馬だったらなおさら(高く買うに違いないと世間の人は思うことでしょう)。千里の馬はすぐにやって来ます』と。一年もたたないうちに、千里の馬が三頭もやって来ました。今、王がぜひとも賢者を招き寄せたいとお考えならば、まずこの隗からお始めください。(そうしたら)私より賢い人は、どうして千里の道を遠いと思いましょうか。(いや、遠いと思わずにやって来るでしょう。)」と答えた。
そこで昭王は、郭隗のために新たに邸宅を造って郭隗に師事した。その結果、賢者たちは先を争って燕に駆けつけた。
解説
編集「隗より始めよ」という故事成語の基になった話である。もともとこの話からわかるように「私からまず使ってください」という自薦の言葉だったのが、だんだん意味が変化して「言い出した人物から物事を始めるべき」という意味で使われることが多くなっている。
気をつけたいのは郭隗のたとえ話である。「死んだ馬」といってもなんでもよい訳ではない。名馬だからこそ死んでも価値がある、まして生きた名馬ならもっと価値があるということである。「どこぞの馬の骨」でも良いわけではない。ここに郭隗の(いくらか謙遜の混じった)自己推薦が見えてくるようである。
さて、ここでは省略したが、この郭隗の策は大当たりして、後に戦国時代の名将とされる楽毅が燕にやってくる。そして昭王の望んだとおり燕は斉に猛反撃を行い、楽毅の活躍によって斉の70あまりの城を奪ったという。
鶏鳴狗盗
編集白文と書き下し文
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靖郭君田嬰者、斉宣王之庶弟也。封於薛。有子曰文。食客数千人。名声聞於諸侯。号為孟嘗君。秦昭王、聞其賢、乃先納質於斉、以求見。至則止、囚欲殺之。孟嘗君使人抵昭王幸姫求解。姫曰、「願得君狐白裘。」蓋孟嘗君、嘗以献昭王、無他裘矣。客有能為狗盗者。入秦蔵中、取裘以献姫。姫為言得釈。即馳去、変姓名、夜半至函谷関。関法、鶏鳴方出客。恐秦王後悔追之。客有能為鶏鳴者。鶏尽鳴。遂発伝。出食頃、追者果至、而不及。孟嘗君、帰怨秦、与韓魏伐之、入函谷関。秦割城以和。 |
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- 異母弟。
- 現在の山東省滕州。
- お気に入りの女官。寵姫。
- 狐のわきの白い毛だけを集めて作った衣。一着に狐が一万匹必要と言われるほど非常に希少なものであった。
- 現在の河南省にあった関所。秦の都・咸陽(後の長安。現在の西安市)の東に建てられた。
現代語訳
編集靖郭君田嬰という人は斉の宣王の異母弟である。薛に領地をもらって領主となった。子どもがいて(その名を)文という。食客は数千人いた。その名声は諸侯に伝わっていた。孟嘗君と呼ばれた。秦の昭王がその賢明さを聞いて、人質を入れて会見を求めた。(昭王は孟嘗君が)到着するとその地にとどめて、捕らえて殺そうとした。孟嘗君は配下に命じて昭王の寵姫へ行かせて解放するように頼ませた。寵姫は「孟嘗君の狐白裘がほしい」と言った。実は孟嘗君は狐白裘を昭王に献上していて狐白裘はなかった。食客の中にこそ泥の上手い者がいた。秦の蔵の中に入って狐白裘を奪って寵姫に献上した。寵姫は(孟嘗君の)ために口ぞえをして釈放された。すぐに逃げ去って、氏名を変えて夜ふけに函谷関についた。関所の法では鶏が鳴いたら旅人を通すことになっていた。秦王が後で(孟嘗君を釈放したのを)後悔して追いかけてくることを恐れた。食客に鶏の鳴きまねの上手い者がいた。(彼が鶏の鳴きまねをすると)鶏はすべて鳴いた。とうとう旅客を出発させた。出てからまもなく、やはり追う者がやってきたが追いつくことはできなかった。孟嘗君は帰国すると秦をうらんで韓・魏とともに秦を攻めて函谷関の内側に入った。秦は町を割譲して和平を結んだ。
解説
編集戦国四君と呼ばれた孟嘗君のエピソードである。このことから「鶏鳴狗盗」という四字熟語が生まれた。『史記』ではつまらないことしかできない者も使い道によっては役に立つという孟嘗君の先見の明をたたえる部分があるが、ここでは略されている。なお、今の「鶏鳴狗盗」の意味は「つまらないことしかできないこと、または人物」という悪いものと「そんな人物でも役に立つことがある、秀でたものが一つぐらいはある」という多少はよいものの二つがある。
またこの話を基にして作られたのが百人一首にも収められている、清少納言の「夜をこめて とりの空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 」という和歌である。
完璧而帰(「澠池之会」を含む)
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趙恵文王時、嘗得楚和氏璧。秦昭王、請以十五城易之。欲不与、畏秦強、欲与、恐見欺。藺相如願奉璧往。曰、「城不入、則臣請、完璧而帰。」既至。秦王無意償城。相如乃紿取璧、怒髪指冠、卻立柱下曰、「臣頭与璧倶砕。」遣従者懐璧、閒行先帰、身待命於秦。秦昭王賢而帰之。 秦王約趙王会澠池。相如従。及飲酒、秦王請趙王鼓瑟。趙王鼓之。相如復請秦王撃缶為秦声。秦王不肯。相如曰、「五歩之内、臣得以頸血濺大王。」左右欲刃之。相如叱之。皆靡。秦王為一撃缶。秦終不能有加於趙。趙亦盛為之備。秦不敢動。 |
趙の恵文王の時、 秦王趙王に約して |
- 和氏の璧 楚の卞和が見つけたとされる宝石(W:ヒスイ)。この逸話から「連城之璧」とも呼ばれるようになる。
- 怒髪冠を指し 髪が逆立ち冠をつくほどの怒りの様子。
- 卻立 しりぞいて立つ。
- 閒行 人目につかず、密かに行くこと。
- 澠池 現河南省澠池県。当時は韓の領土。
- 瑟 琴の一種。当時、趙の都である邯鄲の遊女たちが盛んに引いていた。
- 缶 素焼きの酒器。当時、秦ではこれを打って歌の調子をとった。なお、音読みでは「フ」だが訓読みでは「ほとぎ」。
- 刃 刀剣で切り殺すこと。
現代語訳
編集趙の恵文王は、かつて和氏の璧を手に入れた。秦の昭王は15の城と交換することをもちかけた。与えまいとすれば秦の強い力が恐ろしく、与えようとすればだまされることを恐れた。(そこで)藺相如は和氏の璧をささげて(秦に)行こうと申し出た。(さらに相如は)「もし城が手に入らなければ、私が璧を無事に持って帰りましょう」と言った。(相如は秦に)既に着いた。(やはり)秦王は城を提供する意思はなかった。そこで、相如はだまして1璧を取り、怒りで髪が逆立った様子で柱の下にしりぞいて立ち、「私の頭と共にこの璧を砕いてしまいましょう」と言った。(こうして時間稼ぎをした後で)お供の者に璧を持たせてこっそりと先に帰らせ、自分は秦王の命令を待った。秦の昭王は相如を賢者であるとして、帰した。
秦王は趙王と約束して澠池で会見することになった。相如も(趙王の)お供をした。酒を飲み進めていくうちに、秦王は趙王に瑟を弾いてほしいと言った。趙王はこれを弾いた。相如はまた、秦王に対して
- 『史記』によれば「璧に傷があります。それを示しましょう」と言ったとされる。
解説
編集この後の「刎頸之交」に続く物語である。いわば「藺相如と廉頗」物語の前半にあたる。「澠池之会」では、当時の常識や省略が多く、ただ現代語訳しただけではわかりにくいところが多い。ここで補足しよう。
まず秦王が趙王に瑟を弾かせる場面である。趙王が自分から場を盛り上げるために自主的に弾くのならばともかく、秦王が趙王に弾かせるというのは、前者が後者を格下とみなしているからである。これに対して藺相如が秦に缶を打って秦の民謡を歌うようにお願いしたのは「趙王がわざわざ秦王のために演奏したのだから、今度は秦王がお返しの演奏をする」ことを演出することで秦と趙は対等な関係であることをアピールするためである。また、秦は強大だが野蛮な国とみなされており、「瑟のような楽器もなく、本来楽器でもない缶を楽器にするような野蛮な国であり、それを王の宴席でも使うみっともない国」として逆に恥をかかせようとしたのである。それがわかっているから秦王はそれを拒否したのである。
そして、相如が「五歩の内、臣頸血を以つて大王に濺ぐを得ん」というが、これは要するに「応じなければ、自分の命と引き換えに秦王を殺すこともできる」という脅しなのである。だからこそ秦王の側近はいきりたち、秦王もいやいやながらも一回だけ缶を打つのである。
さて、この前半「完璧而帰」が完璧の語源である。璧も趙の面子も失わずに「完璧に」任務を遂行した。よくある誤字に「完壁」というのがあるが、これが間違いなのはこのエピソードからもわかるだろう。「璧を
刎頸之交
編集白文と書き下し文
編集
趙王帰以相如為上卿。在廉頗右。頗曰、「我為趙将、有攻城野戦之功。相如素賤人。徒以口舌居我上。吾羞為之下。我見相如、必辱之。」相如聞之、毎朝常称病、不欲与争列。出望見、輒引車避匿。其舎人皆以為恥。相如曰、「夫以秦之威、相如廷叱之、辱其群臣。相如雖駑、独畏廉将軍哉。顧念強秦不敢加兵於趙者、徒以吾両人在也。今両虎共闘其勢不倶生。吾所以為此者、先国家之急、而後私讐也。」頗聞之、肉袒負荊詣門謝罪、遂為刎頸之交。 |
趙王帰り、相如を以つて上卿1と為す。 |
- 大臣級の高官。
- 古代中国では右が上位とされた。
- 『史記』によればもともと藺相如は宦官の客人であった。
- 家来。
- 朝廷に出仕すること。
- 肌脱ぎ。
- イバラ。とげのある植物。
現代語訳
編集趙王は帰国してから藺相如を上卿とした。廉頗よりも上の位であった。廉頗は「私は趙の将軍となって城攻めや野戦の功績がある。相如はもともといやしい身分の者だ。ただ口先だけで私よりも上位にいる。私はこれより下にいることが恥ずかしい。私は相如に会ったらきっと辱めてやろう」と言った。相如はこれを聞いて、朝廷に出仕すべきときにはいつも病気だと言って、(出仕せずに)二人が序列争いをすることを好まなかった。外出して廉頗を遠くから見ると車を引いて隠れて避けた。相如の家来たちは皆(相如のこのような態度を)恥ずかしく思っていた。(そこで)相如は言った。「そもそも秦の威力に対しても(私はそれに屈することなく)、秦王をしかりつけて家臣たちに恥をかかせた。この相如は役立たずではあるが、どうして廉将軍を恐れるだろうか。私が思うに強大な秦が趙へ出兵しないのは、ただ私たち二人(藺相如・廉頗)がいるからだ。今この二匹の虎が闘えば、そのなりゆきは共に生きることはできず、どちらか一方は死ぬだろう。私がこのようなことをしているのは国家の急務を優先して私的なうらみごとを後回しにしているからなのだ」と。頗はこれを聞いて肌脱ぎをしてイバラを背負い(相如の家の)門にやってきて自らの罪をわびて、結局、刎頸の交わりを結んだ。
解説
編集「藺相如と廉頗」の物語の後半である。既に見たように藺相如が上卿になったのは「完璧而帰」と「澠池之会」の功績によるものだった。どちらも藺相如の機知によって趙の面子を保ち、強大な秦に屈服しない姿勢を見せたもので、その功績は軍功に劣らず大であったが、軍人として活躍していた廉頗からすれば実力のない「口舌の徒」に見えたのだろう。しかし、私怨よりも国家を重視する藺相如の態度に深い感銘と自分の言動の浅はかさを感じた廉頗は罪人のようにして藺相如の前に現れる。廉頗のはじめのセリフにも後の態度にも、彼の直情さが見えてくる。つまり、「口先だけの人間」が出世したことに対する怒りを隠さない点とその藺相如像が誤っていたことがわかると(少し大げさではあるが)率直に謝る点に廉頗の人物像が見えてくる。
さて、この話から生まれたのが「刎頸の交わり」である。「刎頸」とは「