権利と義務、まず最初に。 編集

さて、権利と義務という事ですが、日本人なら、あるいは日本人でなくてもこの言葉は聞きなれていると思いますし、もう小学生以上の人であれば、日常語、一般語として何らかの自分なりの意味概念、意味理解を持っていると思います。

世の中には権利と義務について得々とおしゃべりしたがる人間は、絶望的に掃いて捨てるほどいますし、現代を生きる誰にとっても身近な言葉ですよね。

この項目の前編集では、国家と国民の間での権利と義務、個人間での権利と義務、この二つはちょっと違う話だという主張がなされていました。

ちなみに現編集者が参考用に保持している高校政治経済の参考書では、義務と権利について特別に食いついてとうとうと解説している、と、いう事はなされていないのですが、前編集者によると、清水書院の検定教科書ではこの周辺の話題について、かなり突っ込んだ議論がされているようです。

国家国民間での権利義務、個人間の権利義務、この二つは異なる話だという主張、それ自体は現編集者もそれほど違和感を感じる主張ではない。おそらくそうなのではないだろうか?とはいってもそれほど重要な視点、議論ではないとは思うけど…。

しかしその主張を肯定したうえで、現編集者はもう一つ、権利義務に関する考え方を提示したい。

それは、権利と義務感、権利義務観念に対して、3つの考え方、視点があるだろうという主張です。

その一つはまず、日常の社会通念としての権利義務感。もう一つは現実のその国の法令における権利義務の規定。もう一つは自然法に根拠を求める、普遍的でより本質的と考えられる権利義務。

現編集者のやや過激で偏向した主張としては、権利義務の関係についてとうとうと語りたがる人間は、結局他人の権利はほとんど認めることはなく、自分自身に利益を与える義務を他人に押し付けたがり、自分自身の所属する既成の多数派集団に不当な利益を永遠に与え続けたい奴ばかりだろう、なんて思っているのですが、そのことに関する評価はともかく、権利義務に関するページがWikibooks高校教科書として作られてしまった以上は、そのページの削除を図るよりは、書き直しを行った方が結局早いし楽なので、多少の文章を今後、この後にも記述していく予定です。

個人間の権利と義務 編集

個人間で契約が締結されたとき、お互いに、契約を守る義務がある。

売買契約が成立したときには、売り手には商品を買い手に渡す義務がある。(債務)。そして買い手から代金を受け取る権利がある。(債権)。

買い手は売り手に代金を払う義務がある。(債務)。商品を受け取る権利がある。(債権)。

売り手が買い手に商品を渡した時には、買い手には代金を支払う義務が生じる。(債務)。

買い手が代金を支払ったときには、売り手には商品を買い手に渡す義務が生じる。(債務)。

「契約自由の原則」から、国家・公共は個人間や個人対企業の契約についてあまり規制しない。この個人対個人、個人対企業など、民間同士の関係を私人間(しじんかん)という。

しかし私人間の契約でも、国家公共が介入する場合もある。

例えば労働基準法に基づいて、労働契約では、経営者が労働者を不当に使役することが無いよう、様々な規定がある。脅迫や詐欺などに基づく不当な契約は、法の下、無効にできる場合も多い。

民法には私人間の契約に関する重要な規定が定められている。民法ではほかに婚姻や親子関係、相続、損害賠償、所有権などについても様々な規定がある。

  • 参考: 日本における、法と年齢の関係
出生(しゅっしょう)時: 原則として父又は母が出生(しゅっしょう)届を出す。(戸籍法第49条、52条)
6歳:  義務教育の開始。(教育基本法第5条、学校教育法第17条)
14歳:  刑事上の罪をおかすと責任を問われ、刑法により処罰される対象になる。(刑法第41条)
18歳:結婚が可能になる。(民法第731条)。
18歳:  選挙権をもつ。(公職選挙法第9条)
国会議員の被選挙権をもち立候補できる年齢は、衆議院では25歳、参議院では30歳。
40歳:  介護保険料の負担。(介護保険法第129条)
65歳:  老齢厚生年金の支給。(厚生年金保険法第42条)
死亡時: (遺族などが)死亡届を出す。(戸籍法第86条)

親子間には扶養義務がある。経済的に自立していない子を未成熟子と法律的に呼ぶが(かならずしも未成年を意味しない)、親は未成熟子を扶養する義務があると考えられている。成年に達しない子の父母がその子に対して持っている身分上、財産上の権利・義務を親権という。民法752条には、夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。と、書かれている。これは夫婦間の扶養義務、同居義務を指摘した物だろう。

成年者は原則的に、自由に契約ができる。(契約自由の原則) 

しかし、精神障害・身体障害などの重度の障害・または老齢などで、法的な判断が困難と考える場合は、成年後見制度(せいねんこうけんせいど)によって法的判断の権利を後見人に預けたり、助けさせることができる。

民法には、親子の法的義務、夫婦の義務、相続、成年後見制度などの規定が定められている。

(※参考として…、商業高校の科目『高等学校商業 経済活動と法』、『高等学校商業 経済活動と法/自然人の行為能力と制限行為能力者制度』(成年後見制度など)、『高等学校商業 経済活動と法/家族と法』(親子の法律関係など)、にもこの問題に関する記述がある。)

違法な行為により損害を受けたものは、損害賠償を請求する権利がある。損害賠償は大きく、債務不履行に基づく損害賠償と不法行為に基づく損害賠償の二つに分けられている。

また、この権利は国家や地方公共団体に対しても行使できる。

日本国憲法第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

権利、義務と公共の福祉 編集

「公共の福祉」により、人権が制限される例
人権 制限の内容 根拠法令
表現の自由 * 他人の名誉を傷つける行為の禁止 刑法
* 不当な選挙運動の禁止 公職選挙法
 集会・結社の自由  * デモの規制 公安条例
居住・移転の自由 * 感染症による入院・隔離の措置 感染症法・医療法
* 親による子の居住地指定 民法
* 破産者の居住制限 破産法
財産権  * 道路・空港などのために補償金を払ったうえで
 土地を収用
土地収用法
* 不備な建築の禁止 建築基準法
 労働基本権  * 公務員のストライキの禁止
国家公務員法、
地方公務員法
営業の自由  * 医師などの国家資格職において
 無資格者による営業の禁止
医師法など
* 企業の価格協定(カルテル)などの禁止 独占禁止法

さて、非常におおざっぱな言及だが、権利とは、していい事であり、しなくてもいい事であり、してもしなくてもいい事だろう。一方で義務とはしなければいけない事、あるいはしてはいけない事だろう。権利を持てば自由に、奔放に行動できるが、義務を持った時は制限を持って、それを受け入れて生きることになるだろう。

我々は一人で生きているわけではないし、いや、仮に一人で生きていたとしても、完全に自由に奔放に行動することはできないし、現実的にも倫理的にもそれは不可能だろう。

日本国憲法第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

公共の福祉とは、人権相互の間の衝突を調整する原理だと考えられている。

私人間の軋轢や紛争 編集

我々はこの社会で生活して、個人間で、あるいはある程度の集団が関係してもいいのですが、何らかの権利・義務にかかわるトラブルに巻き込まれることは、結局は非常に多い事だと思います。

現編集者の常識的な判断・希望としては、まず、人間間のトラブルは、その問題に関わる人同士の冷静で知的で、平和的な話し合いで解決を目指すのが妥当だとは思っていますが、しかし現実は、そんな生易しい事では解決の片鱗さえ見えてこないようなラジカルな事態が、日常茶飯事だと、思う事も多いですね。

そこで、弁護士をはじめとする法律の専門家に相談したうえで民事裁判という道をたどる紛争解決の方法も、現代の法治民主主義国家では与えられていますし、基本的にはまったく非難されることのない、正当な行為でしょう。

多くの日本人、いや、それ以外の国家の人間でも、裁判に打って出るのはやりすぎだし、その道は避けたいと思う人が多いでしょうが、しかし場合によってはもうそれしか問題の解決が見いだせない、そういう事態も確実に多くあるのではないでしょうか。


前編集者がここで丸山 眞男(まるやま まさお)という人物の言葉を引用していました。

権利の上に眠る者は、保護に値(あたい)せず。

現編集者はこの丸山なる人物にはあまり興味なく、今後も大したことを知ることはないでしょうが、どうもこの言葉は民法の時効の根拠として述べられたようですね。つまり民事上の権利を持っていたとしても、それを寝かせて長期間放置していた場合、時効として消滅、保護を拒否されても仕方ないだろう、という主張でしょう。

ただ前編集者はその言葉を拡大解釈して、他人の権利を拒否したり、権利を主張する行為を毀損する目的で使っていたような気もしますが、ならば、現編集者、丸山なんちゃらとは違ってただの市井の一馬鹿は、こういう格言を作ってみましたが、どうでしょうか?

不当に押し付けた他人の義務の上に眠る者は、存在に値(あたい)せず。