経済の民主化策
編集第二次大戦後の日本経済の民主化政策の一つとして、1945年から1947年にかけて財閥(ざいばつ)が解体された。 この財閥解体にともない、持株会社が禁止された。
戦後の日本経済の民主化政策では、 農地改革、 財閥解体、 労働三法の制定、 などの経済民主化が行なわれた。
戦後の復興策
編集戦後は、戦災によって物資が不足してることもあり、政府は、石炭や鉄鋼などの基幹産業に重点的に投資する傾斜生産方式(けいしゃ せいさんほうしき)を採用した。
また、アメリカ合衆国が日本の復興のための資金援助として、ガリオア・エロアという資金援助を行った。
また、復興金融公庫が復金債を発行した。しかし、この復金債は、今でいうところの、いわゆる「赤字国債」である。 復金債は、日銀が引き受けた。
戦後復興期のインフレ
編集第二次世界大戦の終戦直後、日本は、はげしいインフレになった。 この終戦直後のインフレの原因について、直接の原因は、復金債を日銀が引き受けたことによる市場への通貨増発が原因だろうと考えられている。
インフレを解決するため、1948年、GHQは経済安定9原則を指令し、また、アメリカの銀行家ドッジが日本に派遣され、翌1949年にはドッジ=ラインと呼ばれる財政引き締め政策が日本で行われ、その結果、復興債の発行禁止、1ドル=360円の単一為替レート、などの政策が行われた。
そのドッジラインの結果、インフレは収まったものの、今度は逆に、デフレによる不況(安定不況)が到来した。物価が安定するなかでの恐慌という意味で、このドッジラインによる不況は「安定恐慌」と言われる。
(なお、1949年以降、シャウプ勧告によって、税制が直接税中心になった。)
しかし1950年、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍を中心とする連合軍からの特需(とくじゅ)が発生し、日本は不況を脱した。
そして1956年の『経済白書』には「もはや戦後ではない」と記述されるまでに景気回復した。
- ※ 1ドル360円の円安の為替レートや、それに近い数値の(21世紀現代の1ドル100円台のレートから見れば)円安の為替レートが、(終戦直後を基準に)のちの高度成長ごろに、日本から米国への輸出構成につながり、貿易摩擦を引き起こすので、現代人の先入観では、ついつい日本が無理やり円安の360円をアメリカに押し込んだように錯覚しがちだが、しかし上述のように、 1ドル360円は日米の合意による為替レートである。、
高度経済成長
編集1954(昭和29)年から1973(昭和48)年まで、経済成長率が年平均10%ほどという高い率で、景気後退年でも5%ていど以上という高い水準だった。 そのため、1954年から1973年ごろまでを「高度経済成長期」という。
1968年には日本のGNPが旧・西ドイツを抜き、アメリカについで日本が世界の資本主義国でGNP第2位になった。
高度経済成長期の好景気としては1954〜57年の神武景気、1958〜61年の岩戸景気、1962〜64年のオリンピック景気、1965〜70年の、いざなぎ景気、1972〜73年の列島改造ブームなどがある。
- 国際収支の天井
神武景気、岩戸景気、オリンピック景気などの高度経済成長前半期の好景気のころ、外国からの輸入が増加した。そのため、国際収支が悪化した(つまり、ドル不足になった)。
そして、政府が国際収支を回復させるために、やむなく景気を抑制しなければならない、という事態になった。
このように国際収支が、景気を制限する要因となり、「国際収支の天井(てんじょう)」と言われた。
- 高度成長の進展
なお、その後、経済成長が進展するにつれて、輸出が増えていき、しだいに国際収支は改善されていった。 また、1ドル=360円の固定レートが外国にとっては日本円が割安であり、そのことが日本からの輸出に有利だったのだろうと、通説では考えられている。
また、高度成長期に、企業による設備投資が進み、工業化が進んだ。 そのような企業の設備投資の資金源には、銀行から貸し出された資金が使われた。 この高度成長のころから、太平洋ベルトに工場が集積していった。「投資が投資を呼ぶ」と言われるほど、設備投資が盛んだった(※ 現代社会の検定教科書に、「投資が投資を呼ぶ」の記述あり)。
また、農村出身の若者が、集団就職で、都会に移住した。通説では、高度成長の原因のひとつは、教育の普及により勤勉で良質な労働力が供給されたことが理由だろう、と言われている。 一方、しだいに都市部で住宅不足などが起こりはじめ、渋滞や過密化などが起こるようになった。
なお、この当時の就職しはじめの20代前後の若者とは、戦後のベビーブームの時期(1947〜1949年)に生まれた「団塊(だんかい)の世代」である。この当時は、大学進学率が低く、中卒や高卒で就職するのが一般的であり、この世代の中卒・高卒の労働者は「金の卵」と言われた。
さて、戦前は日本の製品は品質が低いと国際的には見なされていたが、高度成長のころから、日本企業が国際的な競争力をつけていった。
一方、公害の問題が深刻化した。
なお、石炭から石油へのエネルギー革命が、日本では、この高度成長期に起きた。
- 貿易の自由化
1960年代、日本では貿易の自由化を求める声が高まり、それまでの輸入は政府の許可制だったが、1963年にGATT11条国(ガットじゅういちじょうこく、意味: 国際収支の悪化を理由には輸入数量の制限ができない国)になり1964年にIMF8条国(意味: 国際収支を理由には為替制限ができない)になった。(なお1964年は、東京オリンピック開催の年でもある)
このようにして、日本はIMFーGATT体制に入り、また、日本では貿易が自由化されていった。
- 所得倍増計画
池田勇人(いけだ はやと)内閣が1960年に国民所得倍増計画を打ち出し、10年以内に所得を倍増するという目標を立てたが、10年を待たずに1967年に所得倍増が実現した(※ 第一学習社の政経の検定教科書、および各社の現代社会の検定教科書に「国民所得倍増計画」の記述あり)。
- (※ 高度経済成長の後)その後の産業保護政策
また、1972の田中角栄内閣の「日本列島改造論」により、日本全国に新幹線や高速道路などをはりめぐらせることが、さらに推進された。また都市の過密と地方の過疎を解決するためなどの理由もあり、郊外に大工場を移転するなど「国土の均衡ある発展」が目指された。
安定成長期
編集第四次中東戦争にともない、1973年、アラブ諸国が石油を輸出制限し、また、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を大幅に引き上げ、それによって世界的に不況になった(これを第一次石油危機という)。(いわゆる「オイルショック」)
そして、原油価格の上昇にともない、各国では物価が上がった。こうして世界の多くの国は、インフレーションと同時に不況が進展するというスタグフレーションになった。
日本でも、石油危機により、「狂乱物価」といわれるほどに物価が上昇し、また、不況になった。 そして1974年に、日本は戦後初めてのマイナス成長になった。
こうして、日本での高度経済成長は終わり、日本は年率4〜6%成長ていどの安定成長期(中成長期)に入った。
また、1979年には(イラン革命により)第二次石油危機が起きた。(『高等学校世界史B/アメリカの覇権と冷戦の展開』)
このような資源問題もあり、日本では「省エネ」(省エネルギーのこと)、「省資源」が重視されるようになった。
1980年代、日本の製造業では自動車や電気機械や半導体などが海外に多く輸出され、欧米諸国との貿易摩擦を引き起こした。(※範囲外: 日本からの「集中豪雨型輸出」などと呼ばれた。)
貿易摩擦を起こすということは、裏を返すと、それだけ日本製品が欧米で普及してきたという事でもある。 欧米では、日本製品は、この当時、高品質という認識になっていた。「メイド イン ジャパン」の製品は、欧米では、第二次大戦前は粗悪品の扱いだったが、1980年代には日本製の高品質製品の呼び名になっていた。
プラザ合意とバブル経済
編集1985年にG5(先進5カ国財務省・中央銀行総裁会議)はニューヨークのプラザホテルでの会合で、アメリカのドル高を是正するため、G5の米・英・仏・西独・日本は、協調して為替介入してドル高を是正することに合意した(これをプラザ合意という)。
(※ レーガノミクスによる、双子の赤字による金利上昇が、ドル高の原因。ウィキブックス教科書『高等学校政治経済/経済/国際経済』を参照せよ。)
このプラザ合意により、円高・ドル安が急激に進み、そして日本は一時、円高不況になった。そして、日本の日本銀行・政府などは、円高不況で苦しむ大手製造業などの輸出産業を救済するために低金利政策などの金融緩和策(公定歩合の引き下げ)を行い、そして民間の資金が株式や土地購入などに使われ、1980年代末には、それら株・土地の市場価格が急上昇するバブルが起き「バブル経済」(bubble economy [1] )と呼ばれた(平成バブル)。(株の市場価格のことを株価(かぶか)という。土地の市場価格を地価という。つまり、1980年代末に、株価と地価が急上昇してバブル経済になった。)
なお、この1980年代の頃、別荘地やスキー場、テーマパークなどのリゾート開発が盛んになった。一般の企業でも、80年代当時は、企業の設備投資が活発であり、消費者の消費意欲も旺盛であった(※ 過去のセンター試験で、こういう知識が問われている)。
しかし1989年に、金融引き締め(日本銀行の段階的に数回にわたる公定歩合の引き上げ)や、土地取引の規制(大蔵省が不動産向け融資の総量規制をしたこと)などを切っ掛けに、1990年代に入るとバブル経済は崩壊した。
そして株価や地価は50%ちかくも大きく下落した。その結果、土地を担保に融資してたりした銀行や、不動産投資を行っていた銀行は、多額の不良債権(bad debt [2] )を抱え込み、銀行の経営が悪化した。
しかし1990年代前半の当時は、この不況が、まだ世間には、それほど深刻には受け止められていなかった。だが、1997年ごろに、いくつかの大銀行や大手証券会社が破綻した。(日本長期信用銀行、北海道拓殖銀行、および山一證券などの破綻)
- ※ いわゆる「失われた10年」の初めが、この1990~1991年。
- (※ 範囲外: )この事は統計的にも裏づけられており、銀行の貸し付け残高は1990年前後のバブル崩壊後も1996年まで増加している[3]。これはつまり、1990年前後のバブル崩壊当時、世間では「この不況は一時的なものだろう」、「いずれ数年も経てば景気が回復するだろう」と思われていただろう事が うかがえる。しかし、その予想は外れ、1997年に不況が深刻化し、そしてバブル崩壊後の不況が長期化していった。
- また、橋本政権時のさまざまな金融改革・財政改革も、上記のような比較的に楽観的な予想を前提(その前提は間違いであったが)としたものであった事[4]にも、読者は留意してもらいたい。
そして、2000年代、日本では金融以外でも不況の影響があらわに見え始め、企業も人員削減(いわゆる「リストラ」)を大幅に進めていき、消費も低迷していき、気が付いたら日本は平成不況になっていた。どうやら1990年始めごろから、平成不況が始まってたようである。そして以降、日本では、現在までずっと(2016年に記述)、一時的な好況はあっても好況時の経済成長率も低く、ほぼ慢性的な不況が続いている。
バブル崩壊とグローバル化
編集1991年の平成不況から、デフレ傾向が続き、また不況が続いている。企業の設備投資も、この1991年ごろから、落ち込みつづけている。(なお2009年の民主党政権になる前まで、日本の歴代の自民党政権は日本がデフレではないと言いつづけていた。)
1998年には、実質経済成長率がマイナスになった。
2000年頃から、金融関連の規制改革もあり、大手金融機関どうしの経営統合などの再編が進んだ。また、大企業の人員削減や事業撤退などのリストラも進んだ。
一方、2001年に小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣が誕生すると、平成不況の原因のひとつが規制だろうと解釈され、政治改革や規制緩和が行われ、小泉政権下で郵政民営化などの「構造改革」が行われた。
- ※ 【発展的補足】「小泉政権によって人材派遣業が解禁された」という人もいるが、これはやや不正確である。そもそも日本で派遣法が制定されたのは中曽根政権であり、橋本内閣・小渕内閣・森内閣で、派遣法は段階的に規制を解除されてきた。では、なぜ「小泉政権によって人材派遣業が解禁された」といわれるのか。それは、2004年(小泉政権)の改正で、過去の教訓から禁じられていた製造業への派遣労働が解禁されてすべての業種で派遣労働が可能になったこと、翻訳やソフトウェア開発などの業種(専門26業務)の派遣期間が3年から無制限になったこと、いわゆる「ワンコールワーカー」「日雇い派遣」とよばれる一日単位の派遣労働が可能になったことによる。加えて、前述の「日雇い派遣」の待遇の悪さが問題視されたこと、2008年のリーマンショック(福田政権~麻生政権)の影響で製造業に派遣されていた多くの派遣労働者が契約を解除され、社会問題になったことから、そういうイメージが持たれるようになったと推測される。
- (※ 範囲外 )小泉政権では「規制緩和」が行われたと言われているが、しかし実際には2006年に小泉政権が終わると、(小泉政権ではなく、安部・福田・麻生の政権だが)自民党政権は建築基準法の規制の強化や、金融商品取引法などの規制の強化、いわゆるサラ金規制の強化である貸金業法の規制強化、など様々な分野での規制強化を行った[5]。このように当時の流行の政治スローガンと実際の政策には、若干の食い違いがある。
2002(平成14)年には不況がいったん底をつき、アメリカ経済の好調による日本からの輸出増加などに支えられ、日本の景気が回復し、2007年まで好景気が続いた(景気拡大期間が、それまで最長であった「いざなぎ景気」の期間をこえたことから、この2002年〜2007年の景気拡大の期間を「いざなぎ越え」(いざなぎ ごえ)という)。
しかし、アメリカの大手証券会社のリーマンブラザーズの破綻(リーマン=ショック)や、アメリカのサブプライム・ローンの破綻などをきっかけにした、2008年の世界的な金融危機により、日本からの欧米向けの自動車などの輸出が激減し、日本の輸出産業は大きな打撃を受け、日本は不況になった。
- (※ リーマンブラザーズが「証券会社」なのか「投資銀行」なのかは、検定教科書や出版社によって表記が異なる。山川出版や第一学習社の教科書ではリーマンブラザーズを「証券会社」としている。いっぽう、清水書院の時事資料集では、リーマンブラザーズを投資銀行としている。)
- なお、リーマンショックとサブプライムローン問題の関係は(※ 高校「政治経済」教科書でも、欄外などで紹介されてる)、2007年までアメリカ合衆国の大手証券会社のリーマン・ブラザーズが、アメリカでの低所得者向け住宅ローンのサブプライムローン関連の金融商品などを大量を扱っていたところ、2007年のサブプライム・ローンの破綻により、リーマン・ブラザーズが巨額の損失を抱え、そして2008年にリーマン・ブラザースが経営破綻したという経緯である。
2008年の経済成長率はマイナス3.7%にまで低下した。
一方、2000〜2010年ごろ、中国などの新興国の輸出が成長してきたこともあり、アジア諸国からの低価格の製品が日本市場に流入して、日本では価格破壊が進み、日本ではデフレが進行した。
2016年の現在、日本は不況で、かつデフレである。日本では、少子高齢化が、需要を減らす要因だろうとして懸念されている。
- ^ 小森清久 ほか編著『新版完全征服 データベース5500 合格英単語・熟語』、桐原書店、2019年2月10日 第41刷発行、P.328
- ^ 小森清久 ほか編著『新版完全征服 データベース5500 合格英単語・熟語』、桐原書店、2019年2月10日 第41刷発行、P.329
- ^ 田原総一郎『ホントはこうだった 日本近現代史 3 中曽根政権から豊かな時代の崩壊』、ポプラ社、2013年3月15日 第1刷 発行、92ページ
- ^ 田原総一郎『ホントはこうだった 日本近現代史 3 中曽根政権から豊かな時代の崩壊』、ポプラ社、2013年3月15日 第1刷 発行、153ページ、東大院の教授松原隆一郎の見解
- ^ 塩澤修平『経済学・入門』、有斐閣、2021年、4月30日 第3版 第5刷 発行、P42