予備知識

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ベルリンの壁が崩壊したこと、ソビエト連邦経済が停滞したことにより、冷戦が1989年ごろに終結する。

1989年、竹下内閣のもとで消費税が成立して実施された。

しかし政治資金の疑惑により(リクルート事件)、退陣した。

つづいて、宇野宗佑(うの そうすけ)内閣では、(リクルート事件の影響もあってか)1989年7月の参議院選挙で自民党が大敗し(社会党が躍進)、宇野内閣はわずか2か月で退陣した。(衆議院でなく参議院での大敗なの、自民党政権のまま。)

55年体制の崩壊

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宇野内閣の次の、海部俊樹(かいふ としき)内閣では、湾岸戦争への国際貢献の対応に追われた。

つづいて宮沢喜一(みやざわ きいち)内閣では、国連平和維持活動協力法(PKO法)を成立させた。

しかし、1992年に佐川急便事件やゼネコン汚職などの大企業との癒着(ゆちゃく)が明るみに出て、国民の政治不信が高まった。

そして、1993年6月には自民党内が小選挙区制をめぐって分裂し、1(社会党などの野党から)内閣不信任案が出され衆議院で可決し、7月の総選挙で自民党が敗北し、自民党は野党になった(55年体制の終わり)。


そして、非自民8党の連立政権が与党となり、日本新党の細川護熙(ほそかわ もりひろ)を首相にした。

なお、このときの非自民8党派は、社会党・新生党・公明党・日本新党・民社党・新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合、の8つ。

細川内閣は、選挙制度改革をして小選挙区比例代表並立制を成立させた。

後継の新生党の羽田孜(はた つとむ)内閣は、短命に終わった。

そして、社会党と自民党が連立し、1994年6月に社会党委員長 村山富市(むらやま とみいち)を首相とする村山内閣が成立する。

そして社会党は、自衛隊・日米安保の容認をするなど、従来の党の方針を大幅に転換させた。

※ 検定教科書には新進党の結成について書かれている。

(1995年1月17日に阪神淡路大震災が起き、6000人以上の死者が出た。)

1996年に村山内閣は退陣し、自民党総歳の橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう)が連立政権を引き継いだ。

社会党は党名を社会民主党に変更した。

橋本内閣は、財政改革のため、消費税を5%に引きあげたが、アジア通貨危機の時期と重なり、景気は後退した。

そして、1997年、都市銀行のひとつの北海道拓殖銀行が破綻し、大手証券会社のひとつの山一證券も破綻した。

これらの結果、日本の不況が深刻化した。


(湾岸戦争や、1995年1月に阪神大震災、1995年3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件などが発生し、日本は安全保障をみなおす必要にせまられた。)

(※ 範囲外: )「地下鉄サリン事件」

「サリン」とは、猛毒物質の一種である。

宗教団体のひとつであるオウム真理教は、1995年3月20日、サリンを東京都内の地下鉄に散布するというテロを実行した。このテロの被害によって、11人の死者と、5000人を超える重軽傷者を出した。

なお、サリンは第二次大戦中にドイツが開発していた物質でもあり、海外からは、日本で化学兵器を用いたテロが起きたとして注目された。

(※ 記述中)

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橋本龍太郎、1996年、クリントン大統領が来日して日米安保共同宣言

小渕恵三(おぶち けいぞう) 周辺事態法、国旗国家法、通信傍受法

2000年に小渕は病死し、後継の森喜朗(もり よしろう)内閣が成立したが(自民党・公明党・保守党の連立政権)、しかし国民の支持が得られず支持率が低迷し、2001年に森内閣は総辞職した。

森内閣の後継で小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣が2001年4月に成立した。

80年代バブル

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検定教科書では、「地上げ」とか紹介。なお、「地上げ」とは、不動産業者が強引な方法で住民を立ち退かせ、更地にして転売すること[1]

毎日新聞社の撮影した、地上げされた土地の写真が有名で(周りが空き地になった中、一軒だけ古い家屋のある写真)、検定教科書にもその毎日新聞の写真がよくあるのだが、本wikiでは権利の都合で省略。

ディスコの写真もあったり(いわゆる「ジュリアナ東京」)。 ※ ジュリアナは店舗名なので覚えなくていい

※ なお、ジュリアナ東京の開店の時期は、じつはバブル崩壊後の1991年である[2](※ 覚えなくていい)。 検定教科書でも、きちんとバブル崩壊後の1991年の開店だと補足している。

※ その他、1985年のプラザ合意などは、本wikiでは『政治経済』科目のほうで説明してある・・・はず。電電公社→NTT といった民営化についても、検定教科書では日本史でも触れているが、本wikiでは『政治経済』で扱う。


90年代のあれこれ

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経済

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90年代の円ドル為替は円高の傾向であり、1995年には1ドル80円台に達した。

このような理由もあって製造業などの大企業は、生産拠点を海外に移した。このため、しだいに国内産業の空洞化が、危惧(きぐ)されるようになった。


※ 範囲外: 日米協議と年次改革要望書

80年代ごろから日米の貿易問題が深刻になり、何度か日米間で会議が開かれた。 アメリカは1988年には包括通商法を改正して、不公平な貿易相手国に輸入制限や高関税などの報復措置(ほうふく そち)をとれるようにするスーパー301条を制定した。

このため日本は、市場開放に前向きにならざるをえなくなった。そして、1989年には日米構造協議が開かれ、1993年には日米包括協議が開かれた。

89年の会議では、日本の市場開放、および、そのための規制緩和の方針が求められた。そして1993年の協議では、より具体的なことが決定し、「大規模小売店舗法」(大店法)の規制緩和の方針が決まった。(のちの橋本龍太郎内閣で、大店法の規制緩和の方針の改正法案が成立した。)

1991年には、アメリカからの強い要望で、牛肉・オレンジの輸入自由化が決まった。

それとは別に、1994年からアメリカ政府は日本政府に年次改革要望書を提出し、この要望書で、さまざまな要求をした。2009年の民主党の鳩山内閣で年次改革要望書が廃止されるまで、さまざまな要望がアメリカから出された。

ウィキペディア日本語版の記事によると、年次改革要望書によって実現した政策は、

「建築基準法の改正や法科大学院の設置の実現、著作権の保護期間の延長や著作権の強化、裁判員制度をはじめとする司法制度改革、独占禁止法の強化と運用の厳密化、労働者派遣法改正(労働者派遣事業の規制緩和)、郵政民営化」

と多い。

※ 範囲外: なお、90年代後半における農業分野の市場開放については、アメリカからの要望のほかにも、1986年から交渉開始され1994年に合意したウルグアイ・ラウンドという国際協定の影響もある。日米交渉だけで決まったのではない。(詳しくは高校「政治経済」で習う。) なお、このウルグアイラウンドによって、世界貿易機関(WTO)が1995年に設立された。なお、知的財産権についても、ウルグアイ・ラウンドでは話し合いが行われた。

村山談話

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1995年の村山政権では、日本による過去の(アジアへの)侵略と植民地支配を謝罪する内容の村山談話(むらやま だんわ)が発表された。

小泉純一郎 内閣

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内政

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2001年4月に成立した小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣は、自民党・公明党・保守党の連立政権であった。

小泉政権は「聖域なき構造改革」をスローガンに、経済政策や行財政では新自由主義を採用し、郵政民営化や、労働の規制緩和を行った。

(※ アメリカ同時多発テロの対応については、中学で説明したとおり。)
※ 郵政民営化の改革の前に、財政投融資という、郵便貯金を財政などの適用できる制度の改革も行われた。当時、財政投融資の不良債権化が問題になっていた。財政投融資について本wikiでは『中学校社会 公民/国家財政・地方財政とその役割#発展:財政投融資(ざいせいとうゆうし)』で説明した。(※ 以下、段落末まで範囲外: )よくよく考えると、財政投融資の焦げ付きの問題が郵政民営化の動機だったので、先に財政投融資の改革が行われたなら、郵政民営化はもはや金融改革としては本来は不要ではあるのだが(小泉政権の財政ブレーンだった竹中平蔵がそうジャーナリストの田原総一郎に述べている)、しかし政治のダイナミズムゆえか郵政民営化も政治的な関心事になり、そして郵政民営化も小泉政権により行われた[3]。(※ ここまで範囲外.)


小泉は自民党総裁の任期満了にともない、2006年に小泉は首相を辞職し、後継の内閣は安倍晋三(あべ しんぞう)内閣になった。

小泉政権のころから自民党は、公共事業を削減したり、地方交付税を削減したため、地方格差が目立つようになった。

また、非正規労働者は、この頃から急増したと思われる。

検定教科書に無い話題

「郵政解散」の用語は無い。当然、「小泉劇場」とかのフレーズも無い。

しかし、いちぶの検定強化書で、解散総選挙をしたことは書かれている。

2005年の8月の参議院で郵政民営化法案が否決されたとき、小泉は衆議院を解散して総選挙を行って、選挙に圧勝し、民営化が民意に支持されてることを主張した。 そして選挙後の10月、郵政民営化法案が可決された。


また、郵政民営化をめぐって対立した政治家の亀井静香(かめい しずか)や、亀井の創設した国民新党の説明も無い。

小泉の民営化改革は、郵政民営化のほかにも、道路関係四公団の民営化がある。

また、実質的な地方交付税の削減である、地方への財源移譲の改革もある。(東京のように富める自治体は、ますます富むが、地方の貧しい自治体は、ますます貧しくなる。)


規制緩和や民営化の元ネタは小泉政権ではなく中曽根政権である

現在(2018年に記述)の政治評論などでは、よく、小泉政権が、民営化路線や規制緩和路線の政策の代表例として挙げられることが多い。

しかし、1980年代の中曽根内閣のころから、民営化も規制緩和も、実行されていた。中曽根内閣のころにも、電信電話公社(現在のNTT)や国鉄(現在のJR)や専売公社(現在のJT)が民営化された。

労働者の「派遣」社員制度の規制緩和についても同様に、けっして小泉政権が元ネタではなく、中曽根政権が元ネタである。小泉政権時代の2004年にも規制緩和が進んだが、しかし1986年の中曽根内閣のころから既に「派遣法」があって派遣制度は存在し、その後も規制緩和の方針での法改正が1993年・1996年とつづいたのである。けっして小泉が最初に派遣の規制緩和を考えたわけではない。

さらに中曽根政権の前の鈴木内閣で既に、いちぶの行政の民営化の方針が決められていたのであり、その後の中曽根政権はその民営化方針を実行したにすぎない。


(※ 範囲外)20世紀末期~21世紀初頭の日本の規制緩和は、官僚側の視点で見れば、官僚による政策立案の仕事が減ったことでもある。フランスの官僚は政策立案もするのが普通。アメリカやイギリスの官僚は政策立案をしないのが普通。日本は21世紀になるころから、官僚の仕事内容がフランス型から米英型になったのである。政策立案の仕事がしたい人は、官僚や公務員などを目指すのではなく、政治評論家とかシンクタンク研究員とか政治学者とか、別の仕事を目指そう。
昭和の小説『官僚たちの夏』の時代とはもう違うのである。


(※範囲外 :)兵法と国会戦術

軍事学ですが、戦術論では、中国の兵法書『六韜』(りくとう)で、仮想敵国を滅ぼすための外交戦略として、

「交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が有能ならば何一つ与えず返せ。
交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が無能ならば大いに与え、歓待せよ。
そうすれば、隣国では無能な者が重用され、有能な者が失脚する。
そしてやがて滅ぶ 。」

という格言があります。

つまり、敵意を隠して、敵対勢力の中にある不合理なものを自分の気持ちにウソをついて褒めることにより、そのウソを真に受けた敵集団の中での不合理なものの割合を増大させることができるので、効率的に侵略できる、という戦術です。

実際、平成の日本国内の国政でも、国会の政局論争でも、失言などによって政党支持率を低下させた党首ほど、なぜか対立野党が褒め称えるという現象がありました。自民党の森政権の時代、2001年の『えひめまる沈没事故』やゆとり教育などに関して、自民党が日本国民から嫌われて自民の支持率が下がったとき、野党(民主党など)は当初は政権を攻撃していましたが、

しかし自民党が総理・党首を変えようとすると(のちに小泉潤一郎が総理になる)、野党の民主党党首の鳩山由紀夫は、 「なぜ変えるのか? 総理を変える必要はない」と言った感じのことを国会論戦で言いました。これは普通にテレビ報道されているシーンです。

野党からすれば、国民から嫌われた自民党党首のままで居てくれたほうが、次回の選挙がラクになるので、だから将来の選挙を見越して、その前の国会の会期中にはあえて対立政党の問題点を批判しないでむしろ選挙前のテレビ番組出演の可能期間までに取っておくために国会では対立政党の弱点を褒めておくという国会戦術すら存在するくらいなのです。

ただし、具体的な問題点(および問題の無い点)を明示する批評にしか、価値はありません。世の中には、曖昧な言葉でケチつけて、具体的な問題点を指摘しないことにより、達者ぶりたがることが好きなヘンな人がいます。それやってる人間は一片たりとも信用しないのが良いでしょう。

また、別の注意点として、政治の世界だと、この現象(「教えてくれる人が偉い」)を逆手にとって悪用して、大して情報価値の無い些細な事をまるで押し売り的に敵対勢力の若者・新人などに教えて、「教える側の自分が、さも相手より上位である」かのように周囲に印象づけようとする姑息(こそく)な手口もあります。


外交

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アメリカ外交

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アメリカ同時多発テロが2001年9月11日に起き、アメリカのブッシュ大統領が対テロ戦争(the war on terror)の方針を打ち出すなどすると(そしてアメリカ軍は、テロ首謀者の潜伏しているとみられるアフガニスタンの一地域を空爆などによって攻撃し、テロ組織を支援しているとみられるタリバン政権を打倒した。)、日本の小泉政権は積極的にアメリカの方針を支持した。そして2001年10月に日本ではテロ対策特別措置法が成立した。

そして日本は、多国籍軍支援のため、海上自衛隊をインド洋に給油活動のため派遣した。

その後の2003年3月にアメリカのブッシュ政権がイラク戦争を開戦すると、アメリカはただちにフセイン政権を打倒し、アメリカ軍はイラク占領に入った。(このイラク占領では、中東アジア系勢力によるものと見られるテロが多発し、アメリカ軍は苦しめられる事になる。)

そして日本は同年7月にイラク復興支援特別措置法を成立させ、イラク復興活動として自衛隊をイラクに派遣した。(2009年2月まで、イラクに自衛隊が派遣されていた。)

(なお、アメリカ軍は2011年12月にイラクから撤退する。)


検定教科書に無い話題

小泉政権は、その圧倒的な支持率により、それまでタブーとされてきた「日米同盟」など表現を国民に提唱した。

小泉以前の日本では、憲法によって、日本は「戦力」をもたないというタテマエのため、自衛隊を軍隊とみなす発言はタブー(禁句)的な扱いであり、そのような事情もあり、マスコミも公文書も小中高の教科書も 日米安全保障 のことを「日米同盟」とは呼ばなかったが、しかし小泉は積極的に「日米同盟」という用語を使った。

もっとも、自衛隊にイラクなどに派遣する際には、派遣先の地域については「非戦闘地域」であるという表現を、小泉政権は使った。

また、小泉は、A級戦犯をまつっているとされる靖国(やすくに)神社に首相として公式参拝した。

アジア外交

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2002年に小泉純一郎首相は北朝鮮を訪問して北朝鮮の金正日朝鮮労働党総書記と会談して、日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤン宣言)を結び、これによって北朝鮮による拉致(らち)被害者の一部の帰国が実現した。

しかし、日朝の国交は(2018年の)いまだに正常化していない。

(※ 範囲外: )日朝平壌宣言を見ても、そのどこにも「拉致」や「不審船」などの表現は無い[4]。この事から、この宣言は、(形式上は)北朝鮮が拉致を謝罪をしたものではない。
当時の北朝鮮の思惑として、よく言われている説は、おそらくは北朝鮮は拉致を事実を認める代わりに、日本からの経済援助や国交樹立などを引き出そうとしたのだろうと思われている。しかし、日本の世論が北朝鮮の拉致に対して怒ったためか、北朝鮮との国交樹立などは行われていない。さて、道徳教育で「よく悪いことをしたら、素直に謝りなさい」と指導されるが(たとえば米国ワシントン大統領の少年時代の桜の木を折りましたの創作逸話みたいな)、北朝鮮からすれば悪事を認めて謝罪したのにかかわらず、謝罪前より日本との友好関係が悪化したので、当然に北朝鮮からすればこれ以上は日本に何かの謝罪や譲歩をする必要は無くなり、よって北朝鮮の態度はしだいに強硬化していき、現在に至る。

小泉のあと

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小泉純一郎の辞職後、約1年で首相が交代する期間が2009年まで続いた。

この2006〜2009の期間の自民党内閣は、安倍晋三・福田康夫・麻生太郎の内閣である。

検定教科書に無い話題

2006年の安倍政権の時の、中華人民共和国での反日デモの激化。

2008年にアメリカで起きた金融恐慌の影響を麻生内閣は受け、自民党の支持率は大幅に下がった。そして2009年の選挙では民主党が圧勝して第一党となり、民主党の鳩山由紀夫(はとやま ゆきお)内閣が成立した。

このときの民主党政権は、民主党・社民党・国民新党の連立政権である。

鳩山内閣は、子ども手当ての支給などの政策を行った。

しかし、沖縄のアメリカ軍の普天間(ふてんま)基地の移設問題で、行きづまり、鳩山は首相を辞職し、2010年、おなじ民主党の菅直人(かん なおと)に内閣を交代をした。

菅直人内閣の時代には、尖閣諸島の周辺で中国漁船が領海侵犯した事件により(尖閣諸島不審船事件)、日中関係が悪化した。

菅直人内閣の時代の2011年3月11日、東北沖を中心とする大地震が起き、東北地方を中心に大津波により壊滅的な被害を受けた。震災・津波による死者は約2万人となった。

そして、東京電力福島第一原子力発電所では、津波などの被害により、大量の放射性物質もれをする深刻な事故になり、多数の近隣住民が避難する事態となった。

これらの事故の対応で民主党は批判をあび、2011年に菅直人は政権を同じ民主党の野田佳彦(のだ よしひこ)にゆずった。


2012年の衆議院選挙で民主党は大敗し、自民党政権となり、自民党の安倍晋三(あべ しんぞう)内閣(第2次)が成立した。

(※ 日本の国会について、検定教科書で教えられてるのは、ここらへんまで。第二次安倍政権の内容について、経済政策を簡潔に説明している教科書もある。)


教科書では現代史に無い文化史の話題

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文化については、1970年代から、もう検定教科書で、あまり紹介していない。このため、1980年代に流行したファミコンなどの家庭用ゲーム機も、教科書では、まったく触れられないのが通常である。

※ 中学の検定教科書では、いちぶの教科書で、巻末や巻頭の写真などでファミコンが紹介されてる。また、高校の山川の図説資料集(史料ではなく資料集。写真などの多いタイプの書籍のほう)でもファミコンの画像が紹介されている。
ファミコンについて勘違いしやすい点
※ 暗記は不要。
※ 教員、指導者用のコラム。

ファミコン以前にも、家庭用ゲーム機は販売されていた。しかし、ファミコンは売れ行きがケタ違いに高かった(世間では、ときどき、てっきり、ファミコンが日本初の家庭用ゲーム機だと誤解している人がいる)。なので、小中高の教育の段階では、ファミコンを優先的に紹介するのは意義がある。

なお、世界初の家庭用ゲーム機は欧米産のオデッセイ。 日本初の家庭用ゲーム機はエポック社のテレビテニス。

ファミコンと上記のゲーム機との差異についての説明は、省略する。小中高の公教育のレベルを超えるので。


副教科で紹介されてるゲームソフトなど
※ 暗記は不要。
※ 教員、指導者用のコラム。

中学高校の音楽の教科書や副教材などで、過去に、ドラゴンクエストのテーマ曲が紹介されてたりしたこともあった。ときどき、ファイナルファンタジー シリーズの曲も掲載される(FF4やFF10の曲などが過去に学校教材に掲載されたことがあった)。

高校の美術の教科書で、『ゼルダの伝説』が紹介されたこともあった。

また音楽の教科でも、ゼルダを出してる企業の任天堂(にんてんどう)の出しているゲームの『Mother』(マザー)シリーズの曲が学校教材に掲載されたことがあった。

ドラクエとゼルダ、ともに西洋風の中世風ファンタジーを題材にした作品であることも興味ぶかい。ファイナルファンタジーのシリーズも、シリーズ当初は西洋風の中世風ファンタジーを題材にした作品であった。


なおゲーム以外にも、それぞれの時代の歌謡曲など、いくつか学校音楽の教材に掲載されたこともあるし、いまでも、たびたび、一昔前に流行した歌謡曲が掲載される。アニメの主題歌なども、いくつか掲載されたこともあった。


ところで文芸のほうでも世界史では、西洋風の中世風ファンタジーをトールキンという作家が20世紀中期に『指輪物語』という長編小説を書いている。(世界史Bのほうで、帝国書院の世界史Bの教科書でトールキンと『指輪物語』が紹介されている。トールキンは第二次世界大戦の前に書いていたが、発表が戦後になり、影響も戦後になって出てきたこともあり、教科書では戦後史として紹介されている。)

この指輪物語が、その後の日本のファンタジー作家にも大きな影響を与えたと考えられている。


90年代からのインターネットなどの技術が文化に及ぼした影響についても、歴史科目では多くの教科書では、あまり触れられてない。(しかし、『情報』教科のほうで、インターネットについては触れられる可能性はある。)

第一学習社の日本史Aの教科書で、歌声合成ソフトの『初音ミク』(はつねみく)が2010年ごろに流行したことを紹介している。


帝国書院の世界史Bの教科書で、本文中ではなく図表だが、20世紀後半の文化として、音楽ではビートルズとか取り上げてる一方、マンガやアニメではともに日本人の作品の『ドラゴンボオール』と『AKIRA』を取り上げている。


20世紀後半の1990年代から、21世紀の始めのほうの2001年の頃にもなると、日本のマンガやアニメの評価が世界的に高まり、娯楽性だけでなく芸術性も評価されるようになり(※ 東京書籍がそう言ってる)、アニメ監督の宮崎駿(みやざき はやお)の作ったアニメが国際的な賞を受賞した。(※ 東京書籍の日本史Bの教科書がそう言ってる。

※ 宮崎以外の作家にも、フランスのカンヌ映画祭(正確にはカンヌ映画祭から独立したアヌシー国際アニメーション映画祭)などを受賞している日本人アニメ作家はいるが(※ フランスでは、日本のアニメの人気がとても高く、20世紀後半には、映画アニメではない一般の日本産テレビアニメの視聴率がフランスで50%超えや80%超えをする場合もあった)、フランスで表彰されているアニメ作家やマンガ家などは多数いるので、教科書としては紹介しきれない。なお、宮崎のアニメはフランスの賞の受賞のほか、イタリアのヴェネチア国際映画祭も受賞している。


サブカルチャーとは何か?
※ 清水書院の教科書で「サブカルチャー」の用語が紹介されている。

まず、文化のうち、商業を無視した文化で、比較的に権威のあるとされる文化がメインカルチャーです。「メイン」とは「主流」とかの意味です(清水書院「公共」の見解)。

なにがメインカルチャーかは教科書では紹介されていないですが(そもそもメインカルチャーの用語自体、紹介されていない)、たとえば古典芸能やクラシック音楽などがメインカルチャーでしょう。

一方、ファッションやアニメやゲームなどは、商業が主体なので、サブカルチャーです(清水書院「公共」の見解)。少なくとも、一般的な社会科学的な分類ではそうです。

「サブ」とは「副次的」とかの意味です(清水書院「公共」の見解)。

サブはメインの対義語です。

※ よく世間には渋谷系カジュアルを「サブカル」といっている人がいますが、誤用なので無視しましょう。渋カジだけでなく、それらと対立していたアニメ文化人たちも同様の誤用をしており、頭の程度がアレです。もちろん検定教科書では、こんな細かいことまでは話していない。

なお、若者文化のことは「ユース カルチャー」youth culture といいます(※ 清水書院の検定教科書に書いてある)。

※ 言葉は正しく使いましょう。若者文化のつもりで「サブカル」とか「アニメ文化」とか言うの、やめましょう。だいたい漢字で「若者文化」といえば済むのにそのほうが文字数も少ないのに(サブカルチャーは6文字、アニメ文化は5文字)、知ったかぶりで「サブカル」とか「アニメ文化」とか言うの、無知なくせに自分を知識人だと勘違いしている匂いがプンプンするので、すごくみっともないです。
※ ある有名なアニメ評論家が、「サブカルチャー」とは別に「アニメ文化」を分類していたのですが、しかし清水書院の高校「公共」教科書の著者の学者たちは、そのアニメ評論家の分類を全否定しているわけです。もちろん、渋谷カジュアルがあたかもサブカルチャーの代表者みたいなツラするのも、サラッと完膚なきまでに清水書院は否定しているわけです。このように、何かの用語の定義には、知見の本質が表れます。用語の定義とは、実はすごく知見が問われて、難しいことなのです。

その他

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メディアリテラシーなど

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日本史Bの検定教科書で、明成社(という教科書会社がある)の検定教科書で、2010年における日本の畜産農業での口蹄疫(こうていえき)の感染拡大について記述されている。

2010年のこの口蹄疫の感染拡大の出来事じたいは、単なる病原菌の感染拡大という生物学的な現象であるが、しかし当初、この問題は、テレビの地方局や地方新聞などを除いて、全国規模のテレビ放送局や全国規模の新聞などでは報道されなかった。


現代では、民主主義を成り立たせるための前提として、国民がマスメディアを活用して情報収集する必要があるが、ともすれば行政は国民を見下し、「パニックを防ぐ」などの名目で情報は隠されやすい。


同じような 行政による情報を隠す行為は、2011年の原発事故のときにもあった。

災害が起きているにもかかわらず、行政はただひたすら「安心してください」と根拠も述べずに、国民を無知なものと見下して命令するだけであった。(のちに全国的に報道され、批判されるようになった。)


他にも、民主党政権時代での、尖閣諸島の中国不審船の侵入事件などでも、当初、行政は、証拠とされるビデオ映像などを非公開としており、情報を隠していた。


そして行政だけでなく、本来はそれを監視する立場であるはずのマスメディアですら、取材をラクにしたいなどの理由だろうからか、取材先にあたる機関などの意向にしたがった報道をする事態もたびたび発生している。(上記の口蹄疫の問題がそうであろう。)

しかも残念なことに、日本国内についての出来事の報道でなく、国際問題などの報道についても、マスコミ各社が取材をラクにするための理由などで、本来なら独裁国家などであると報道しなければならないような外国ほど、マスコミは好意的に報道するという事態も、過去に何度か発生した。

実例として、21世紀の今では独裁国家だと言われている北朝鮮ですら、昭和の戦後の時代の日本のマスコミ報道では「地上の楽園」であるとして大手のマスメディアなどで報道されていた時代もあった。

  1. ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P185
  2. ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P185
  3. ^ 田原総一郎『ホントはこうだった近現代史3 中曽根政権から豊かな時代の崩壊』、ポプラ社、2013年3月5日 第1刷、164ページ
  4. ^ 田原総一郎『ホントはこうだった 日本近現代史 3 中曽根政権から豊かな時代の崩壊』、ポプラ社、2013年3月15日 第1刷 発行、153ページ、東大院の教授松原隆一郎の見解