この平安のころ、十二単(じゅうにひとえ)とか、竹取物語などの日本文学が流行ったので、平安期の文化のことを、日本風の文化という意味で、歴史用語で「国風文化」ということが多い。

しかし、この時代、外国由来の仏教や密教なども、ひきつづき、流行していた。

外来の文化の変化

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この時代、宗教では、「国風」という名前に反して、外来文化である密教や陰陽道(おんみょうどう)も流行していた。

また、陰陽道などでの方角に関する考え方により、縁起の悪い方角を避ける「方違え」(かたたがえ)などの風習も生まれた。

また、従来からあった神仏習合(しんぶつ しゅうごう)の考えは、この時代、より具体化し、神は仏が姿を変えた仮の姿(権現(ごんげん) )であるとする本地垂迹説(ほんち すいじゃくせつ)となった。

かな文学

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漢字の草書体をくずした かな文字(平仮名)は、貴族社会では、和歌や文学で用いられた。だが、公文書では、かな は用いられなかった。

また、かな の普及により、多くの和歌や文学がつくられるようになった。

文学

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『竹取物語』(たけとり ものがたり)は、いつ誰がつくったのか不明であるが、日本最古の かな物語 であると考えられる。(『竹取物語』の作者は不明なので、検定教科書では紹介してない。)

また、前提として、かな文字が普及している必要がある。

※ なお、紀貫之(きの つらゆき)が、(日本最古の)日記文学として『土佐日記』(とさにっき)を、かな文字をつかって書いている。なので、『竹取物語』も、この頃の時代の作品だろうと考えられている。

かなが普及したことにより、かな文字の文学が作られていくようになり、かなの和歌を多く含む勅撰の和歌集である『古今和歌集』がつくられた。

在原業平(ありわらの なりひら)など実在の人物を題材にした歌物語である『伊勢物語』も、書かれた。

また、『源氏物語』を書いた紫式部は、藤原道長の娘の中宮彰子(ちゅうぐう しょうし)に仕えた。 なので、その頃の時代の人である。

(※ 範囲外: )『源氏物語』のなかに、『伊勢物語』を参考にした描写があることなどから、作品の成立した順序も分かっている。
(古い側) 『竹取物語』 → 『伊勢物語』 → 『源氏物語』 (新しい側)
の順で、作品が出来た。

随筆では、清少納言(せい しょうなごん)の『枕草子』(まくらの そうし)がある。

(※ くわしくはwikibooks『高等学校国語総合』の古文の単元で、それぞれの作品を読んだほうが早い。)


  • まめ知識

なお、この時代、日記の使いみちは、文芸のほかにも、貴族の各家庭で子孫のための歴史書としても日記は書かれた。(※ 実教出版などの教科書で紹介。)これらの日記でも、漢字とともに平仮名が活用された。

末法思想

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「国風文化」という名とは裏腹に、仏教では、釈迦の没後から2000年後と考えられる西暦1052年に世界が乱れるだろうと不安視する末法思想(まっぽう しそう)が流行した。

このような思想のなか、死後は、けがれた地上に生まれ変わるのではなく、天国の浄土(じょうど)への生まれ変わり(往生(おうじょう) )を願う浄土教(じょうどきょう)が流行した。

985年に僧侶の源信(げんしん)は、『往生要集』(おうじょうようしゅう)を著した。

また、10世紀、空也(くうや)が京都で念仏を布教した。

また、貴族によって、各地に阿弥陀堂(あみだどう)が建てられた。

京都の宇治(うじ)にある平等院鳳凰堂(びょうどういん ほうおうどう)も、阿弥陀堂のひとつであり、平等院鳳凰堂のなかには阿弥陀如来像がある。

その他

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※ 「寝殿造」(しんでんづくり)とか、「十二単」(じゅうにひとえ)とか、大和絵(やまとえ)とか、中学で習ったとおり。

※ 発展的な話題

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(※ 山川出版、実教出版、明成社の教科書で紹介。)
(※ 清水書院、東京書籍の教科書では、記述が見られない。)

この時代の男子は、元服(げんぶく、げんぷく)という儀式を経ることで成人と見なされていた。

元服は、およそ数え年で12から16歳の時に行われる(時代や階級で前後する)。また、貴族の女子の場合は、裳着(もぎ)という儀式を行うことで成人したものとされた。元服にともない、貴族の男子は官職を得て、朝廷に仕えた。

(範囲外?: )なお、元服は加冠(かかん)や初冠(ういこうぶり)等ともいう。(※ 国語教科の古文科目で、作品『伊勢物語』で『初冠』とという作品が高校の範囲内。)

また、この時代、宮中で、元旦や 節会(せちえ)や 新嘗祭(にいなめさい)などの年中行事が発達した。新嘗祭や大祓(おおはらえ)などの神事も、この平安時代の年中行事に含まれる。

  • 服装

男性貴族の正装は束帯(そくたい)だが、普段着として、束帯を簡素化した直衣(のうし)や、簡単な構造で動きやすい狩衣(かりぎぬ)や布衣(ほい)などの衣服も着用された。

庶民の男性も、晴れ着(はれぎ)として、水干(すいかん)などを着ることもあった。

女性の正装は、女房装束(にょうぼうしょうぞく)である(いわゆる十二単(じゅうに ひとえ) )。