延久の荘園整理令と荘園公領制 編集

延久の荘園整理令 編集

11世紀のなかば、藤原氏を外戚としない後三条天皇(ごさんじょう てんのう)が即位したので、摂関政治が終わった。

後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令(えんきゅう の しょうえん せいりれい)を出し、記録荘園券契所(きろく しょうえん けんけいじょ)を設置し、基準に満たない荘園を停止した。 摂関家も例外なく、多くの荘園を停止された。 

地方政治の変革 編集

院政の開始 編集

(後三条天皇は、院政を行ってない。)

つづいて、後三条の子の白河天皇(しらかわ てんのう)が即位したが、1086年に退位して幼少の堀河天皇(ほりかわ てんのう)に皇位をゆずり、白河みずからは上皇となった。


そして、上皇みずから、政治を行った。

このような、上皇による政治のことを院政という。

院とは、もともとは上皇の住まいのことだったが、しだいに上皇じしんを指し示すようになった。

白河上皇、鳥羽(とば)上皇、後白河(ごしらかわ)上皇が、院政を行い、100年ほど院政が続く。

院政期の政治 編集

白河上皇は、院の御所に警備のため北面の武士を設けた。


歴代の上皇の院政の仕組みでは、上皇は院庁(いんのちょう)を設けた。国政は、上皇が太政官(だじょうかん)に指示して、実行された。

院政では、上皇の意志を伝える文書である院宣(いんぜん)や、院庁から下される文書である院庁下文(いんちょうの くだしぶみ)が権力をもった。

この頃から国司ではない公卿や寺社に、律令国の国司推薦権と税などの収益を得る権限を与える知行国の制度が広まった。背景として、俸禄制度が崩壊して朝廷が公卿への給与を支払うことができなくなったことがあげられる。つまり、知行国からの収益を公卿への給与の代わりとしたのである。また、上皇が院近臣らに、あたかも私領のように知行国を与えることによって奉仕させることも可能になった。

院政期の社会 編集

荘園の制度は、この時代もひきつづき、存続した。ますます、荘園の独立性は高まっていき、中央政府は貴族や寺社の荘園からは租税などを取りづらくなった。

この頃、寺社が武装するようになった。寺社は、下級僧侶や領民を武装させて僧兵(そうへい)として組織した。また、僧兵らは、たびたび、貴族など相手に神木(しんぼく)や神輿(みこし)などをかついでデモ行進してくる強訴(ごうそ)を行い、要求を通そうとした。

朝廷は、僧兵らの圧力に対抗するため、武士を重用したので、中央政界で武士の影響力が高まった。