高等学校日本史B/保元・平治の乱
保元・平治の乱
編集保元の乱
編集 上皇方 (負) |
天皇方 (勝) | |
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天皇家 | 崇徳上皇(兄) | 後白河天皇(弟) |
藤原氏 | 左大臣 藤原頼長(弟) | 関白 忠道(兄) |
源氏 | 為義(父) 為朝(弟) |
義朝(兄) |
平氏 | 忠正(叔父) | 清盛(甥) |
鳥羽法皇は源平の武士を組織し、荘園を集積していったことで絶大な権力をえた。しかし、このことは鳥羽法皇の権勢の継承という問題を引き起こすことになる。1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去すると、次の治天の君の地位をうかがう
また、鳥羽法皇の治世末から藤原氏も摂関家の継承をめぐって、関白・藤原
崇徳上皇は権力を取り戻すために頼長らと手を結び、さらに源為義・為朝父子や平忠正らの武士を招集した。一方の後白河天皇は、鳥羽法皇の側近だった藤原
この結果、崇徳上皇は讃岐に流され、為義らは処刑された。この戦後処理では、400年ぶりに上皇が島流しとされたこと、約350年ぶりに死刑が行われたことで当時の貴族たちに大きな衝撃を与えることになった。そして、武士が単なる警護役ではなく政治闘争にも関わるようになったことも貴族層に強く印象付けることになった。後に『愚管抄』を記述する慈円はこの乱によって「
平治の乱
編集保元の乱ののち、後白河天皇は退位し、院政を開始した。この時に政治の主導権を握ったのが藤原通憲であった。通憲は平清盛と手を結び、荘園整理や悪僧・
勝ち | 負け | |
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院近臣の貴族 | 藤原通憲(→自殺) | 藤原信頼(→斬首) |
武士 | 平清盛 平重盛 |
源義朝(→謀殺) 源義平(→斬首) 源頼朝(→伊豆) |
1159(平治元)年、通憲に反感を持つ藤原
保元・平治の乱の結果、藤原氏の力はさらに落ち込み、源氏をはじめとする多くの武士も没落・滅亡した。一方で、平清盛の地位は、唯一の武家の棟梁として急速に高まっていった。
平氏政権
編集平家の繁栄
編集平氏は清盛の父・忠盛の頃から日宋貿易に力を入れていた。11世紀後半から日本・宋・高麗との間での商船の往来は活発化しており、貿易の利益は清盛にとって重要な経済基盤となっていた。
こうした豊かな財力を背景にした後白河上皇への奉仕と軍事力は清盛の権勢を大いに高め、1167(仁安2)年には武士として初めて太政大臣に就任する。清盛本人だけではなく、嫡子・重盛をはじめとした一族も高位高官にのぼり、最盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出することになる。
清盛は娘の
その間に荘園は500余りを所有するようになった。こうした清盛を中心とした政権を平氏政権、あるいは六波羅政権という(六波羅は清盛の邸宅の場所)。
日宋貿易
編集政権の動揺
編集平氏政権は従来の朝廷の組織にのっとったもので、平家一門が官職を独占して政権を運営していた。一方で、清盛らとの縁の薄い貴族や他の武家は政権から排除されていたため、徐々に平氏政権に対する不満が高まっていった。また、後白河法皇と清盛との関係も微妙なものとなっていた。そうした中、1176年に後白河法皇の妃で清盛の妻の姉妹であった建春門院滋子が病没し、清盛と法皇・近臣との対立が深まっていった。
1177年、後白河の近臣である藤原
そして1179年、清盛の嫡男であり法皇と清盛の調整役であった平重盛が死去するなどの出来事が積み重なると対立は決定的なものとなる。同年11月、清盛はクーデターを起こして関白をはじめとした多くの貴族たちを左遷または官職を
こうして、平氏は独裁的な強権を手に入れた。しかしこのことがかえって平家一門への反感を強め、反平氏の勢力を結集させることになる。