wikibooks『高等学校古典B』で『大鏡』(おおかがみ)など参照せよ。

この時代、歴史への関心が高まり、『大鏡』(おおかがみ)や『今鏡』(いまかがみ)などの歴史物語がつくられた。また、藤原道長の逸話を書いた『栄花物語』(えいがものがたり)も書かれた。いっぽう、『大鏡』は、藤原氏に批判的な視点で書かれている。

また、『大鏡』や『栄花物語』の文体は、仮名(かな)書きである。

また、新興勢力である武士への関心が高まったことから、軍記物への関心も高まり、平将門の乱を書いた『将門記』(しょうもんき)や、前九年の役を書いた『陸奥話紀』(むつわき)も書かれた。

また、絵巻物(えまきもの)がつくられ、『源氏物語絵巻』や『伴大納言絵巻』(ばんだいなごん えまき)、『鳥獣戯画』(ちょうじゅうぎが)もつくられた。

当時の民間の流行の歌謡のひとつに今様(いまよう)というのが、あった。後白河は今様を好み、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)を編纂した。

このほか、民間では、田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などの芸能も流行していた。

これらの歌謡は芸能は、貴族のあいだでも流行していた、という。

※ 後白河の「今様」好きとか、軍記物の流行、などから推測できるように、どうも、この時代の貴族は、貴族以外の庶民(とはいっても京都などの町民だが)や武士などの貴族以外の集団の社会についても、貴族は関心を抱いていたことが分かる。けっして、鎌倉時代になってから急に、貴族による庶民への関心が高まったのではないようで、どうも、すでに院政期の時代から、貴族の庶民社会への関心は、だんだんと高まっていってるようだ。

インド・中国(チャイナ)・日本の仏教説話をあつめた『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)もつくられた。

建築物では、この時代に奥州藤原氏によって、中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)が平泉(ひらいずみ)に建てられた。

このほか、各地の豪族により、陸奥に白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)、九州に富貴寺大堂(ふきじ おおどう)などが建てられた。

(これらの建築物の分布からも推測できるように、)この時代には、日本全国の各地に仏教や浄土教が普及していった、と考えらている。


また、平家が厳島神社(いつくしまじんじゃ)に納経した『平家納経』にも、絵画が描かれている。

『扇面古写経』(大坂、四天王寺)この紙には書かれてないが、ほかの紙には、京都の市中での庶民のようすが描かれたのもある。

『扇面古写経』に、絵画あり。