高等学校日本史B/鎌倉幕府の成立

源平の争乱編集

1179年に平清盛は後白河法皇を幽閉し、1180年に平氏が清盛の娘の徳子(とくこ)の産んだ安徳天皇を即位させると、同1180年に後白河法皇の子の以仁王(もちひとおう)は源頼政(〜よりまさ)とともに挙兵し、また、以仁王は諸国の武士に平氏討伐の命令を出した。

同1180年、伊豆(いず)に流されていた源頼朝(みなもとの よりとも)、および信濃の木曽(きそ)の源義仲(みなもとのよしなか)のほか、各地の武士団がこの命令に従って挙兵した。

平氏は、一時、都を摂津(せっつ)の福原(ふくはら)に移した。この遷都は、瀬戸内海の支配を確保するための拠点移動であったが、しかし貴族などに反対されたため、半年で京に都を戻した。

1181年に飢饉(養和の飢饉)が発生すると、これは平氏に不利に働いた。


1183年、平氏は京都をめぐって義仲の軍勢と戦い、平氏が負け、平氏は安徳天皇を連れて西国に逃げる(都落ち(みやこおち) )。

後白河法皇は、京都にとどまった。

そして、源義仲と後白河が対立した。


そして、頼朝は、弟の源範頼(のりより)および源義経(よしつね)および彼らの軍勢を京に派遣し、源義仲(よしなか)を討った。

(※ 源氏どうしで戦わせて勢力を削いで後白河を中心とした政権を築こうとする、後白河の策謀か? 実教出版が、この解釈で記述している。)

そして、摂津の一の谷(いちのたに)、讃岐の八島(やしま)の合戦で源氏が勝って平氏をやぶり、ついに1185年に長門(ながと)の壇ノ浦(だんのうら)での海戦が源平最後の決戦となり、壇ノ浦で平氏を滅亡させた。壇ノ浦の戦いで安徳天皇は死去した。

1185年、後白河法皇は、頼朝の勢力をそごうとして、義経に頼朝追討を命じるが失敗する。そして、逆に頼朝は軍勢を京に送って後白河にせまり、頼朝は諸国を管理する権限(頼朝の手下の「守護」(しゅご)を、各国の管理者として置く権利)を獲得する。また、荘園や国衙領にも地頭を置いて兵糧米を徴収する権利も、獲得した。

当初は「守護」でなく「国地頭」(くにじとう)などと呼ばれたが、やがて「守護」と呼ばれるようになった。
すでに東国は頼朝の支配下にあったので、実質的には、頼朝は西国の支配権を手に入れたことになる。

こうして、1185年に、頼朝が実質的に全国支配をする体制が出来上がった。

そして1189年、頼朝は、奥州藤原氏が義経(よしつね)をかくまったとして、頼朝は奥州藤原氏をほろぼした。(奥州藤原氏の藤原康衡(やすひら)は頼朝の要求に従って義経を殺したが、それにもかかわらず、頼朝は藤原康衡を滅ぼした。)

1192年の後白河法皇の死後、源頼朝は征夷大将軍に任命された。

鎌倉幕府編集