源平の争乱

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内乱の始まり

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1179年に平清盛は後白河法皇を幽閉し、平氏の専制体制を作り上げた。このことは他の有力貴族や寺社の不満を高めることとなった。1180年に清盛が、娘の徳子(とくこ)の産んだ安徳天皇を即位させると、後白河法皇の第2皇子の以仁王(もちひとおう)源頼政(みなもとのよりまさ)とともに挙兵した。これに清盛は速やかに対応し、以仁王らを攻撃した。頼政は宇治で戦死し、以仁王も奈良に逃亡する最中に討ち取られた。

こうした中、同年6月に清盛は都を摂津の福原に移した。この遷都は瀬戸内海の支配を確保し、平家の指導力を高めるための拠点移動であった。だが、貴族の反対に加え、南都北嶺の僧兵や畿内の源氏の活動が活発になったために半年で京に都を戻した。

以仁王は敗死したが、挙兵と同時に諸国の武士に平氏討伐の令旨を出しており、各地でこれに呼応した各地の武士(在地領主)が立ち上がった。こうして全国に反平家勢力が挙兵したことによって起きた内乱を治承・寿永の乱と呼ぶ。反平家勢力の中でも有力だったのが、平治の乱で敗れて伊豆(いず)に流されていた源頼朝、および信濃国木曽の源義仲であった。

源頼朝は、叔父の源行家によって伝えられた以仁王の令旨に応じ、1180年8月に妻・政子の父である北条時政らと挙兵して伊豆国目代の館を奇襲した。目代への襲撃は成功するものの、頼朝挙兵の報を受けた平家方の大庭景親が3000騎の大軍を率いて頼朝討伐を開始した。兵力の乏しい頼朝軍は石橋山(神奈川県)で迎撃するも大敗する(石橋山の戦い)。頼朝は安房国(千葉県南部)へと逃れ、再起をはかった。安房で北条氏とともに挙兵した三浦氏とも合流し、源氏に仕えていた武士たちも頼朝の下に集まりはじめた。そして、千葉常胤や上総広常などの有力な豪族が頼朝に従うと形勢は頼朝の方へ一気に傾いた。そして、同年10月には平家方の大庭らの平家方豪族を倒して源氏ゆかりの地である鎌倉に入った。

清盛は孫の平維盛(これもり)を大将とした討伐軍を派遣するが、平家軍は駿河国富士川での頼朝軍との合戦(富士川の戦い)に敗北する[1]。しかし、勝利した頼朝は御家人の意見を取り入れてそれ以上の進軍を行わず、鎌倉に帰還して東国経営に専念する。

大敗した平家も立て直しを図り、以仁王に味方した大寺社を焼討し、畿内の源氏勢力を討伐した。特に、1180年12月には反平家の動きを見せた興福寺を、清盛が息子の平重衡(しげひら)に命じて攻撃した南都焼打ちは興福寺と東大寺の堂塔伽藍を焼失させ、奈良の街にも大きな被害をもたらした。しかし、翌1181年2月に清盛が死去する。加えて、畿内・西国を中心とした飢饉(養和の飢饉)は、西国を拠点とする平家に深刻な打撃を与えることとなった。

源義仲の栄光と没落

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頼朝のいとこにあたる源義仲は拠点である信濃国で挙兵した。義仲は1181年6月に平家方の豪族を倒すと、北陸道の反平家勢力をまとめ上げて勢力を急拡大する。1183年、平家が再び維盛を大将とした義仲討伐軍を派遣するも、加賀国と越中国の国境にある倶利伽羅(くりから)峠の戦いで義仲軍に大敗してしまう。勢いに乗った義仲軍は平家方を追撃し、同年7月には京都に進軍してきた。畿内の反平家勢力もこれに呼応するように進撃をはじめた。防衛が難しいと判断した平家は京都を放棄し、安徳天皇を連れて拠点である西国に撤退する(平氏都落ち)。その際、平家方は後白河法皇も西国へと連れ出すことを企図していたが、法皇はいち早く比叡山に脱出しており、失敗した。

入京した義仲は、当初こそ後白河法皇から軍功を称賛されたものの、安徳天皇の次の皇位をめぐる問題から法皇・朝廷との関係が急速に悪化する。さらに飢饉によって疲弊していた京都の市街では義仲軍だけでなく他の反平家勢力も混在していたこともあり、義仲の統制が十分にはなされなかった。そのため、都の治安が急速に悪化し、兵たちによる略奪が横行した。こうした失態を挽回するべく義仲は同年9月に西国へと出陣した。

しかし、義仲が京都を発つ頃には後白河法皇と頼朝とが交渉を始めていた。同年(1183年・寿永2年)10月、交渉の末、頼朝による東海・東山両道の支配権を承認された(寿永二年十月宣旨)。これにより、頼朝は公式に赦免された。

そして、頼朝は弟の源範頼(のりより)および源義経(よしつね)を将とする軍勢を京に派遣する[2]。源義仲は防戦するも、もはや義仲に付く武士は少なかった。1184年1月、義仲は近江国粟津にて討死した。

平家滅亡

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義仲と頼朝が争っている間に平家は福原まで進出し、京都奪還をうかがうまでに勢力を回復した。後白河法皇は義仲が討たれると、すぐさま平家討伐の院宣を頼朝に下す。1184年2月、源氏勢は摂津国一の谷での決戦に勝利する。こののち、頼朝勢は義仲の残党や平家に与する勢力を掃討または臣従させ、平家の拠点たる九州・四国まで勢力を伸ばすことに成功する。1185年2月には讃岐国屋島(やしま)を急襲して平氏を破る(屋島の戦い)。そして、同年3月には長門(ながと)国の壇ノ浦(だんのうら)の戦いにて平家は滅亡し、安徳天皇も海中に没した。

コラム:源平合戦の実態

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治承・寿永の内乱は源平合戦とも言われ、源氏と平氏の勢力争いのように描かれることが多い。軍記物では「源平の宿命的な対立」も強調されがちである。しかし、実のところ全ての源氏が頼朝に、全ての平氏が平家[3]の下についたわけではない。例えば、頼朝とともに挙兵した北条氏・三浦氏は平氏であった。一方、古くからの源氏の家人は当初、頼朝の挙兵には否定的な者も少なくなかった。また、同じ清和源氏である常陸(茨城県)の佐竹氏は平家に近かったため、頼朝から討伐された。

治承・寿永の内乱の背景には、平家による権力の独占に対する反発に加えて、所領の拡大を目指す在地領主と国司・荘園領主との対立があった。自らの知行国を増加させて荘園の集積も行った平家一門は、地方政治の矛盾を一手に引き受けてしまった上に有効な手を打てなかったのである。そのことが平家への反発を強めることになったのだ。そして、在地領主はあくまで自らの要求に最も応える可能性のあるものに従ったのであり、「源氏の棟梁」という理由で頼朝に従ったわけではない。

そのため、頼朝以外にも武家の棟梁となりうる者もいた。平家一門を都落ちさせた源義仲、以仁王の令旨を届け、交渉力に長けた源行家、甲斐源氏の棟梁であり富士川の戦いで頼朝の勝利に貢献した武田(源)信義、さらには清盛の後継者である平宗盛にも棟梁となるチャンスはあった。しかし、在地領主や荘園の荘官、諸国の在庁官人たちの要求に最もよく応えられた頼朝だけが彼らを御家人としてまとめ上げ、武家の棟梁となることに成功したのだった。

鎌倉幕府

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統治機構の確立

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鎌倉は東海道の要衝であり、三方を山で囲まれ、南は海に面した天然の要害であった。さらに、頼朝の五代前の先祖である頼義が鶴岡八幡宮を建立したこともあり、鎌倉は源氏ゆかりの地でもある。こうしたことから、頼朝は鎌倉を拠点として関東統治のための機構をつくりあげる。頼朝は鎌倉を動かず、合戦はもっぱら弟の源範頼と源義経に任せていた。

1180年、富士川の戦いの後、頼朝は有力武士たちとの主従関係を明確なものとし、頼朝に直属する武士たちは御家人と呼ばれるようになり、頼朝は後に鎌倉殿と呼ばれるようになった。そして、御家人たちを統括する部署として侍所(さむらいどころ)が設けられた。その別当(長官)に任じられたのが関東の有力豪族であった三浦一族の和田義盛(わだよしもり)であった。

1184年には政務や財務を取りしきる公文所(くもんじょ)と裁判事務を担当する問注所(もんちゅうじょ)が開かれた。公文所は後に整備が進み政所(まんどころ)となる。公文所(政所)別当には元々朝廷の下級官吏であった大江広元(おおえのひろもと)が、問注所執事(長官)には下級官吏出身の三善康信(みよしのやすのぶ)が招かれた。

全国支配の公認

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1185年、後白河法皇は、平家滅亡後に頼朝の勢力をそごうとして義経と叔父の行家に西国の武士の指揮権を与えて頼朝追討を命じる。だが、武士たちは義経らにつくことはなく、孤立してしまう。そして、頼朝は軍勢を京に送って後白河にせまり、追討令を撤回させる。加えて、御家人を守護[4]として各国に置く権利を獲得する。また、荘園や国衙領にも地頭を置いて兵糧米を徴収する権利も獲得した(文治勅許)。すでに東国は頼朝の支配下にあったので、実質的には、頼朝は西国の支配権を手に入れたことになる。

同年、京都に京都守護を置き、京都の警備と在京御家人の統率を命じた。九州には鎮西奉行を置き、地方の御家人を統率させた(1189年に奥州藤原氏が滅亡すると、奥州には奥州総奉行が置かれる)。一方、朝廷でも頼朝の後援を受けた九条(藤原)兼実が内覧、ついで摂政の地位に就く。兼実は貴族の合議を重視したため、後白河法皇の権力を牽制することになる。また、兼実は頼朝との協調路線をとっていった。

かくして頼朝が実質的に全国支配をする体制が出来上がった。そのため、1185年を鎌倉幕府成立とすることが通説となっている。

こうして頼朝は日本のほとんどの支配権を確立したが、未だ奥州には奥州藤原氏が残っていた。頼朝と対立した義経をかくまった藤原秀衡が没し、跡を継いだ藤原泰衡は頼朝との協調を目指して義経を自害に追い込む。だが、1189年、頼朝は大軍を率いて奥州へと攻め込み、奥州藤原氏を滅亡させる。これによって、頼朝に対抗する武家勢力は全て滅亡または従属して御家人となった。

後顧の憂いのなくなった頼朝は、1190年に上京し、右近衛大将(うこのえたいしょう)に任ぜられた[5]。1192年の後白河法皇の死後、源頼朝は征夷大将軍に任命された。こうして、名実ともに鎌倉幕府が成立した。

コラム:鎌倉幕府の成立は何年か

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今(2022年)の40歳代以上の年代に鎌倉幕府の成立年を聞けば、たいていの場合「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」の言葉とともに1192年という答えが返ってくるだろう。

しかし、現在では1192年を鎌倉幕府成立とする教科書・テキストはない。現行の小中高の日本史教科書では1185年を鎌倉幕府成立としていることが多いが、これは頼朝が「日本国惣追捕使(守護)」「日本国惣地頭」の地位を獲得し、守護・地頭の任命権を持ったことを根拠とする。しかし、中世史研究者の間では以下の6説が提示されている。

  1. 1180年末:頼朝が鎌倉を拠点とし、侍所を設け、南関東と東海道東部の支配権を確立した段階。
  2. 1183年10月:頼朝の東国支配権が事実上承認された、いわゆる「寿永二年十月宣旨」を受けた段階。
  3. 1184年10月:公文所と問注所の設立。
  4. 1185年11月:全国の荘園と公領に守護・地頭を置く権限を獲得した「文治勅許」を得た段階。(中高の歴史教科書で採用されている見解でもある)
  5. 1190年11月:頼朝が右近衛大将に任命されたとき。
  6. 1192年7月:頼朝が征夷大将軍に任命されたとき。

古くからの説は5と6であるが、これは「幕府」という言葉が近衛大将や将軍の館の意味に由来したことに基づく説である。すなわち、「頼朝が近衛大将・将軍となったこと」に注目したものと言える。現在、この2説に人気がないのは、既に頼朝が統治のための機構を作り上げつつあったことよりも「将軍」という形式にのみ注目しているからといえる。

一方、1~4は「鎌倉幕府」が軍事政権としての実体を持つようになった時期、つまり「どの段階で頼朝が政権を握った」と言えるか注目したものである。現在有力視されている4は頼朝の権力を全国に広げる契機に着目した説である。だが、鎌倉幕府の「頼朝による東国の支配権の確立」という性格に着目すれば2ないし3の説が、さらにその実効支配までさかのぼるならば1の説も主張される。

こうした見解の相違は、結局のところ「武家政権=幕府なのか」「将軍がいなくとも幕府と言えるか」「そもそも武家政権の権限はどこまで有効だったのか」などといった「幕府とは何か」という根本的な問いに由来する。

封建制度の成立

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御恩と奉公

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平安後期以降、武士は上皇・女院・摂関家・有力貴族と主従関係を結んでいた。この関係は後年に比べると非常に緩やかで、複数の有力者を主人とすることはごく当たり前のことであった。争いの中で、武士は自らの利益となる集団を選んだため、合戦の前後で主人を変えることも普通に行われた。

頼朝が挙兵し、鎌倉に入ると関東の武士たちは頼朝を主人と仰ぐようになる。それは頼朝が源氏の血筋だったからではなく、自分たちの権益を庇護する存在とみなしたからであった。頼朝の権力が公認されて勢力を拡大させていくと、関東以外の武士も頼朝に仕えるようになる。こうして、頼朝とその下に服属した武士は当時としては非常に強固な主従関係を結ぶ。

頼朝は鎌倉殿と呼ばれる一方で、彼に服属した武士は御家人と呼ばれた。頼朝は御家人に対して、先祖伝来の土地や新たに開発した私領を本領として確認し、その支配を承認した。これを本領安堵という。これは土地所有をめぐって国衙や他の勢力との争いが頻発していた中で、特に重要なことであった。また、新たに軍功などの功績があれば、それに応じて新たに領地を与えられたり、守護や地頭職に任ぜられたりすることもあった。これは新恩給与という。他に朝廷への官職推挙も行われた。こうした頼朝(鎌倉殿)から御家人に対して行われた恩恵を御恩という。

一方で御家人は主君たる鎌倉殿に奉仕する、奉公が義務付けられた。奉公の内容は、第一に戦時に一族郎党を率いて出陣する軍役であった。いわゆる「いざ鎌倉」とよばれる非常時には真っ先に鎌倉に駆けつけるのである。平時には、京都に滞在して内裏などを警護する京都大番役、鎌倉の将軍御所を警護する鎌倉番役が課せられた[6]

御家人は戦時には将軍・幕府のために命がけで戦った。平時の番役も自弁であり、御家人の負担は重いものだった。しかし、それでも幕府・将軍に仕えたのも、土地の給与を媒介とした主従関係ができたからであった。こうした関係を封建関係といい、これが政治的・軍事的制度となったのが封建制度である。そして、鎌倉幕府は封建制度に基づく、最初の政治体制だった。

公武二元支配

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一方で、この時代はまだ朝廷や荘園領主たる有力貴族や大寺社の権威と権力は強く残っていた。守護・地頭の任命権は幕府にあったものの、その設置には朝廷の承認を必要とした。また、平安時代に引き続いて朝廷が国司を任命し、国政全般を朝廷が担うという形式そのものは維持された。

経済的にも荘園公領制を前提としており、有力貴族や大寺社は荘園や公領からの収益の多くを得ていた。つまり、政治経済両面において、幕府と朝廷、幕府と荘園領主という二元的な支配体制が敷かれたのである。これを公武二元支配という。こうした二元支配は地方政治や土地制度だけでなく、御家人の主従関係にもおよんだ。御家人は鎌倉殿たる頼朝と主従関係を結んでいたわけだが、以前からの朝廷・有力貴族・寺社との関係も維持することもあった。

発展:権門体制

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公武二元体制に対して、朝廷・寺社・幕府は相互補完的な関係であり、この三者によって国政が進められたとする説がある。この説に基づく政治体制を権門体制という。この説によれば、朝廷は王家[7]・摂関家を戴き法令発布・官職任免・儀礼を担当し、大寺社は宗教権威を有し、幕府が軍事・警察を担当し、ゆるやかに国家を構成したとされる[8]

幕府の経済基盤

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  1. ^ 『平家物語』では平家軍は水鳥の飛び立つ音に驚き、戦わずして敗走したと伝えている。
  2. ^ これについては、実教出版の教科書では源氏どうしで戦わせて勢力を削ぎ、後白河法皇を中心とした政権を築こうとする策謀という解釈を述べている。他方、後白河法皇には長期的な戦略がなく場当たり的な判断に終始しており(『陰謀の日本中世史』呉座勇一著、角川書店、p.84参照)、単に有力な勢力に乗り換えただけという見解も根強い。
  3. ^ 多くの人が誤解しがちだが、平氏=平家ではない。一般的に平家は平清盛の一族・縁者とその郎党を指す。
  4. ^ 当初は「国地頭」などと呼ばれた。
  5. ^ 後年、頼朝のこと武家社会では右大将家と呼ぶのはこのことに由来する。また、幕府の名称もこの地位の唐名による。
  6. ^ 加えて将軍御所や鶴岡八幡宮の修繕費用など、幕府へ経済的支援を行う関東御公事(かんとうおんくうじ)も御家人にとっての義務であった。
  7. ^ 法皇・上皇を中心とする「家」を指す。
  8. ^ 『武士の日本史』高橋昌明著, 岩波新書p.75