高等学校日本史B/幕藩体制の停滞と諸藩の改革

時事 編集

1789年、クナシリ・メナシでアイヌの蜂起が起きた。

外国船の来航 編集

  • ラクスマンの来航

1792年に根室(ねむろ、北海道)にロシア使節 ラクスマンが来た。ラクスマンは、ロシアに漂流した大黒屋光太夫(だいこくだ こうだゆう)を日本に送り返し、また、日本に通商を求めた。

幕府は、外交交渉は長崎で行なうとして、ラクスマンに長崎入港の許可証(信牌)を与えた。また幕府は、通商の要求を断った。

1804年に、その入港許可証をもったロシア使節レザノフが長崎に来て通商の要求をするが、しかし幕府は通商を拒否する。

それからロシアは、(幕府に対する報復だろうか)しばしば蝦夷地や樺太や択捉を攻撃した。

それから幕府は、蝦夷地の防備を固めて、1807年に蝦夷地を一時期、直轄地とした。

1811年には、日本とロシアとの間で、ゴローニン事件も起きた。


  • 蝦夷地の探検

ラクスマンからゴローニンの一連の事件のあいだ、幕府は北方の探検を行った。

まず、ラクスマンの来日から数年後の1798年、幕府は近藤重蔵(こんどう じゅうぞう)・最上徳内(もがみ とくない)らに、国後・択捉を探検させ、「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)の標柱を立てた。

また1800年、伊能忠敬は日本全国の測量を行った。

(※ 備考: )一般的に、標柱と立てたり測量を行ったりするのは、「ここは日本領である」というような事をアピールするためである、と考えられている。

レザノフの来日後で(1807年に松前藩を直轄地にした翌年の)1808年、間宮林蔵に樺太とその沿岸を探検させた。

(※ 範囲外: )「大日本恵登呂府」の標柱を立てた時機は、田沼意次の失脚(1789年)後の時代。この事から、逆に考えてみれば、田沼意次は、ロシアなどとの交易をしやすくする目的や、北海道をロシアとの緩衝地にする目的などで、あえて国境は画定させなかったという外交判断があったのではないか・・・?、という説も提唱されている[1]。つまり、田沼の失脚の真の原因は、もしかしたら、通説の賄賂政治ではなくて、幕府内でのロシアとの外交方針の変化ではないか、というような感じの新説もある。

  • ゴローニン事件

1811年、ロシアに軍人ゴローニンが国後(くなしり)島で測量してたところ、幕府の役人がゴローニンを捕らえた(ゴローニン事件)。これに対してロシアは翌年、日本の船を捕らえ、その船に乗っていた交易商人の高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ)が捕らえられた。

最終的に、1813年に嘉兵衛が日本に送られ、嘉兵衛がゴローニン釈放を奉行所(松前奉行所)に依頼し、嘉兵衛じしんが日露交渉の仲介も精力的に行い、日露両国のゴローニン釈放交渉は成功し、幕府はゴローニンを釈放した。

そして、幕府は蝦夷地を松前藩に返還した。


  • 時事

さて、ロシアと紛争をしていた頃の1808年に、イギリス軍艦フェートン号が、当時敵国だったオランダ戦の だ捕(だほ、拿捕)をねらって長崎に侵入し、商館員をとらえ、薪水・食糧をうばい、やがて退去した(フェートン号事件)。


1824年、イギリス捕鯨船が来航し、日本に上陸した。薩摩国宝島では牛などを強奪する事件が起こった(宝島事件)。

翌1825年、幕府は、異国船打払令を出し、清・オランダ以外の異国船はすべて打ち払うことを命じた。

1837年、アメリカの商船モリソン号が、漂流民の返還をしにきて、通商を求めたが、打ち払い令による攻撃を受けた(モリソン号事件)。

この出来事に対し、蘭学者の渡辺崋山や高野長英は、それぞれ別の著書で打ち払いを批判したため、1839年に渡辺・高野は幕府によって弾圧された(蛮社の獄(ばんしゃのごく) )。

家斉の政治 編集

1793年ごろに松平定信が老中を退いたあと、しばらくは緊縮的な政策が続いたが、しだいに緩んだ。

11代将軍家斉(いえなり)は、1818年ごろまでは、寛政の改革の方針で政治をつづけたが、1818年以降は、政策を変えた。

(寛政の改革の方針をつづけてたと思われる期間の)1805年、幕府は、飢饉の影響などで荒廃した農村の秩序を保つために、関東取締出役(かんとうとりしまり しゅつやく)を置いて、犯罪者を取り締まった。

(寛政改革の撤廃後の)1818年以降、幕府が、質の悪い貨幣を発行すると、物価は上がったが、幕府財政はうるおった。また、家斉はぜいたくな暮らしをして、大奥の生活も華美になった。

都市の商業活動が活性化したが、農村が疲弊した。

このころ、なんらかの原因で、農民が農村から流出して、農村が管理されなくなり荒廃し、農村の治安が悪化した。その対策のため、1827年には、幕領・私領の違いを超えて近隣の村々をまとめて治安の取り締まりを委ねる寄場組合(よせば くみあい)をつくった。

1837年に家斉が将軍職を家慶(いえよし)にゆずった後も、家斉は大御所(おおごしょ)として実権を握りつづけた(大御所政治)。家斉は1841年に亡くなった。

家斉の時代、商業がさかんになったため、浮世絵・歌舞伎など芸術・芸能などの文化が発達した(化政文化)。家斉の時代の元号の「文化」「文政」(1804〜1830年)にもとづき、家斉のころの芸術などの文化を「化政文化」という。 (※ これらの元号の名前は、この時代の天皇が決めている。)

天保の飢饉 編集

徳川家斉(いえなり)が生存中の1832〜1833年、天保の飢饉(てんぽうのききん)が起きた。

この天保の飢饉は、きびしい飢饉であり、全国的な飢饉であった。

各地で、百姓一揆や打ちこわしが続発した。

1836年にも、飢饉が起き、もとから米が不足していた状況で飢饉が起きたので、ひどい状況になり、甲斐の郡内地方や三河の加茂郡で一揆が起きた。

1836年ごろ、大阪でも飢饉の影響で餓死者が出ていたが、大阪の役所は対策をとれず、それどころか米を江戸に回送していたた。

町奉行所の元・与力(よりき)で陽明学者の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)は、1837年に、貧民の救済のために門弟とともに民衆に呼びかけ武装して、富裕な商人などを襲撃する反乱を起こしたが、わずか半日で鎮圧された(大塩の乱)。

幕府の元役人が反乱を起こしたという事実に、幕府や諸藩は大きな衝撃を受けた

その後の同年、越後では国学者 生田万(いくだ よろず)が大塩の門弟と称して陣屋を襲撃した(生田万の乱)。このほか各地で、一揆が続発した。

水野忠邦の政治 編集

 
水野忠邦(みずの ただくに)

1841年に大御所 家斉が死ぬと、12代将軍家慶(いえよし)のもとで、同1841年に老中に水野忠邦(みずの ただくに)がつき、政治改革を行った(天保の改革)。

※ 天保の改革の経済政策的な内容については、中学で習ったとおり。

水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための人返しの令(ひとがえしのれい)を出した。事実上の、武士への借金帳消しをする棄捐令(きえんれい)も出した。

また、出版や芸能などを取り締まり、寄席の数も大幅に減らし、人情本作家の為永俊水(ためなが しゅんすい)らを処罰した。

物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させたが、かえって商品の流通を混乱させた。

しかし、貨幣の質を落とした。

(※ 現代の経済学では、一般に、貨幣の質を落とすと物価は上がる傾向があることが知られている。つまり、水野の政策は矛盾している。いったい、物価をあげたいのか、さげたいのか? 要するに、こいつ(水野)は馬鹿。)

このころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けると、幕府は(欧米との戦争をふせぐため)1842年に異国船打払令を撤回し、薪水給与令を復活させた。

また、日本の軍事力を強化するため、長崎から西洋砲術を学んだ高島秋帆(たかしも しゅうはん)を呼び寄せ、実射訓練をさせた。

1843年には、江戸・大阪の周辺を幕府の直轄地にしようと上地令(あげちれい)を出したが、諸大名や旗本(はたもと)などに反対され、実施できなかった。


水野忠邦は馬鹿

※ 水野忠邦は、馬鹿である。どうせ儒学の暗記勉強ができるだけの、実務能力のない馬鹿である。

馬鹿の水野は、(現実を無視して)松平定信の寛政の改革を手本にした。

株仲間を解散させることで、商人は自由に取引をできるようになるが、しかし、風俗や出版などを取りしまったので、それらの業界では自由に営業できない。つくづく、水野のやってることは矛盾しており、こいつ馬鹿。

馬鹿の水野は、財政再建をしたいはずなのに、幕府の権威の復興のため、諸大名を動員して日光社参を何度も参拝するという費用のかかることをする。(つくづく、水野、馬鹿だろ。)

国防の強化をしたが、だったら大名をひきつれての日光参拝みたいな出費の掛かる行事を減らすべきだし、つくづく水野は馬鹿。

また、出版も統制されてるので、民間人から国防のための優秀な意見も出にくくなる。つくづく水野は馬鹿。

水野は馬鹿で役立たずなので、老中を解任させられた。


天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、かえって幕府そのものの権威は低下した。

雄藩の躍進 編集

諸藩のなかには、経済改革や人材改革などを行い、改革に成功する藩も出てきた。

のちの明治維新では薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4つの雄藩(ゆうはん)が活躍するが、この4藩は、この1820〜30年代の藩政改革に成功している。

まず1827年に薩摩藩は、下級武士の出身の調所広郷(ずしょ ひろさと)を登用し、藩の借金を無利子返済にさせた。そして薩摩は、琉球を通じた清との密貿易や、奄美諸島(あまみしょとう)産の黒砂糖の専売などで、利益をあげた。

さつま藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)も開明的な政策をおこない、鹿児島に反射炉(はんしゃろ)を築き、さらに造船所をつくり、藩の工業技術を向上をさせた。

なお、水戸藩は、1829年に就任した藩主 徳川斉明(なりあき)が率先して改革をおこない、造船所を設置した。

佐賀藩も、藩主 鍋島直正(なべしま なおまさ)の積極的な改革により、反射炉を築き、さらに大砲を製造した。また佐賀藩は、陶磁器(有田焼、伊万里焼)の専売でも儲けた。

そのほか佐賀藩では、地主の土地の一部を小作人(土地をもってない農民)に与えさせ、本百姓(土地をもってて自分で耕す農民のこと)を増やした(均田制)。

土佐藩は、支出を切りつめるのに成功し、財政再建をした。

長州藩では、村田清風(むらた せいふう)が藩の借金を整理させ、紙・蝋(ろう)の専売を強化した。さらに、下関に寄港する廻船(かいせん)の積荷をあつかう腰荷方(こしにかた)で、倉庫業と金融業で利益をあげた。(※ 「倉庫業」という表現については、東京書籍の見解。他社の検定教科書によると、腰荷方のビジネスでは、資金の貸し付けや、委託販売などのビジネスを行ってたらしい。)

幕府も、やや送れるが、代官 江川太郎左衛門(えがわ たろうざえもん)に命じて、伊豆(いず)の韮山(にらやま)で反射炉を築いた。

  1. ^ 相澤理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史【近世・近代編】』、株式会社KADOKAWA (中経文庫)、P114