日清戦争

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日清戦争は1895年に終わる。

(中学校で説明したので、説明を省略。)

なお、当時の清国の艦隊のことを「北洋艦隊」(ほくよう かんたい)と言う。(高校の検定教科書にも書いてあるよ。)

(日露戦争のときのロシアのバルチック艦隊の名前は小中の検定教科書に書いてあるのに、北洋艦隊は高校でしか習わない。)

戦争前の金玉均の例のクーデター未遂も、高校の検定教科書にも書いてある。


中国が周辺諸国を支配する体制のことを「冊封」(さくほう)と言うのだが、日清戦争による日本の勝利により、朝鮮が冊封から脱することになったというのが、検定教科書の解釈である[1]、のだろうと考えられている。(※ 参考文献『ここまで変わった日本史教科書』の著者たちが文科省の教科書調査官)

戦間期

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国内

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日本の議会では、日清戦争後、政党の力が強くなった。

1898年の伊藤内閣(第3次)のころ、民権派の大隈重信(おおくま しげのぶ)と板垣退助(いたがき たいすけ)が憲政党(けんせいとう)を結成し、その結果、伊藤内閣は退陣し、同1898年に大隈重信を首相とする日本で最初の政党内閣が生まれた( 「隈板内閣」(わいはんないかく)という)。

※ なお、「政党内閣」でなく「政党」そのものは、1881年に板垣退助が自由党(じゆうとう)を結成しており、1882年に大隈重信が立憲改進党(りっけん かいしんとう)を結成している。1881年〜1882年当時の国会開設をめぐる板垣と大隈との意見の違いで、当時は政党が別れてるのである。


 
山県有朋(やまがた ありとも)

しかし、尾崎行雄(おざきゆきお)の共和事件によって憲政党内の対立は深刻化し、党は分裂して「憲政党」(旧・自由党系)と憲政本党(旧・進歩党系)に分裂する。

こうして隈板内閣はわずか4ヵ月あまりで退陣し、1898年11月から(第二次)山県有朋(やまがた ありとも)内閣になる。山県内閣は憲政党の支持をあつめ、地租増税を成立させた。

つづいて山県内閣は1899年に政党勢力が官僚に入り込めないように文官任用令(にんようれい)を制定した。

※ テストなどで、発音につられて「山県」をまちがえて「山形」と書いてしまう誤字が多いので、山県有朋を漢字で書く際には「ヤマケン アリトモと書く」ように覚えよう。

また1900年に山県有朋は、政党の影響が軍部や官僚に及ぶのをおそれ、軍部大臣現役武官制を制定した。

※ 軍部大臣現役武官制は、のちの昭和初期の戦前(第二次大戦前)に軍部が政治を支配するのに悪用されるが、しかし制定当初の目的は、上述のように、まったく違う。

さらに同1900年、治安警察法を制定し、労働運動などを取り締まった。


このような山県の政党への制限に、憲政党は不満をもった。なので憲政党は、山県と対立する伊藤博文(いとう ひろぶみ)に接近していった。

そして山県内閣が終わり、1900年には伊藤博文(いとう ひろぶみ)が、伊藤みずからを総裁(そうさい)とする立憲政友会(りっけん せいゆうかい)の結成が9月に予定されていたので、憲政党はこれに合流し、そして立憲政友会が予定どおりに9月に結成され、1900年10月から立憲政友会による第四次伊藤内閣になった。

※ 憲政党と立憲政友会は対立していない。議会で対立したのは、山県系の勢力と、政党系の勢力である。

つまり順序は、

憲政党隈板内閣山県有朋内閣 → 伊藤博文の立憲政友会の内閣

である。

なお、伊藤内閣は貴族院の反対によって退陣させられ、1901年に政権が桂太郎(かつら たろう)内閣に変わる。桂は、山県系の人物だと考えられている。

※ 政党名がたくさん出てくるが、まず覚えるべき政党は、「憲政党」「立憲政友会」の二つであり、覚えるべき人物については憲政党の大隈重信と板垣退助、および立憲政友会の伊藤博文である。他の政党を覚えるよりも、それなら「山県有朋」をさらに覚えたほうが、政争の背景が分かりやすくなるだろう。

三国干渉

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※ 高校の日本史Bの検定教科書では、あまり細かく説明されてないが、今後の『歴史総合』などに向けて説明。また世界史Bで習う範囲。

三国干渉で日本に譲歩をせまったヨーロッパ国は、ドイツ・フランス・ロシアの3か国である(中学でも、そうならっている)。

三国干渉の当時、ロシアとフランスは同盟(露仏同盟)を結んでいる。(なので、あとはドイツさえ覚えればいい。) ※s世界史Bでは『高等学校世界史B/欧米列強の内部情勢』などで露仏同盟を習う。

1891年に露仏同盟。
1894年~1895年に日清戦争。
1895年に三国干渉。

ただし、日清戦争の時点では、フランスは清国と数年前にベトナムの領有権をめぐり戦争(清仏戦争:1883年8月・1885年)をしている。(※ 清仏戦争については高等学校世界史B/東南アジアの植民地化) このため、三国干渉でのフランスの意図はおそらくだが、清国の味方をする意図ではなく、(日本の同盟国である)イギリスの活躍を嫌ったものだろう。

また、露仏同盟によってロシアが先進国フランスの金融市場から巨額の資金を調達できるようになった事もあり、シベリア鉄道の建設が1891年から本格的に開始する[2]


世界

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1898年、アメリカはハワイを併合した。 (同年、アメリカはスペインをやぶってフィリピンを植民地化。)

アメリカは中国進出におくれ、中国に植民地をもっていなかった。いっぽう、アメリカ以外の列強が、中国で独占的な経済範囲を設定していった(事実上の植民地の拡大)。のような動きを中国分割という。

しかし、中国領内に権益をもたないアメリカにとっては、列強の中国分割は旨み(うまみ)がない。

1899年、アメリカ国務長官ジョン=ヘイが、中国分割に反対して、門戸開放宣言を出した。(くわしくは世界史B『高等学校世界史B/1900年前後のアジア情勢』で)

(中国分割)

このように、アメリカが中国に進出しようとしてきた。

日露戦争

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?読者のきみたちは、小学校で、日露戦争の講和条約はポーツマス条約って習ったよね?

ポーツマス条約のとき、小村寿太郎が交渉した相手のロシア全権はウィッテ(人名)である。(※ 範囲外: ロシアの政治の実権を握っていただろう人物が、このウィッテだろうと思われている。また、シベリア鉄道の建設を推進した人物も、このウィッテである[3]。)

日露戦争は1904年に始まり、1905年に終わる。


ほかの知識として、日露戦争の戦費の多くが外債で調達されたことが検定教科書でよく紹介されている。(ロシアを除く)欧米の銀行[4]から、日露戦争の戦費を日本は調達した。

※ 伝記などで、高橋是清が、海外の銀行などとの交渉で、日露戦争の戦費を調達した話が有名。

※ 中学校社会科の歴史分野では「債権」や「債務」をまだ習っておらず(中3の公民で習う。実は中学の国語でも二字熟語として少し習う)、そのため「外債」も中学では扱わないので、高校でないと日露戦争の「外債」は紹介が難しいだろう。

日露戦争後

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韓国の保護国化

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日露戦争中、日本は韓国に日韓協約を強制的に結ばせ、日本は韓国内での軍事行動の自由を得た。

日露戦争終戦時の1905年、日本はアメリカとの間で非公式に桂・タフト協定(かつら タフト きょうてい)を結んだ。桂タフト協定の内容は、日本がアメリカのフィリピン統治を承認し、アメリカは日本の朝鮮支配を承認するという

また、イギリスとも日英同盟が更新され(第2次日英同盟)、日本はイギリスのインド支配を承認し、イギリスは日本の朝鮮支配を承認することとなった。

これを背景に、同時期に日本は第2次日韓協約をむすんで韓国の外交権をうばい、統監府(とうかんふ)を置いて伊藤博文が初代の統監になった。

これに対し韓国は、1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り、日本の韓国支配について抗議したが、しかし、列強は無視した(ハーグ密使事件)。

日本はこの密使事件を理由にして韓国皇帝高宗を退位させ、第3次日韓協約をむすんで韓国の内政権をうばい、さらに韓国軍を解散させた。

満州への進出

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関東都督府

満州では1906年、日本単独で南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。この鉄道は、ロシアから譲り受けた鉄道を母体にしたものである。

当初、この鉄道会社は、日本とアメリカの資本家ハリマンとで共同経営する予定だったが(桂ハリマン協定)、小村寿太郎の反対により、日本単独で満鉄が設立された。

(※ 一説には、かわりにアメリカの大財閥であるモルガン財閥からの融資を満鉄は受けたという説もあるが、しかし真偽はハッキリしない。)


脚注・参考文献など

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  1. ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P156
  2. ^ 雑誌『歴史街道』2005年11月号、特集『日清戦争の真実』、17ページ、16ページ、中西輝政の記事
  3. ^ 世界史の窓『ウィッテ』
  4. ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P192

外部サイト

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