高等学校日本史B/第一次世界大戦と日本

桂園時代

編集

第1次桂内閣は、1905年に退陣し、立憲政友会の総裁である西園寺公望(さいおんじ きんもち)に政権をゆずった。

そして1906年に西園寺内閣(第1次)が組織された。西園寺内閣は、日本国内の鉄道建設を大いに行った。

1906年以降から1913年まで、西園寺と桂が数年おきに交互に政権を交代する結果になったので、最初の桂内閣の1901年から1913年までの期間のことを桂園時代(けいえんじだい)という。

いっぽう、伊藤博文や山県有朋たちは第一線をしりぞき、元老(げんろう)と言われるようになり、元老は背後から国政に影響を与えた。


さて、第1次西園寺内閣は1907年、恐慌が起き、翌1908年の選挙では勝利したが責任を感じて、桂太郎に政権をゆずった。

そして1908年に桂内閣になり、(財政の建て直しのためだろうか)国民に質素倹約や勤労をとく戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布(はっぷ)して、地方改良運動を推進した。

また桂内閣は、1910年に大逆事件(たいぎゃく じけん)が起きると、社会主義者を弾圧した。

いっぽう、翌1911年に桂内閣は、労働環境の改善をさだめた工場法を制定するなど、多少の配慮も見せた。(しかし工場法の公布は5年後である。)

そして桂内閣は韓国併合を強行したのち、1911年にふたたび西園寺に内閣をゆずった。

そして1911年、西園寺内閣がふたたび組閣された。

大正政変

編集

辛亥革命(しんがい かくめい)などへの対策を理由に、日本では陸軍が二個師団増設要求して併合後の韓国に置こうとしたが、西園寺内閣は財政難を理由(日露戦争の費用を外債などで賄っていたため)に、陸軍の要求を拒否した。いっぽう、西園寺内閣は海軍の建艦を優先した。

すると、陸軍大臣の上原勇作(うえはら ゆうさく)が辞表を天皇に提出し、陸軍が後任の人員を出さなかったので、軍部大臣現役武官制により西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。

西園寺退陣後の後任の首相には、陸軍出身で長州閥であり内大臣兼侍従長であった桂太郎(かつら たろう)がついた(第3次桂内閣)。しかし世論は、西園寺内閣の退陣が桂によるものと見て、桂を批判し、また宮中にいた(侍従長)人物が政府の要職につくことは政府と宮中の境界を乱すものだとして、(世論は桂を)批判した。

そして、「閥族打破憲政擁護」(ばつぞくだは、けんせいようご)というスローガンの倒閣運動が起こり、批判勢力の政界の中心人物は野党勢力の立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)や立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)であった。 この批判運動に新聞記者・雑誌などのマスコミに、弁護士、商工業者や民衆などが加わり、全国的な倒閣運動になった(第一次護憲運動、だいいちじ ごけん うんどう)。

結果的に、桂内閣は在職50日あまりで退陣するはめになり、1913年2月に桂内閣は倒れた(大正政変、たいしょうせいへん)。 この出来事の前、民衆が議会を取り込んで、政府系の新聞社や交番などを襲撃する事件が起きた。

なお桂は護憲運動のさなかの政権時に、桂は新党を結成しようとしており、のちの加藤高明が総裁の立憲同志会の母体になる。

政変後

編集

山本権兵衛

編集
※ 軍人出身の内閣だからと言って、武断政治とは限らない実例がある。それが、これから紹介する権兵衛の行財政改革の例である。政党人出身の内閣だからと言って、外国に強行的な交渉をする場合もある。それの政党出身の内閣の例が、大隈内閣での中国への二十一箇条要求である。
※ 第二次世界大戦のイメージで「軍部出身=対外強硬派」みたいに大正時代の軍人出身内閣を捉えてしまうと、ワケが分からなくなる。

大正政変後、桂のあとの内閣には、薩摩出身の海軍大将の山本権兵衛(やまもと ごんべえ)が政友会を与党として内閣を組閣した。

山本内閣は行財政改革を行い、 軍部大臣現役武官制をゆるめる改正をして、現役規定を削除し、予備役・後備役の軍人でも陸海軍大臣につけるように陸海軍大臣の資格を拡大する改革をした。 また、文官任用令(ぶんかんぶんようれい)を再改正して、政党員でも高級官僚につけるようにした。

(軍部大臣現役武官制は、過去に西園寺内閣の辞職の原因になったので、山本内閣の時点で、すでにこの制度に問題点があること自体は気づかれていた。)

しかしドイツのやイギリスのなど外国からの軍艦の購入にからむ、日本の海軍高官がからむ汚職事件のジーメンス事件(シーメンス事件)が1914年に起きた。このジーメンス事件により、山本内閣は国民から批判され、退陣に追い込まれた。

ジーメンス事件とは、ドイツのジーメンス社からの軍需品の買入れをめぐっての日本の海軍高官の贈収賄が発覚しと、また巡洋艦金剛(こんごう)の発注をめぐるイギリスのヴィッカース社から日本の海軍高官が賄賂を受け取ったとの事件も明るみになった事件である。

コラム: 軍部大臣現役武官制の欠陥

編集
軍部大臣現役武官制の欠陥

山県有朋

なお、そもそも軍部大臣現役武官制を最初に明確化したのは山県有朋(やまがた ありとも)の内閣であり、山県が軍部大臣現役武官制を制定した年は1900年のできごとである。そして、文官任用令をさだめて政党人が官僚になるのを制限した人物も、山県有朋であり、1899年のできごとである。つまり、山本権兵衛は、山県の政策を修正したのである。山県有朋は、陸軍出身である。さらに、治安警察法をつくって政治運動や労働運動を制限した人物も、1900年ごろの山県有朋である。

※ テストなどで、発音につられて「山県」をまちがえて「山形」と書いてしまう誤字が多いので、山県有朋を漢字で書く際には「ヤマケン アリトモと書く」ように覚えよう。

のちの第二次世界大戦と軍部大臣現役武官制・治安維持法

のちの昭和の日中戦争の前の時代ころに、治安警察法が治安維持法に発展して、日本の言論活動を統制することになる。この治安警察法・治安維持法による統制が、戦前・戦中の昭和前半の当時の日本が「ファシズム」「軍国主義」などと言われる状態になった原因の一つと考えられる。日中戦争の直接的な原因は、おそらく満州事変とそれ以降の対中強行路線であろうが、その遠因には、このようなこともある。

また、同じく日中戦争前の昭和前半の時代ころに、軍部大臣現役武官制のせいで、軍部の強行路線が政府に影響力を持つようになった。(広田弘毅内閣が組閣したあたりから)そして、戦前昭和の政党が軍部の意向に従わないといけなくなった結果、議会では、日中戦争と太平洋戦争へと向かう日本政府の強行路線を止める議会勢力が機能しなくなった。もちろん、議会の機能低下のより直接的な原因には、満州事変のときに政府が、軍部に同情的な世論に応じてしまい、政府が事件関係者を処罰できなかったため、そののち軍部の暴走を許すような雰囲気を政治や民意につくってしまったという、議会の不手際ももあるだろう。しかし、そのような軍部の暴走の後押しをしかねないような軍部大臣現役武官制という制度が、そもそも存在していたのである。

そして日中戦争が拡大していき、アメリカの貿易封鎖などの圧力に日本が反発して日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日中戦争から太平洋戦争へと拡大する。同時期の前後にヨーロッパで起きたドイツと周辺国との戦争とあわせて、第二次世界大戦へと組み込まれることになる。そして、その第二次世界大戦に日本は敗戦して、日本は憲法を改正することになり、日本国憲法が制定されることになる。そして、その日本国絹憲法の内閣の関する事項では軍部大臣現役武官制が否定され、また言論の自由や政治結社の自由、信教の自由などが制定されることになる。

制度の分析

官僚機構の一種として軍部を解釈してみよう。選抜方法などは軍部と一般の省庁とでは違うが、とりあえず、「軍部 = 官僚機構の一種」として、軍事をあつかう官僚機構の一種として、軍部をとらえてみる。

以下の考察は、仮説であり、学生は暗記する必要は無いし、鵜呑み(うのみ)にしてはならない。(ただし、政治学者の丸山眞男(まるやま まさお)の学説などに基づいている。丸山眞男は、戦後昭和の日本の代表的な政治学者である。)


さて、明治・大正に現役武官制や文官任用令などを導入した意図は、おそらく、三権分立のように、権力を立法府だけでなく行政にも分散するのと同様に、軍部にも権力を与えようとしたのだろう。こうして行政権や軍部の権限を強めて、政党の影響力をうすめることで、政党の暴走をふせごうとしたのだろうと、一部の評論家などには考えられている。(※ 「評論家」とは、誰によって? 要出典. ←BSフジのプライムニュースで見ました。あと、小室直樹とか宮台シンジが似たような事を昔から言ってます。元ネタは丸山眞男です。)

もっとも、明治憲法(大日本国帝国憲法)では、天皇に軍の統帥権(とうすいけん)があるので、もし議会と軍が対立したら、いざとなったら天皇に判断してもらおうとでも、もしかしたら明治時代の当時の政治家は考えたのかもしれない。(※ 要出典.)

だから、軍部大臣が口をだせるのは軍事だけに限定させよう、という意図で、軍部大臣だけは現役武官でなければならない、と明治大正期には限定していただけだろう。

ところが結果的には、昭和10年代の時代のように、内閣の組閣そのものに軍部の賛同が絶対に必要な制度となってしまい、そのため結果的に軍部以外の省庁すらも軍部の意向に従わざるをえなくなってしまった。こうして、権力の分散どころか、権力が、軍部と議会とに二分化されるという結果になってしまった。そして、政治家には選挙があるので身分が不安定であるが、しかし軍部には選挙がないので、実質的には権力の二分化どころか、軍部への権力集中となってしまった。

現役武官制のこのような欠陥のため、軍部の暴走をふせぐような手段が弱まってしまった。


日本軍暴走の原因の考察の細部は諸説あるが、ともかく戦前の日本軍の暴走の原因としては、(けっしてヒトラー的な独裁者によるものではなく、)官僚主義の弊害・形骸化によるものである、とするとみたほうが妥当であろうとする仮説があり、丸山眞男(まるやま まさお)はこのような日本軍の現象を「無責任の体系」と称した[1]


教訓

教訓としては、内閣の組閣の権限は、国政選挙で選ばれた国会議員の代表者である内閣総理大臣だけが組閣できるという、内閣総理大臣の専権事項でなければならない、ということだ。そして、その目的を達するためには、内閣の組閣には、けっして官僚機構や軍部や司法など他機関の承認・許認可などを必要としてはならない、ということだ。

「政治を、みんなで話し合って決めよう」というのは、一見すると、平和的に聞こえるかもしれない。だがしかし内閣の組閣に関するかぎり、「内閣以外のみんなとも話し合って、決めなければならない」というのは、国政選挙で選ばれた議員の権力を侵害することであり、よって「内閣以外のみんなとも話し合って、決めなければならない」は悪事なのである。

明治大正期の「軍事政策については、軍部とも話し合って、なかよく決めよう」として軍部大臣現役武官制を導入したのが、そもそもの失敗のキッカケであった。

聖徳太子のような「和をもって とうとし となす」という考えは、内閣の組閣に関しては悪事なのである。

政策の最終的な決定権は、立法府および立法府だけが選抜できる内閣総理大臣に、なければならない。そして、軍部大臣現役武官制は、軍部が内閣のもつべき人事権(じんじけん)を侵害してしまったため、結果的に、軍部が政策の決定権を侵害してしまったことが、欠陥なのである。

※ 人事権(じんじけん)とは、組織・機関において、構成員の採用・解雇や役職などをきめる権限。

なにも内閣の人事にかぎらず、一般の組織運営では、役職を決める人事権は、これほどまでに、とても大切な権利なのである。たとえば現代の株式会社では、代表取締役をきめる人事権は、株主がもつ。このため、大株主や筆頭株主(ひっとう かぶぬし)が、その会社の実質的な支配者となっている。


こんにちの日本国憲法では、立法・行政・司法の三権のなかでも、立法だけが残りの2権よりも、やや強いのであるが(※ 高校『政治経済』科目で、このことを習うので、覚えておこう)、そのことには理由があり、おそらくは、過去の軍部大臣現役武官制のような失敗を繰り返さないとするための工夫であろう。また、内閣の中でも、他の国務大臣よりも内閣総理大臣の権限が明確に強いのも、軍部大臣現役武官制のような失敗をふせぐためであろう。(※ 中学「公民」および高校「政治経済」で習う)

また、その内閣総理大臣そのものが、もし官僚や軍部などの選挙で選ばれない人物であっては、意味がないから、現在の日本国憲法では「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。」(67条)と規定している。

政党は選挙で多数決で選ばれるわけであるが、官僚や軍部は多数決で選ばれない。


この節で見たように、大正時代にも山本権兵衛内閣のように、軍部大臣現役武官制を修正しようという動きがあったのである。しかし、それだけでは、結果的には、のちの軍部の暴走を解決できなかった。

大隈内閣

編集

そして元老は、民衆のあいだで人気の高い大隈重信(おおくま しげのぶ)を、山本権兵衛の後継の首相に任命した(第2次大隈内閣)。第2次大隈内閣は立憲同志会を与党として出発した。 そしてこの第2次大隈内閣の時代に、第一次世界大戦が1914年に勃発する。第二次大隈内閣は日英同盟を理由にイギリス側の陣営として、外相加藤高明(かとう たかあき)の主導により第一次世界大戦に参戦した。

また、大隈内閣は1915年の総選挙で勝利し、与党の立憲同志会を勝利に導き、懸案の2個師団増設を実現した。

第一次世界大戦

編集

日本の行動

編集

第二次大隈内閣のときに、日英同盟を理由に、第一次世界大戦に参戦した。参戦当時の日本の外相は加藤高明(かとう たかあき)である。

そして日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの勢力範囲として中国にもっていた山東省の青島(チンタオ)を占領し、またドイツ領だった南洋諸島を占領した。

日本は対中外交では、加藤外相ひきいる日本政府は1915年1月、中国の袁世凱政権に二十一カ条の要求をした(※ 中学校でも二十一か条の要求の存在については習っている)。二十一カ条の要求で日本は中国に要求として、

山東省ドイツ権益の日本による継承(第1号)、
日本のもつ満洲権益の有効期限の99年延長(第2号)、
漢冶萍(かんやひょう)公司(コンス)の日中共同経営(第3号)、

からなる第1号〜第4号と、

中国政府に日本人顧問を置くこと、警察の日中共同、などを含む第5号の、第1号〜第5号を

要求した。

アメリカが第5条に抗議を行い、第5条は削除されたが、日本は5月に最後通牒を中国につきつけ、袁世凱政権に要求の大部分を承諾させた。

この21カ条の要求に対して、中国国内では反発が高まり、中国政府が要求を受けいれた5月9日は「国恥記念日」(こくち きねんび)として記憶された。


大隈内閣のあとは寺内内閣である。1916年、陸軍出身の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣は外交政策を一変し、中国のホップポウ軍閥の段祺瑞(だんきずい)政権を支援し、巨額の対中借款を行って(西原借款、にしはら しゃっかん)権益を確保した。(なお、この西原借款は、のちに焦げついた。)

  • 石井ランシング協定

1917年、中国進出をねらっていたアメリカは、おなじく中国進出をねらっていた日本と利害調整をするため、寺内内閣の特派大使 石井菊次郎(いしい きくじろう)と国務長官ランシングとのあいだで、石井・ランシング協定(いしいランシングきょうてい)が結ばれた。この協定により、日本が中国にもつ特殊権益の大部分は、アメリカに認められた。また、アメリカの主張する、中国の領土保全や門戸開放の原則が決められた。

第一次世界大戦のながれ

編集

(※ 『高等学校世界史B/第一次世界大戦』)

ロシア革命

編集

ロシアでは第一次世界大戦中の1917年に、革命が起きた(ロシア革命)。1917年3月にはロシアのロマノフ王朝が倒され、ロシアの帝政は滅んだ。そして11月にはレーニンひきいるボリシェビキが政権を取って(11月革命)、ソヴィエト政権が誕生した。こうして、ロシアで世界で初めての社会主義国家が生まれた。

ソヴィエト政権は翌1918年、ドイツ・オーストリアと単独講和し(ブレスト=リトフスク条約)、第一次世界大戦から離脱した。

このため、英仏などの連合国にとっては東部戦線が崩壊し、革命への武力干渉を行った。シベリアにいたチェコスロバキア軍の救出を名目に、連合軍は革命に武力干渉した(シベリア出兵)。日本の寺内内閣も1918年(大正7年)8月、シベリアに出兵した。

大戦終了後の1920年には連合国の欧米はシベリアから撤退したが、日本は1922年まで駐兵して欧米からの不信感を高めた。

日本への影響

編集

大戦景気

編集

在華紡(ざいかぼう)

原敬

編集

シベリア出兵にともない、1918年、日本では米の買占めによる米価の高騰が起き(米騒動)、社会が混乱し、各地で暴動が起きて警官隊と衝突したため、政府は軍隊を出動させて鎮圧する事態になった。この騒動のため、当時の寺内内閣は辞職し、代わって同1918年に衆議院第一党の立憲政友会 総裁の原敬(はら たかし)内閣が組閣された。

原が首相に選ばれた理由は、元老からの推薦によるものである。

原内閣は、最初の本格的な政党内閣であり、軍部大臣と外務大臣以外はすべて政友会党員であった。

原首相は華族でもなく藩閥でもなかったので「平民宰相」(へいみんさいしょう)と呼ばれ、大衆からの人気が高かった。

原内閣は、教育の充実に力を入れ、高等教育(※ 現代で「高等教育」とは大学教育のこと)の充実を行った。早稲田大学や中央大学などの私立大学は、この頃に正式な大学として認可された。また、旧制高校の数を増やしていった。

当時、男性普通選挙を求める運動が広がっていたが、原首相は時期尚早(しょうそう)と考えて普通選挙は導入しなかったが、代わりに選挙資格に必要な納税額を引下げ、選挙資格に必要な納税額は「3円以上」になり、また小選挙区制を導入した。

また、艦隊の増強や、鉄道の建設、などの積極財政を行った。

しかし1921年、原は東京で一青年によって暗殺された。

護憲三派

編集
有権者の推移
公布年 内閣 実施年 選挙人
直接国税 性別年齢
(歳以上)
総数
(万人)
全人口比
(%)
1889 黒田 1890 15円以上 男25歳 45 1.1
1900 山県 1902 10円以上 男25歳 98 2.2
1920 1920 3円以上 男25歳 307 5.5
1925 加藤(高) 1928 制限なし 男25歳 1241 20.8
1945 幣原 1946 制限なし 男女20歳 3688 50.4

原の死後、原内閣の大蔵大臣であった高橋是清が首相となって高橋是清内閣が成立したが、国民からの人気は出ず、短期政権となり、高橋内閣は倒れ、かわって、つぎの加藤友三郎(かとう ともざぶろう)内閣ではシベリア撤兵が実現し、つぎの第二次山本権兵衛内閣の時代に関東大震災のあとに起きた虎の門事件(とらのもん じけん)で政権が倒れ、つぎの清浦奎吾(きようら けいご)内閣となった。

加藤・山本・清浦の3人とも、非政党人である。

このような非政党の活躍に政党は反発したので、1924年、憲政会・政友会・革新倶楽部(かくしんクラブ)の3政党が護憲三派(ごけんさんぱ)を結成し、第二次護憲運動を展開した。

そして同年の総選挙で護憲三派が圧勝したので、清浦内閣は総辞職した。

清浦内閣が倒れ、つぎの内閣は、護憲三派の3党の連立内閣となり、第一党となった憲政会の総裁 加藤高明が首相になり、政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅(いぬかい つよし)をくわえた護憲三派内閣が誕生した。

これ以降、1932年に五・一五事件で犬養毅内閣が倒れるまで、政党の総裁が首相をつとめる事が慣例になり、その慣例が「憲政の常道」と呼ばれるようになった。

さて、1925年の加藤内閣では、いわゆる普通選挙法が実現し、25歳以上の男子に選挙権(衆議院)が認められた。(現代の「普通選挙」とは違い、女性選挙権は無い。)

これにより、有権者の数は、従来の約300万人から増加し、有権者は1200万人ほどになった。

しかし、1925年の加藤内閣で治安維持法が成立した。(つまり、実質的に普通選挙法と治安維持法との抱き合わせ。交換条件。)

治安維持法の当初の目的と内容は、共産主義者の取り締まりであった。その理由は、日ソ国交樹立の年が同1925年であったので、日本はロシア革命の波及をおそれたからであった。

パリ講和会議

編集

ワシントン体制

編集

第一次大戦中において日本が中国「進出」を行ったり、ソヴィエト連邦がロシア革命の結果世界で最初の社会主義政権を作り上げたり、中国で民族運動が活発化していくなか、東アジアにおけるこのような情勢に対応する必要が生まれた。そこでアメリカはワシントン会議を開催した。アメリカの主な目的は、建艦競争を終わらせて財政負担を終わらせること、日本をけん制することにあった。欧米列強の主な目的は、(列強の中国権益を保持するため)、戦争再発の防止と、列強間の協調を通じてアジア・太平洋地域の「平和的な」国際秩序を形成することにあった。

締結された条約とその内容

条約名 内容
四か国条約 日英同盟廃棄
九か国条約 石井・ランシング協定廃棄
ワシントン海軍軍縮条約 セル内のテキスト
山東省懸案解決に関する条約 セル内のテキスト

関東大震災

編集

1923年、関東地方の東京を中心にマグニチュード7.9の大地震が起き、地震のあと大火災も生じて、東京が壊滅した(関東大震災)。

全焼家屋20万戸、死者・行方不明者が10万人にのぼる、大災害となった。


このような中、人々はパニックになり、デマが飛びかい、朝鮮人が井戸に毒を入れたとかで、多くの朝鮮人(やそれに間違われた日本人・中国人)などが反乱を疑われて、自警団を組織した民衆や警官などの手によって殺害された。

殺害された人数について定説は存在せず、人数は定まっていない。司法省の発表によれば、230名あまりの朝鮮人が殺害されたという。その他の説についても、数百人〜数千人まで様々である。

軍隊の階級名(抜粋)
(表中で上の階級ほど偉い)
(※ 入試範囲外)
階級名 備考
少佐
大尉(たいい) 甘粕は、ここ
中尉
少尉
曹長(そうちょう)
軍曹(ぐんそう)
伍長(ごちょう)
兵長
一等兵
二等兵

また、無政府主義者大杉栄(おおすぎ さかえ)が、憲兵大尉 甘粕正彦(あまかす まさひこ)によって殺害される事件が起きた(甘粕事件)。

(※ 「憲兵」(けんぺい)とは、本来は、軍隊内での犯罪などを取り締まる仕事をする、軍隊の特殊な部隊。一般に、どこの国でも、警察は軍隊内を捜査できないので、軍隊内での犯罪の取り締まりには、警察のかわりに憲兵が行う。
(※ 「大尉」(たいい)というのは、軍隊内の階級のひとつ。少尉(しょうい)や中尉(ちゅうい)よりも大尉は偉い。しかし少佐(しょうさ)よりも大尉は階級が下である。)
(※ 検定教科書では、関係者のプライバシー保護のためか、甘粕の名前は書いてない教科書も多く、甘粕事件じたいを紹介してない。しかし参考書では、本事件について記載されている。)


また、警官によって警察署(東京・亀戸(かめいど)署)で労働運動の指導者10名が殺害された(亀戸事件)。(※ 検定教科書では、地域差別の防止のためか、亀戸の地名を隠す教科書も多い。)

朝鮮人の容疑がデマだと分かると、政府は朝鮮人の保護のため、朝鮮人を日本国内で移送して隔離した。(参考文献: 東京書籍の教科書)


(無政府主義者が甘粕事件に憤ってか、)年末には無政府主義者の青年の難波大介(なんば だいすけ)が、摂政をつとめていた裕仁親王(ひろひと(のちの昭和天皇))を狙撃する 虎の門事件(とらのもん じけん) が起きた。(のちに難波は大逆罪により死刑となり、処刑された。)

(※ 検定教科書では、狙撃犯のプライバシー保護のためか、難波の名前は書いてない教科書も多い。)


山本権兵衛内閣は、これらの事件の責任をとる形となり、年末に総辞職した。つづいて、清浦奎吾(きようら けいご)内閣が成立した。

未分類

編集

社会運動の高まり

編集
  • 女性解放運動

社会的に差別されている女性の解放をうたう婦人運動もさかんになり、平塚らいてう(らいちょう) によって、文学団体の青踏社(せいとうしゃ)が結成され、文学活動と同時に女性の地位向上をめざす運動をした。

つづいて、平塚らいてうは市川房江(いちかわ ふさえ)と協力して、1920年に新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。

これらの婦人運動によって、それまで女性の政治集会を禁止していた治安警察法第5条が1922年に改正され、女性も政治集会を行えるようになった。

  • 部落解放運動

未記述

大衆文化

編集

この頃にデパートが都心に出現していた。 東京都心では、企業のキャッチフレーズか何かで「今日は三越(みつこし)、あすは帝劇(ていげき)」などと言われた。(三越(みつこし)とは、三越デパートのこと。帝劇とは、演劇などを公演していた帝国劇場のこと。)

関西地方でも、阪急電鉄(はんきゅう でんてつ)のターミナルの梅田(うめだ)に阪急デパートが登場していた。(なお、阪急電鉄が経営する劇場・劇団は宝塚(たからづか)歌劇団。)

洋服は日本ではもともと男性向けの衣服として普及したのが先だが、大正のころになると、女性むけを含むオシャレ用の衣服にもなり、洋服を着ている男女はそれぞれ「モボ」(モダンボーイ、男)、「モガ」(モダンガール、女)と言われた。

また、一部の女学校の制服に、大正末期ごろから、セーラー服が採用された。(※ もっとも、これはオシャレというよりも、水兵の衣装を学校の制服として採用したのである。)しかし、この時代の多くの女性の衣装の普段着は、和装であった。

※ その他、バスガールとか、コロッケやライスカレーなどの洋食とか、中学で習った通り。
 
雑誌『キング』創刊号の表紙(1925年)

この頃、新聞や雑誌の発行部数が急激に伸びた。『東京朝日新聞』や『大阪毎日新聞』の(年間)発行部数は100万部を越えた。

また、雑誌の創刊も盛んになり、週刊誌『週刊朝日』や週刊誌『サンデー毎日』もこの頃に創刊された。

新聞には小説が連載されており(現代でいう「新聞小説」)、中里介山(なかざと かいざん)・直木三十五(なおき さんじゅうご)・吉川英治(よしかわ えいじ)などの大衆文学作家が確立した。

また、総合雑誌『中央公論』『改造』なども創刊された。

大衆雑誌『キング』もこの時代に講談社によって創刊され、100万部以上の大人気になった。

その他、『現代文学全集』などの1冊1円の円本(えんぽん)といわれた低価格本も流行した。同じ頃、岩波文庫(いわなみ ぶんこ)も登場した。

ラジオ放送も1925年に始まり、新聞・雑誌ともにメディアの中心となった。

この頃、高校野球や大学野球が人気になった。1924年に阪神甲子園(こうしえん)球場ができると、高校野球大会がここで開かれるようになった。

(※ 範囲外: ) 阪神鉄道と阪急鉄道は、名前が似てるが別会社だし、鉄道路線も別。いわゆる「甲子園」球場は阪神鉄道の所有なので阪神甲子園と言われる。いっぽう、宝塚(たからづか)歌劇団や阪急デパートは阪急鉄道の所有。

映画は、大正時代の映画は、音声なしの無声映画で弁士(べんし)をともなう方式だったが、昭和初期に有声映画(トーキー)がでてきた。

学問や芸術など

編集

理科系の分野では、本田光太郎のKS磁石鋼、野口英世の医学研究、などの優れた発見があった。

  1. ^ 加茂利男 ほか著『現代政治学 第4版』、有斐閣、2012年3月20日 第4版 第1刷 発行、P158