藤原北家の伸張

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応天門(おうてんもん)の炎上(『伴大納言絵詞』より)

藤原北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)は、嵯峨天皇の信任を得て、冬嗣は蔵人頭に任命された。また、冬嗣の娘は、皇太子の妃になった。

冬嗣の子の藤原良房(よしふさ)が、842年の承和の変で、大伴・橘氏の勢力をそいだ。

858年に、幼少(9歳)の清和天皇が即位すると、藤原良房が外祖父として実権をにぎり、良房は摂政(せっしょう)になった。

さらに応天門の変[1]で、伴氏などが失脚し、ますます藤原氏が権力をにぎった。

応天門の変(おうてんもん の へん)ののち、良房は正式に摂政に就任した。

ついで、良房の甥(おい)から養子になった藤原基経(もとつね)が、幼い陽成天皇(ようぜい〜)の摂政になり、884年には光孝天皇(こうこう〜)を即位させ、また、基経は関白(かんぱく)の地位についた。

(897年に基経は死亡。)


基経の死後、宇多天皇は、摂政・関白を置かずに、菅原道真(すがわらの みちざね)を重用した。

しかし、つづく醍醐天皇のときに、藤原時平(〜ときひら)の策謀により菅原道真は太宰府に左遷(させん)された。

醍醐・村上の両天皇は、摂政・関白を置かず、天皇みずからの親政を行った。

時事

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966年に藤原道長(ふじわらの みちなが)が生まれるよりも前に、935年に関東で平将門の乱(たいらのまさかど の らん)が起きた。
※ 小中学校では、のちの源平合戦とのつながりから、藤原道長よりも後に将門を紹介する。しかし、実際の歴史的順序は、けっして藤原氏が衰えてから将門の反乱が起きたのではない。
939年の西国での藤原純友の乱(ふじわらのすみとも の らん)も、道長の生まれる前の出来事である。
  1. ^ 大納言 伴善男(ばん よしお)が、左大臣 源信(みなもとの まこと)に罪をきせるために応天門に放火したとされる事件。この事件の処罰として、伴は流罪に処せられた。この事件は、良房の陰謀という説もある(※ 実教出版が紹介している。)