高等学校日本史B/平安遷都と政治改革

平安京遷都

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平安京の羅城門(らじょうもん)の復元模型(京都文化博物館)

かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。

のちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、光仁天皇のあとをついだ桓武天皇(かんむ てんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年に都を山背国(やましろこく)の長岡京に移した。

しかし、新都造営(しんとぞうえい)の中心人物であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されたり、政情不安が続いたので、794年に都を平安京に移した。

政治

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律令制度の立て直し

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桓武天皇は、国司に対する監督をきびしくするため、勘解由使(かげゆし)という役人を置きました。

※ 『高等学校国語総合/土佐日記#門出(かどで)』に出てくる「解由」(げゆ)とは、このカゲユシ関連の書類である。著者の紀貫之(きの つらゆき)は、国司として、取り締まりされる側の立場。くわしくはリンク先で。

勘解由使に、国司の交代の際には、前任の国司に不正がなかったことを証明するための解由状(げゆじょう)を審査させた。


※ 中学校で習った『中学校社会 歴史/平安時代』も参照せよ。


桓武天皇の政策として、辺境の他では徴兵をやめ、辺境の他では従来の軍団を廃止して、あらたに郡司の子弟で弓馬にたくみな者からなる健児(こんでい)を設けた。

また、このころ、都の造営と、蝦夷との戦いからなる二大事業が、国家財政や民衆の負担だった。

貴族間で、この事業の存続をめぐる論争が起き、桓武天皇はこの二大事業を中止した。

桓武天皇は、二大事業の存続の件で、管野真道(すがのまみち)と藤原緒嗣(ふじわらおつぐ)という2人の参議に論争させた(徳政論争)。(菅野が存続派。藤原が打ち切り派。)

薬子の変

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桓武天皇の死後、平城天皇(へいぜいてんのう)、つづいて809年に嵯峨天皇(さがてんのう)になった。

※ 社会の変化により、従来の家柄や血筋による人事制度がうまく機能しなくなったため、嵯峨天皇らは、従来の官職を残しつつも、新たに、家柄にとらわれない新設の官職も設置して活用した。

嵯峨天皇(さがてんのう)のとき、薬子の変(くすこのへん)が起きた。しかし、薬子の変は失敗に終わった。

薬子の変[1]とは、810年に藤原薬子(ふじわらの くすこ)とその兄 藤原仲成(ふじわらの なかなり)が、平城太上天皇(平城上皇)をふたたび天皇の地位につけようとして失敗した事件。「平城太上天皇の変」ともいう。

嵯峨天皇は、あらかじめ蔵人所(くらうどのところ)を設置し、機密をあつかった。 蔵人所の長官を蔵人頭(くらうどのとう)という。蔵人頭(くらうどのかみ)には、藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)らが任命された。

また、京都の治安維持・警察をつかさどるために検非違使(けびいし)を置いた。

(※ 参考: )検非違使が創設される前は、京都の治安維持・警察などの仕事は、複数の官庁(衛府(えふ)、刑部省、弾正台、京職など)に分散されて処理がされていた[2]。つまり、検非違使長の創設により、それらの処理がひとつの官庁に一元化された事になる。一説には、いわゆる「縦割り行政」の弊害を解消するという目的もあって京都という地域限定だが検非違使が設けられたのだろう、という説もある。[3]

これら新設の官職は令(りょう)には規定がないので、令外官(りょうのげかん)と呼ばれた。

検非違使も、令の規定によらずに犯罪人の取り締まりができた。(※ 東京書籍の見解)

また、これら令外官では、家柄にとらわれずに有能な人材を登用できた。(※ 東京書籍の見解)

※ 令外官は嵯峨天皇によってはじめられたのではなく、702年の「参議」や、705年の「中納言」も、令外官である。ただ、令外官が重要な要職になったのが、嵯峨天皇の頃からである。

また、嵯峨天皇は、律令を補足した(きゃく)と、官庁で施行する際の細則である(しき)とを整備した。

嵯峨天皇のもとで、820年ごろ、光仁格式(こうにん〜)が出来た。

のちの天皇のもとで、「貞観格式」(じょうがん〜)・「延喜格式」(えんぎ〜)が出きた。これら3つ(光仁格式、貞観格式、延喜格式)をあわせて三代格式という。

(823年に嵯峨天皇は、つぎの天皇に皇位をゆずって退位する。)

(833年には、)令(りょう)の条文の解釈を統一するための注釈書として『令義解』(りょうのぎげ)がつくられた。

(842年、嵯峨 元天皇が死没。)


平安初期の密教文化

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唐で仏教を学んだ最澄(さいちょう)と空海(くうかい)が日本に帰国して、仏教の知識も日本に持ち帰る。

空海は、唐では、インドから中国に伝えられたばかりの真言密教(しんごん みっきょう)を学んでいた。

空海が日本で密教(みっきょう)[4]を広めた。(いっぽう、最澄が広めたのは法華経(ほけきょう)。)

空海は、高野山(こうやさん)に金剛峰寺(こんごう ぶじ)を建て、密教にもとづく真言宗(しんごんしゅう)をつくった。

また、最澄は比叡山(ひえいざい)に延暦寺(えんりゃくじ)をひらき、天台宗(てんだいしゅう)をつくった。

天台宗・真言宗の寺院の多くは、山中に建てられた。

(空海の宗派の寺だけが山中にあるのではなく、最澄の宗派の寺も山中に建てられたことに、注意。)

天台宗も、しだいに密教の影響を受け、最澄の弟子の円仁(えんにん)・円珍(えんちん)が唐に留学して密教の知識を日本に持ち帰り、天台宗は密教化した。

真言宗の密教を東密(とうみつ)という。いっぽう天台宗の密教を台密(たいみつ)という。

また、従来の宗派でも山岳修行をしていたが、これらが天台・真言宗とむすびつき、修験道(しゅげんどう)が流行した。

密教の特徴として、加持(かじ)祈祷(きとう)など、呪法(じゅほう)的なお祈りで悟りが開けるとされる。

これらの特徴が、現世利益(げんぜりやく)を求める貴族に好まれた。また、密教は、経典よりも山岳修行などの修業を重んじる傾向がある。


いっぽう、奈良時代の後半から既に、日本古来の神々と仏教とをむすびつける神仏習合(しんぶつ しゅうごう)の考えがあった。

このため、神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、神前(しんぜん)で読経(どきょう)する風習などがあったが、密教の普及とともに、これらの風習も普及した。

 
室生寺(むろうじ)

大和の室生寺(むろうじ)では、伽藍(がらん)も地形に応じて自由に配置された。

※ 伽藍とは、寺院の建物全体や、その構成のこと。

平安初期の文化

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文芸では、漢詩・漢文が流行した。

勅撰漢詩文集の『凌雲集』(りょううんしゅう)、『文華秀麗集』(ぶんかしゅうれいしゅう)、『経国集』(けいこくしゅう)などが編纂(へんさん)された。

また、空海の漢詩文をあつめた『性霊集』(しょうりょうしゅう)もつくられた。


書道では、唐風の書が好まれ、嵯峨天皇・空海・橘逸勢(たちばなの はやなり)は三筆(さんぴつ)と呼ばれた。

有力な氏族たちは、一族から優れた官吏(かんり)を出すために、氏ごとの塾・予備校的な寮(りょう)の大学別曹(だいがくべっそう)を建てた。

また、空海は、大学や国学に入学できない庶民が仏教・儒教などを学べる綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開いた。


大学別曹 和気(わけ)氏の弘文院(こうぶんいん)、藤原氏の勧学院(かんがくいん)、橘(たちばな)氏の学館院(がくかんいん)、在原(ありわら)氏の奨学院(しょうがくいん)、などがある。



  • 美術など
 
歓心寺 如意輪(にょいりん)観音像 (大阪・観心寺)

絵画では、密教の世界観をあらわす曼荼羅(まんだら)が描かれた。

彫刻では、一本の大木を彫って作る一本造(いっぽんづくり)が流行した。

また、不動明王(ふどう みょうおう)の絵画や彫刻がつくられた。


注・参考文献

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  1. ^ 薬子(くすこ)とは、平城太上天皇の愛人の名前。かつての学説では、薬子が事件の首謀者に近いと思われていたが、歴史研究では、単に上皇の罪を薬子が なすりつけられただけとかの別の可能性が否定できず、現代の学校教科書では この事件の呼び名で「平城太上天皇の変」という呼び名も西暦2003年ごろから増えてきた。とはいえ、では平城上皇が首謀者かというと、その証拠もとぼしく、真相は不明である。歴史的な事実としては、最終的に薬子は自殺したとされている。
  2. ^ 相澤理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史【古代・中世編】』、株式会社KADOKAWA (中経文庫)、2016年7月15日 、p.173
  3. ^ 相澤理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史【古代・中世編】』、株式会社KADOKAWA (中経文庫)、2016年7月15日 p.173
  4. ^ なお、既存の仏教など、経典を重んずる宗派のことを、密教の用語で「顕教」(けんきょう)という。