以前に「大半の」や「多くの」という言葉もロジバンでは数字として扱われると言いました。以下の「数」はとっても便利です。

主観的判断のもの
du'e 多すぎる
mo'a 少なすぎる
rau  十分な
su'e 多くとも
su'o 少なくとも

客観的描写のもの
no  何もない(既にゼロとして出てきましたね)
ro  各/全て
so'a ほとんど
so'e 大半
so'i 多く
so'o 幾つか
so'u 少し

ここで例をば

no le ninmu cu nelci la .bil.
その女性のうち誰もビルを好きでない。

no lo ninmu cu nelci la .bil.
女性は誰もビルを好きでない。

coi rodo
やあ、みなさん。

mi nelci ro lo mlatu
私は全ての猫が好きだ。

mi na nelci ro lo gerku
私が全ての犬を好きだというのは真実でない。
(これは「私は全ての犬が好きでない」とは違います。そう言いたいなら「mi nelci no lo gerku」です。また、別のやり方でもそう言えるのですがまだ文法知識が足りません。)

so'i lo merko cu nelci la .nirvanas.
多くのアメリカ人がニルヴァーナ(音楽バンド)が好きだ。
(仏教の涅槃のこともニルヴァーナと言いますが、ここでの意味は異なります。でももしかしたら…?)
注: このように名前というものはロジバンにおいても曖昧なものです。名前は話者が意図した通りに使われるものだからです。
so'u lo jungo cu nelci la .nirvanas.
少しの中国人がニルヴァーナが好きだ。

su'e mu le muno prenu cu cmila
多くとも50人中5人しか笑わなかった。

su'o pa lo prenu cu prami do
少なくとも1人は君が好きだ。

最後のは「lo prenu cu prami do(少なくとも一人がいて、その人々は君が好きだ)」という文と論理的に同じです。しかし前者のほうが意味が明瞭でかつ強調されているのです。実はロジバンの冠詞には関連する数が初期設定で決められていまして、「lo~」 だと「su'o pa lo ro ~(全ての~のうちの少なくとも1つ)」がそれにあたります。