ラテン文学の作家と著作/黄金期/ホルテーンシウス
Q・HORTENSIVS・HORTALVS
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クゥイーントゥス・ホルテーンシウス・ホルタルス(Quintus Hortensius Hortalus:前114-50)は、ローマ共和制末期の政治家・法律家・弁論家・詩人。ローマにおける法廷弁論の第一人者で、#キケローの好敵手として知られる。
- 閥族派の貴族政治家
出自のホルテーンシウス氏族[1]は、平民系だが早くから高官を輩出した名門の顕職貴族。彼も、家柄を誇る典型的な名門貴族で、閥族派の指導者の一人。前80年に財務官、前75年に按察官、前72年に法務官、前69年に執政官とローマ国家の要職を歴任した。名門貴族として巨万の富を築き、贅沢な生活を好んだ。また、美術品収集家でもあった。
- 法廷弁論の第一人者
前95年に弁論で名を馳せて以来、40年以上にわたって法曹界で活躍。卓越した弁論の才能で名高く、#キケローが政界に登場したときには、すでに長らくローマにおける法曹界・法廷弁論の第一人者と見なされていた。
- 弁論のスタイル
並はずれた記憶力や演技の才能を持ち、それらの才能を弁論に生かした。彼の弁論は、華美な装飾・美辞麗句に秀で、芝居がかった言葉や身振りを凝らしたアシア風の弁論であった。
- キケローとの対決・親交(ウェッレース裁判)
ホルテーンシウスと新進気鋭のキケローは、しばしば裁判において対決した。前70年、シキリア属州民が前属州総督ガーイウス・リキニウス・ウェッレース(Gaius Licinius Verres)を収賄や搾取などのかどで告訴すると、キケローは原告側弁護士となり、ウェッレースと親交があったホルテーンシウスは被告側弁護人となって法廷で争った。このときのキケローの有名な法廷弁論『ウェッレース弾劾演説』(In Verrem)によってホルテーンシウスはキケローに屈し、その声望は下り始め、法廷弁論の第一人者の座をキケローに譲り渡した。しかし、その後はラビーリウスの弁護などでキケローとよく共同して数多くの弁論を行い、生涯にわたり一流の弁論家であり続け、閥族派として政界の重鎮であり続けた。キケローとは友人になった。没後、キケローが古今の弁論家を概観した著作『ブルトゥス』(Brutus)において賞賛されている[2]。
- 恋愛詩や年代記を著す
詩作(恋愛詩)でも知られ、またイタリア同盟市戦争の年代記をおそらく詩の形式で著したが、それらは散逸して残っていない。弁論についても断片しか残っていない。
脚 注
編集- ^ 西洋古典学事典(2010)の「ホルテーンシウス氏」などを参照。
- ^ キケロ (グリマル,1993) p.107などを参照。
参考文献
編集- 西洋古典学事典(2010)の「ホルテーンシウス ②」
- 集英社世界文学大事典(1997)(第4巻)の「ホルテンシウス・ホルタルス クゥイントゥス」(岩崎務)
- 新潮世界文学辞典(1990)の「ホルテーンシウス・ホルタルス」(沓掛良彦)
- 岩波西洋人名辞典(1981)の「ホルテンシウス 2)」
- 古代ローマ人名事典(1994)の「ホルテンシウス」
- 物語古代ギリシア・ローマ人物地名事典(2008)の「ホルテンシウス(2)」
- ラテン文学史(1966)のp.55,60等
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