このページでは「地球人」は地球の人類のことを、「宇宙人」は地球人を除いた宇宙人を指します。ご注意ください。

あらすじ・解説・ネタばれ

編集

かぐや姫はじつは月の世界の人。天人(てんにん)である。

だが、単にかぐや姫が宇宙人というだけでは、ここまで後世に残る名作にはならない。かぐや姫と人間との関わりが面白さの醍醐味。

かぐや姫がじつは宇宙人といっても、考え方の様式はほぼ地球人である。ただし、月 (の国) に帰らなければならないという宿命があるので、いくつかの地上の権威は結果的に通用しないことになる。もっとも、かぐや姫本人は、地上の権威を理解しているし、なるべく育ての親のおじいさんやおばあさんに幸せな暮らしをさせたいとも思っている。かぐや姫に地上の権威が通用しないという例を、作品中ではかぐや姫への求婚を、姫がすべて断る、ということで表現している。そのためか、かぐや姫はとても美人だ、という設定になっている。結果的に求婚を断る行動は地上の権威を否定することになるから読者には痛快であろう{{}}。しかも、かぐや姫の行動は、法に逆らっているわけでもないので、読者は大して罪悪感を感じないで済む。

かぐや姫が通常の人間ではないということが読者に分かるように、冒頭で竹の中から小さな姫が発見される。しかし、この冒頭の段階では、かぐや姫の正体が月の住人だということは、まだ読者には分からない。かぐや姫の正体が分かるのは、結末ちかくになってからである。冒頭を読んだ読者に「かぐや姫はひょっとしたら普通の人間ではないのかもしれない」という事が分かれば十分である。

そのような、姫の生い立ちの前置きが無いと、単に強情な娘が求婚を断り続けるだけのわがままな箱入り娘、という印象になってしまう。作中でも求婚を断り続けるかぐや姫のあまりの強情っぷりに、後に出てくる帝 (天皇) があきれるようなシーンもある。

姫は全ての求婚を断るが、あまりの美貌に「我こそ」という美青年も数人 (より多い可能性もある) 現れる。この中でも特に美しい5人の貴族たちがおり、彼らの求婚は可能性を残した形で断られる。彼らは入手困難なものをそれぞれ要求され、持参した者と結婚するとした。5人の貴族はそれぞれの財力などを用いて自身に命じられたものを用意しようと一念発起した。しかし、偽物を献上し見破られたり、大金をはたいて天竺 (現在のインド) の商人か偽物しか得られなかったり、船が難破したりと散々だった。求婚をした貴族のうちの一人は、その自身の不幸な結末から、かぐや姫を疫病神あつかいをしはじめて、すっかり、かぐや姫への恋愛をなくしてしまうぐらいである(そのようなストーリ-中盤での疫病神あつかいが、ストーリー後半で明らかになる、かぐや姫の正体の伏線にもなってるのかもしれない)。

五人の貴族の求婚がすべて失敗に終わったあと、(日本の)帝 (=天皇) がかぐや姫に興味を抱き、宮中に召抱えようとする。最終的に、かぐや姫を抱えようとする天皇も、姫に断られる。この帝ですら、かぐや姫の宿命を引き立てるための、引き立て役である。

終盤にでてくる、天界の人たちの言説では、地上の権威や、地上人たちの人情などは、取るに足らない下らないものとして扱われている。

中国や朝鮮などの外国では、日本の権威があまり通用しないが、どうも、そういう影響が作品にあるのかもしれない。仏教などの外来宗教の影響もあるのだろう。

そのような、日本の権威や常識が通用しない世界が、地球上には存在することが、この地上の権威や人情を見下す天人たちの行動に、説得力などを与えているのであろうか。

単に感情だけが、地上の感情だけが、天人にとって取るに足らないのでなく、かぐや姫を守ろうとする地上の兵士たちの警備の行動といった武力的な能力すらも、天人たちの超能力的な力の前には、地上は無力である。

こうして、地上の感情も、地上の力も、天人たちの前では、無力・無駄な物として表現される。


そして、ついに、かぐや姫は、天界に、つれて帰られてしまう。そして、天界の超能力的な力により、かぐや姫は地上のことも忘れてしまう。「天の羽衣」という物を、かぐや姫が着せられることにより、かぐや姫は地上のことを忘れてしまう。

こうして、天人とともに、かぐや姫が月に帰って以降、もう、かつての人情のあった「かぐや姫」は出てこない。地上のことを忘れ去っているので、出てくる余地も無い。実際に、もうストーリー中には、天人もかぐや姫も登場しない。


しかし、結末は、べつに月に帰るシーンでない。かぐや姫が帰る直前に、地上の者が、かぐや姫から貰った 不死の薬 があるのだが、この薬を地上の人たちが、不要な物として燃やすのが、結末である。

かぐや姫が月に帰ったシーンを結末にするのではなく、結末は、そのあとの地上の人たちの、あきらめたあとの行動を結末にしているのである。


悲劇的な結末である。

ストーリー冒頭での、竹の中が光っているという幻想的なシーンとは対照的に、結末は、つらい。

備考

編集

竹取物語が書かれた時代は、かな文字が成立した時代であると考えられている。

そもそも、かな文字が成立したので、日本語で物語が書きやすくなったと考えられている(※ 教育出版の見解)。


本文および解説

編集

(抜粋)

かぐや姫の生い立ち

編集
 
幼き、かぐや姫

今は昔、竹取の翁(おきな)とい()ものありけり。 野山にまじりて竹をとりつつ、万(よろづ)のことにつか()けり。 名をばさぬきのみやつことな()()ける。 その竹の中に、(もと)光る竹な()一筋(ひとすぢ)ありけり。 怪しがりて(あやしがりて)寄りて(よりて)見るに、筒の中光りたり。 それを見れば、三寸ばかりなる人いと7しう(シュウ)()たり。


翁い()()う、
「われ朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になり給()(たまう)べき人なめり。」
とて、手にうち入れて家に持ちて来ぬ(きぬ)。 妻(つま)の嫗(おうな)に預けて養()す。 美しきこと限りなし。 いと幼けれ10ば、()に入れて()

今となっては昔のことだが、竹取の翁(おきな)というものがいた。 野山に分け入って竹をとっては、様々なことに使っていた。 名を「さぬきのみやつこ」と言った。 その竹の中に、根元が光るものが一本あった。 不思議がって近づいて見ると、竹の筒の中が光っていた。 それを見ると、三寸ほどの人がたいそうかわいらしく座っていた。


翁が言うことは、
「私が毎朝毎晩見ている竹の中にいらっしゃるために分かった。子供になってくださる人であるようだ。」
と、手に入れて家に持って来た。 妻の嫗にあずけて育てさせる。 かわいらしいこと限りがない。 たいそう小さいので、籠に入れて育てる。


かなづかいの違い

編集

「いふもの」(イウモノ)、「ゐたり」(イタリ)などのように、明治時代よりも以前(つまり古代~江戸時代の終わり)までの古典の仮名遣い(かなづかい)は、現代の仮名遣いとは違っている。

この(「いふもの」「ゐたり」などの)ように、明治以前の古典に見られるような仮名遣いのことを「歴史的仮名遣い」という。

※ 日本の小中学校と高校の教育では、発音は、現代仮名遣いに直して発音する。つまり、「いふもの」は日本の小中高では「イウモノ」と発音する。さらに音便(おんびん)で「ユウモノ」と「いふもの」を読む場合もある。


その他、仮名遣いの現代と古典との違いの例をあげる。

いふもの → 意味は「言う者」のこと。現代仮名づかいでは「いうもの」と書く。読みは「ゆーもの」と読む。
よろづ → 「よろず」と読む。現代仮名づかいでは「よろず」と書く。
使ひけり → 「つかいけり」と読む。
なむ  → 「なん」と読む。
いひける → 「いいける」と読む。
うつくしう → 「うつくしゅう」と読む。
ゐたり → 「いたり」と読む。
  • 語頭以外での「は・ひ・ふ・へ・ほ」

「いふもの」や「いひける」のように、語頭以外での「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」は、多くの場合、「は」→「わ」、「ひ」→「い」、「ふ」→「う」、「へ」→「え」、「ほ」→「お」と読むことが多い。

  • 「なむ」

「なむ」を「なん」と読むように、「む」を「ん」と読む場合がある。

竹(たけ)なむ → 「たけなん」
さぬきのみやつこなむ → 「さぬきのみやつこなん」
  • 「しう」

古文:「うつくしう」→ 読み:「うつくしゅう」 の様に、古文:「しう」→読み:「しゅう」。

この冒頭文の以外からも例を出せば、古文の「けふ」は「きょう」(今日)。古文の「てふ」は「ちょう」と読む。古文の「てふてふ」は読みは「ちょうちょう」で蝶々(ちょうちょう)のこと。「てふてふ」はアゲハチョウとかモンシロチョウなど、昆虫のチョウのこと。

  • 「わ・ゐ・う・ゑ・を」
ゐたり → 「いたり」

のように 枕草子の「をかし」 → 読み:「おかし」の例のように、

古文の「わ・ゐ・う・ゑ・を」は、読みが、「わ」→「わ」(そのまま)、「ゐ」→「い」、「う」→「う」(そんまま)、「ゑ」→「え」、「を」→「お」、

というふうになる。

現代と意味のちがう言葉

編集
  • あやしがりて

意味は「不思議に思って」。現代の「怪しいと思う」とは意味がちがい、「変だと思う」というような意味は無い。

  • うつくしう (うつくしゅう)
「うつくし」で「かわいらしい」という意味。現代の「うつくしい」とは、少し意味がちがうので、注意。

※ 高校の範囲だが、『枕草子』にも「小さきものは、みな、うつくし」(145段)という表現があるので、古語の「うつくし」は現代語の「かわいい」に対応する語だと推測することができるだろう。


  • ゐたり
「ゐる」(「いる」)の変化。「ゐる」の意味は「座る」(すわる)という意味。現代での「居る」(いる)の意味の「存在している」とは、すこし意味がちがうので注意。

この「あやし」や「うつくし」のように、たとえ同じ語が現代にあっても、古文では意味が違う場合があるので、注意。

現代では使われなくなった言葉

編集
  • いと

「いと美しうて」の「いと」とは、現代では「非常に」「とても」に置きかえられています。現代日本語では、「非常に」という意味での「いと」は使われていません。

このように、古典には、現代に使われなくなった言葉も多くあります。

語の意味

編集
  1. 今は昔
    物語のはじめの決まり文句。この場合は現代で言うところの「むかしむかし」にあたる部分で、読者をこの世界に引き込ませる言葉の一つ。
  2. 翁(おきな) ・・・ 「おじいさん」の意味。
  3. 万(よろず) ・・・ 「いろいろな物・事」「さまざまな物・事」の意味。
  4. 「いふもの」・・・ 発音は「いうもの」と発音する。旧仮名遣いなので、文字と発音とちがっている事に注意。
  5. 「つかひけり」・・・ 発音は「つかいけり」、「けり」とは過去をあらわす助動詞であり、「つかいけり」の意味は「つかっていた」となる。
  6. (讃岐造と)なむ ・・・ 発音は「なん」
  7. (あり)けり
    過去の助動詞。助動詞「」との違いの一つは、「き」が直接経験し記憶にある過去の意味をあらわすのに対し、「けり」は人から伝え聞いたことの回想をあらわすことである。そのため現代語訳は「・・・した」の他にも「・・・したそうだ」などと訳す場合もある。
  8. つつ
    反復・継続の意味の接続助詞。ここでは、「竹をとる」という動作と「よろづのことにつかふ」という動作が同時に行われていることをあらわす。
  9. をば
    格助詞「を」に係助詞「は」が付き、「は」が連濁を起こしたもの。「を」を強調する。係助詞「は」の結びで文末の「けり」が連体形の「ける」になっている。
  10. さぬきのみやつこ
    竹取の翁の名前である。「さぬき」氏は朝廷に竹細工を献上していたとされる。
  11. なむ
    係助詞。係り結びで文末「ける」は連体形で結ばれている。
  12. いと
    「とても」「非常に」の意味。
  13. 美しう
    「かわいらしい」の意味。形容詞の連用形「―しく」「―く」が助詞「」「しく」や他の用言に続くときはウ音便になる。
  14. にて
    理由や原因をあらわす接続助詞。
  15. なめり
    断定の助動詞「なり」の連体形「なる」に推量の助動詞「めり」が付いた「なるめり」の撥音便形「なんめり」の「ん」が表記されないもの。古くは「ん」の文字は用いられなかった。
  16. 順接の接続助詞。ここでは、前の語「幼けれ」は已然形であるので確定条件である。

竹取の(おきな)この子を見つけて後に、竹をとるに、節をへだてて1よごとに金ある竹を見つくること重なりぬ。 2かくて翁やうやう豊かになりゆく。 この(ちご)養ふ3ほどに、すくすくと大きになりまさる。 三月(みつき)ばかりになる程に、4よき程なる人になりぬれば、5髪上げなどさうして、髪上げさせ6裳着(もぎ)す。 (ちやう)の内よりも(いだ)さず、いつき養ふ。 この児のかたち(けう)らなること7世になく、()の内は暗き処なく光満ちたり。 翁心地あしく苦しき時も、この子を見れば苦しき事も止みぬ。 腹だたしきことも慰みけり。

竹取の翁はこの子を見つけて以後に、竹を取ると、節を隔てて空洞(よ)ごとに金が入っている竹を見つけることが重なった。 このようにして、翁はだんだん豊かになっていく。 この子を育てると、すくすくと大きくなっていく。 三か月ほどたった頃に、成人したので、髪上げなどをあれこれ手配して、髪上げし裳着を行った。 帳台の中からも出さず、心をこめて大切に育てる。 この子の顔だちの美しいことは世に類がなく、家の中は暗いところなど無いほど光に満ち溢れていた。 翁は気分が悪く苦しいときでも、この子を見ると苦しいこともなくなった。 腹立たしいことも気が晴れた。

  1. 竹の節と節の間の空洞のこと。
  2. かくて
    このようにして、の意。
  3. ほどに
    理由や原因をあらわす。
  4. よき程
    かぐや姫は、三か月で十二、三歳のように育ち、成人した。
  5. 髪上げ
    平安時代、女性は成人(十二、三歳ごろ)すると、髪を結い上げた。これを「髪上げ」という。
  6. 裳着
    」は女性が腰から下にまとう衣。女性が成人すると、髪上げと同時に、裳着の式が行われた。
  7. 世になし
    世の中に比類がない、の意。


竹から見つかった、この美しい娘は「なよたけのかぐや姫」と名づけられた。

文法

編集
  • 文末の「けり」

「ありけり」や「使ひけり」の文末の「けり」は、過去についての伝聞をあらわす。

「けり」は、『竹取物語』のように昔話などで用いられることが多いので、覚えておこう。


「名をば、さかきのみやつことなむいいける」や「もと光る竹なむ一筋ありける。」の文末の「ける」は、「けり」の連体形。「ける」になっている理由は、文中に係り助詞「なむ」があるため。

文中に、係り助詞「ぞ」・「なむ」・「や」・「か」がある場合、文末は連体形(れんたいけい)になる。

なお、文中に係り助詞「こそ」がある場合、文末は已然形(いぜんけい)になる。

「ける」の意味は、連体形になっていても、「けり」と同じであり、過去についての伝聞をあらわす。

蓬莱の玉の枝

編集
 
くらもちの皇子

美しいかぐや姫には多くの男たちが求婚した。しかし、かぐや姫は求婚を断り続けた。なので、求婚をしつづける者は減っていった。そのうち、求婚をしつづける者が5人の男の貴族へとしぼられていった。

かぐや姫はいっさい結婚をする気は無かったが、娘の将来を心配する翁が結婚をせかすのでかぐや姫は結婚の条件として5人の貴族たちに無理難題(むりなんだい)を出した。入手が至難の品物を持ってくることを結婚の条件にした。品物は5人の貴族ごとにそれぞれ別である。「蓬莱の玉の枝」はその品物の一つである。

貴族の一人の「くらもちの皇子」(くらもちのみこ)が、「蓬莱の玉の枝」(ほうらいのたま の えだ)を持ってくる条件を出された。

ちなみに「蓬莱」(ほうらい)とは、中国(チャイナのほうの中国)の神話にある伝説上の島で、中国の東の海にある伝説の島である。中国の西・北・南には海はなく陸地であり、異民族の国であり、伝説の島などはありようがない。中国の東の島といってもべつに台湾(たいわん)でなければ、日本列島でもない。

この「蓬莱」のように中国の神話の影響が『竹取物語』にはあるようだ。

さて、条件を出されたくらもちの皇子は、最初から「蓬莱の玉の枝」を探すのをあきらめ、かわりに偽(にせ)の「蓬莱の玉の枝」をつくってかぐや姫をだまそうとした。 そのため手下の匠(たくみ)たちに「蓬莱の玉の枝」そっくりの枝を作らせた。

そして、3年の月日がかかり、ようやく偽(にせ)の「蓬莱の玉の枝」が出来上がった。そして、翁の家をおとずれかぐや姫たちをだますために架空の冒険談をでっちあげて話しはじめた。

当初、かぐや姫たちは「蓬莱の玉の枝」が偽造だとは知らなかった。しかし、話のあと匠たちが給料をかぐや姫に請求しに翁の家につめかけに来たことから皇子の嘘(うそ)がばれる。

 
石づくりの皇子
 
大伴大納言

ちなみに5人の貴公子の名前はそれぞれ

石作(いしづくり)の皇子(みこ)
くらもちの皇子
右大臣 阿倍御主人(あべの みうし)
大納言 大伴御行(おおともの みゆき)
中納言 石上麿足(いそのかみの まろたり)

結婚の条件として持ってくるべき品物はそれぞれ

石作(いしづくり)の皇子(みこ) ・・・ 「仏の御石」 (ほとけのみいし)。釈迦(しゃか)が使ったと言う。
くらもちの皇子 ・・・ 「蓬莱の玉の枝」 。蓬莱にあるという。根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝。
右大臣 阿倍御主人(あべの みうし) ・・・ 「火鼠の皮衣」 (ひねずみのかわぎぬ)。焼いても燃えない布。
大納言 大伴御行(おおともの みゆき) ・・・ 「龍の首の玉」 (たつのくびのたま)。龍の首にあるという玉。
中納言 石上麿足(いそのかみの まろたり) ・・・ 「燕(つばくらめ)の子安貝(こやすがい)」。ツバメが産むという貝。

入手のための方法はそれぞれ

石作(いしづくり)の皇子(みこ) - 仏の御石 ・・・ 偽物でかぐや姫をだまそうとするが失敗。
くらもちの皇子 - 蓬莱の玉の枝 ・・・ 手下に偽物を作らせてかぐや姫をだまそうとするが失敗。
右大臣 阿倍御主人(あべの みうし) - 火鼠の皮衣 ・・・ 商業的に購入。偽物を買わされた。竹取の翁の家で皮衣を燃やす実験をしたところ、あっけなく燃える。
大納言 大伴御行(おおともの みゆき) - 龍の首の玉 ・・・  冒険に出かけ、船旅で事故。あきらめる。
中納言 石上麿足(いそのかみの まろたり) - 燕の子安貝 ・・・ ツバメが卵を産むのを待つ。はしごから転落し、事故死。


以下の話はくらもちの皇子がでっち上げた、架空の冒険談である。

これやわが求むる山ならむと思ひて、さすがに怖しく思えて、山のめぐりをさしめぐらして、二三日ばかり見ありくに、天人の装ひしたる女、山の中より出で(いで)来て、銀(しろがね)の鋺(かなまる)を持ちて水を汲みありく。これを見て舟より下りて(おりて)、「この山の名を何とか申す」と問ふ。女、答へていはく、『これは蓬莱の山なり』と答ふ。これを聞くに、うれしきことかぎりなし。

これこそが、自分が探している(蓬莱の)山だろうと思って、(うれしかったが)やはり恐ろしく思われて、山のまわりをこぎまわって二日・三日ほど、様子を見て回っていたら、天人の服装をした女が山の中から出てきて、銀のお椀で水をくんでいます。これを(私が)見て、(私は)船から降りて、「この山の名を、何というのですか。」と尋ねました。女は答えて、「この山は、蓬莱の山です。」と答える。これを聞いて、(私は)うれしくて、たまらない。

(中略)

その山、見るに、さらに登るべきやう(ヨウ)なし。 その山のそばひらをめぐれば、世の中になき花の木ども立てり。 金(こがね)・銀(しろがね)・瑠璃(るり)色の水、山より流れいでたり。 それには、色々の玉の橋渡せり(わたせり)。 そのあたりに、照り輝く(かがやく)木ども立てり。 その中に、この取りてまうで(モウデ)来たりしは、いとわろかりしかども、のたまひし(ノタマイシ)に違は(タガワ)ましかばと、この花を折りてまうで(モウデ)来たるなり。

その山を、見ると、(険しくて)まったく登れそうには、ありません。その山の斜面を回ってみると、この世の物には無い(この世の物とは思えないほど美しい)花の木が立っています。金色の水、銀色の水、瑠璃色の水が、山より流れ出ています。 その川には、色さまざまの玉でつくられた橋が架けられています。その付近に、光り輝く木々が立っています。その中で(その木の中から取ってきた)、この取ってきたのは(取ってきた枝は)、かなり見劣りするものではありましたが、(姫の)おっしゃった物とは違ってはいけないだろうと思い、この花(の枝)を折って、まいってきたのです。

(後略)



玉の枝が偽物とはいえ匠たちが3年もの歳月をかけて作りあげたのだからとても高価な品物ではあろう。しかし、そんなことにはかぐや姫は興味が無い。かぐや姫はさっさと球の枝を皇子に返した。

他の4人もすべて失敗した。ある貴公子は大金を使ったが失敗する。ある貴公子は船旅の途中に暴風雨にあって失敗し、かぐや姫を疫病神あつかいしはじめかぐや姫への興味がなくなる。ある貴公子は事故にあい大けがをして失敗する。ある貴公子はかぐや姫をだまそうとして失敗する。

そして結局、5人の貴公子の求婚はすべて失敗した。


このあと天皇がかぐや姫の話題を聞きつけ、興味をいだき、かぐや姫を見てほれてしまい、天皇もかぐや姫に求婚しはじめる。

(結局、5人の貴公子はのちに登場する天皇の引き立て役である。貴族を登場させずにいきなり天皇が求婚しても急展開すぎるしストーリーも短くなる。だいたい天皇は格下の貴族とちがって宝探しの冒険なんてしないから(宮中での仕事があるので、冒険に行けない。)なので、いきなり天皇が登城しても面白くならない。かといって天皇が出てこないと物語中での地上界の最高権力者である天皇が出てこないので、のちの天人の引き立て役が不十分である。)

天皇はこの物語世界では地上での最高の権力者である。その天皇からかぐや姫は求婚された。

しかし、かぐや姫はかたくなに結婚をしようとしない。


天皇はかぐや姫を無理やり宮中に連れようとかぐや姫をにぎるとかぐや姫は変身して影(かげ)になって一時的に消えてしまう。 なので無理やりつれていくことも出来ない。

かぐや姫が変身することで、かぐや姫が通常の人間でないことが説得力を持って読者や登場人物に伝わる。

このあと、いろんなやり取りがあって、そうこうしているうちに月日が流れ、かぐや姫は月に帰らなければならない日が近づく。

 
警備の兵

かぐや姫を月に連れもどそうとする天人からかぐや姫を守ろうと、帝は翁の家に警備の兵を派遣して守らせる。


  • 語法解説

その山、見るに・・・

その山、見るに - 「その山は、(私が)見るに」「(私が)その山を見るに」などの意味。助詞(は、を)や主語(私は)などが省略されてる。
玉の橋渡せり。 - 「玉の橋を渡せり」のように「を」が省略されている。
のたまひしに - 「(姫が)のたまいし」「(姫の)のたまいし」のように、主語が省略されている。

このように、古文では助詞や主語が省略されることが多い。また、省略される主語の人称はかならずしも話し手(1人称)自身とはかぎらないので注意のこと。前後の文の文脈から主語をおぎなうことになる。


天の羽衣

編集
 
月へ帰るかぐや姫

そして、ついに天人たちがかぐや姫を月に連れかえりに地上の翁の家にやってくる。

警備の兵は捕まえようとするが、天人たちの不思議な超能力によりまったく力が入らない。

かろうじて弓矢を持ったものが矢を射っても、矢がまったく違う方向へ飛んでしまい当たらない。

そして、かぐや姫は天人の超能力により自動的に屋外へと引きずりだされ、天人の居る場所へと動いてしまう。

ついに天人がかぐや姫を月に連れ戻そうとする。ここでかぐや姫は手紙を書き残すための時間が欲しいと頼み、天人に手紙を書くための時間を与えられる。

月にかえる直前のかぐや姫はまだ地上の情の記憶が残ってるうちに手紙を書き残し、その手紙は天皇へ当てられた。

天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣(はごろも)入れり。また、あるは不死の薬入れり。 一人の天人言()。「壺(つぼ)なる御薬(みくすり)たてまつれ。きたなき所の物きこしめしたれば、御心地(おんここち)悪しからむ(あしからン)ものぞ。」とて、持て寄りたれば、いささかなめたまひ()て、少し形見とて、脱ぎ置く衣(きぬ)に包ま()とすれば、ある天人包ませず。

御衣(みぞ)を取り出でて(いでて)着せ()とす。その時にかぐや姫、「しばし待て。」と言()。 「衣、着せつる人は、心、異(こと)になるなりとい()。物(もの)一言(ひとこと)い()おくべきことありけり。」とい()て文(ふみ)書く。

天人の中の一人に持たせている箱がある。(その箱には)天の羽衣が、入っている。また別の箱には、不死の薬が入っている。一人の天人が言う、「壷に入っているお薬を飲みなさい。汚い所(=地上)のものを召し上がってきたので、ご気分が、(きっと)悪いでしょう。」と言って、(薬の壷を)持って寄ってきたので、(かぐや姫は)僅か(わずか)おなめになって、少し形見といて脱いでおく着物に包もうとすると、天人が(薬を)包ませない。

(そして、)(天人が)お召し物(=天の羽衣)を取り出して、(かぐや姫に)着せようとする。

その時に、かぐや姫は、「しばらく待ちなさい。」と言う。「天の羽衣を着せられた人は、心が、この地上の人間とは(別の心に)変わってしまうという。(じつは)一言、(地上の者たちに)言っておかなければならないことがあった。」と言って、(帝に当てた)手紙を書く。

※ 「たてまつれ」: 古語での「たてまつる」(奉る)の意味は、たとえば「めしあがる」のような「○○しなさる」というような意味の尊敬的な用法。けっして現代語の「たてまつる」(祀る)とは違い、祭壇などで拝むような意味はない。だから古語の「たてまつれ」(奉れ)では、この文脈では「召し上がってください」のような意味。なお、具体的に何をしてもらいたいかは文脈によるので、暗記の必要はない。


中将取りつれば、 ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいと()し、かなしとおぼしつることも()せぬ。この衣(きぬ)着つる人は、もの思ひ(イ)なくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人(てんにん)具して昇り(のぼり)ぬ。

(地上の人間の)中将が(手紙と壷を)受け取ると、 天人が、いきなり、さっと天の羽衣を(かぐや姫に)着せてさしあげたので、(もう、かぐや姫は)「翁を気の毒だ、かわいそうだ。」と思っていた気持ちも消え失せてしまった。

この天の羽衣を着た人(=元・かぐや姫)は、(もはや、地上の人としての気持ちが失せてしまったので、)(たかが地上のことで)思い悩むことも無くなり、(そのまま、)(天を飛ぶ)車に乗って、百人ほどの天人とともに、天に昇ってしまった。



※ 「いとほし」: 古語では「いとおし」「いとほし」には「気の毒だ」「かわいそうだ」の意味がある。だが、古典作品によっては現代語の「いとおしい」と同様に「かわいらしいと思う」の意味でも使われることもあり、たとえば『源氏物語』では「宮はいといとほしと思す(おぼす)なかにも」(宮は「たいへん、かわいいなあ」とお思いになっても)のような意味もある。

かぐや姫は連れてかれてしまった。そして、かぐや姫は「天の羽衣」を着たことにより、地上の人情は忘れてしまい、かぐや姫は翁たちにも興味はなくなった。


翁・嫗(おうな)、血の涙を流して惑へど(まどえど)、かひ(かい)なし。あの書きおきし文を読みて聞かせけれど、「何せ()にか命も惜し(おし)から()。誰(た)がためにか何事も用なし。」とて、薬も食()ず、やがて起きも上がらで、病み伏せり。

中将、人々引き具して帰り参り(ま()り)て、かぐや姫をえ戦()留めずなりぬる事を細々(こまごま)と奏す(そうす)。薬(くすり)の壺(つぼ)に御文(おんふみ)添へ(そエ)(マイ)らす。広げて御覽(ごらん)じて、いといたくあ()れがらせたま()て物もきこしめさず。御遊びなどもなかりけり。

翁と嫗(おうな)は、血の涙を流すほどに(悲しみ)取り乱したが、どうしようもない。(かぐや姫によって)書き置かれた、あの手紙を読み聞かせたが、「(今さら)何をすることがあるのでしょう。(どうして、)命が惜しいでしょうか。誰のために生きるのですか。もう、何も無用です。」と言って、薬も飲まず、やがて病み伏せってしまって、起き上がらない。

中将は、人々(=兵士など)を引きつれ(宮中に)帰り参上した。(帝に報告し、)かぐや姫を引き留めるために戦うことが出来なかった事を細々と申し上げた。

(そして、中将が預かっていた)薬の壷および手紙を、帝に、さしあげた。

(帝は手紙を)広げて、お読みになり、とても、たいそう悲しみになり、食事も召し上がらない。(音楽などの)お遊びも、なされなかった。



ふじの煙

編集

月に帰る直前のかぐや姫から地上の者たちは「不死の薬」を受け取り、天皇に薬がわたされたが、天皇も翁も嫗(おうな)もだれも薬を飲もうとしない。かぐや姫のいない世界で不死を生きることに翁たちはもはや興味が無い。翁と嫗は自分の娘としてかぐや姫をかわいがっていた。天皇も不死に興味が無く、その薬を(つわもの)たちに富士山で燃やさせる。「不死の薬を燃やしたから不死=富士」と思わせておいて、実は「士に富む」(原文では「士どもあまた」)から「富士」というオチである。

(もし薬を飲んだ不死の人間が出てきたらストーリーが終わらないので、こういう薬を処分する結末になるのも当然だろう。しかし、ではなぜ、わざわざ不死の薬が出てきたのだろうか。当時の富士山は噴火活動中で、絶え間なく噴煙を上げていたからだとされている。)

御文(おんふみ)、不死の薬の壺(つぼ)並べて、火をつけて燃やすべきよし仰せ(おほせ)たまふ。

そのよしうけたまはりて、士(つはもの)どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。 その煙(けぶり)、いまだ雲の中へ立ち上るとぞ、言ひ伝へたる。

(帝は)お手紙と不死の薬壺を並べて、火をつけて燃やすようにと、ご命令になった。その旨を承り、兵士たちを大勢ひきつれて山に登ったという事から、その山を「ふじの山」と名づけたという。 その煙は、いまだに雲の中へと立ち上ってると、言い伝えられている。