小学校社会/6学年/歴史編/上巻

このページでは、日本の歴史について、安土桃山(あづちももやま)時代までを学びましょう。江戸(えど)時代以降(いこう)についての下巻(げかん)こちらです。

また、人物についてくわしく学ぶ「人物事典」はこちらです。政治や日本の世界へのかかわりについて学ぶ「政治・国際編」はこちらです。

はじめに 編集

時代の表し方 編集

 
時代の流れ
  • 時代
    • 歴史学習で使う時代の表し方には、まず「時代」があります。これは、「奈良(なら)時代」「江戸(えど)時代」などと、大きなことがら(政治の拠点(きょてん)が移る,天皇(てんのう)が変わるなど)ごとに時代を変えていく表し方です。なお、室町時代のうち1392年までを「南北朝(なんぼくちょう)時代」、1467年以降(いこう)を「戦国(せんごく)時代」ということもあります。
  • 西暦
    • 西暦(せいれき)は、イエス・キリストが生まれたとされる年を西暦1年として年を表す表し方です。現在は西暦2024年です。
  • 世紀
    • 世紀(せいき)とは、100年ごとに区切って年を数える単位です。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀といいます。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀です。

大昔の()らしとくにづくり 編集

大昔の()らし
 
縄文土器

いまから1万5000年ほど前になると、氷河(ひょうが)期が終わり、地球の気候があたたかくなりました。

そして、いまから1万2000年ほど前のころ、日本列島に住んでいる人たちは、海や川の近くに住んで、石や(ほね)でつくった()物や(やり)や矢をつかって、シカやイノシシなどの動物を、とらえて食料にしていました。

同じころ、日本列島に住んでいた人たちは、土器(どき)をつくるようになりました。その土器に縄の模様(もよう)がついているので、この時代に作られた土器を 縄文(じょうもん)土器 といいます。

この土器は、食べ物を煮炊(にた)きしたりするための、今でいう なべ のような物です。

今から約1万2000年前から約3,000年前までの時代のことを、 縄文(じょうもん)時代 といいます。

 
弥生時代の竪穴住居の復元、佐賀(さが)吉野ヶ里(よしのがり)遺跡

縄文時代の人の家の建物は、竪穴(たてあな)住居 といい地面に穴をほりさげたあとに、柱を立て、草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。

 
加曽利貝塚、北貝(そう)断面

縄文時代の人の集落があったと思われる場所からは、多くの貝がらが発掘(はっくつ)されています。

この貝がらが多く発掘された、集落だったと思われる場所を 貝塚(かいづか) といいます。貝塚からは、貝がら以外にも、動物の(ほね)や、魚の骨などが出土することもよくあります。

なお、貝塚には、たとえば東京(とうきょう)都の大森(おおもり)貝塚や、福井(ふくい)県の鳥浜(とりはま)貝塚や、千葉(ちば)県の加曽利(かそり)貝塚などがあります。

なお、貝塚や石器などに限らず古い時代の物が見つかる場所のことを、 遺跡(いせき) といいます。

遺跡などから出土する物によって、その時代の()らしもわかります。

()りに必要な、「釣り(ばり)」と「もり」が、縄文時代の遺跡から出土することも多く、漁もしていたことがわかります。

なお、動物の骨は、とがらせて使うことが多く、とがらせたものを 骨角器(こっかくき) といいます。骨角器のようなとがった骨も出土することがあります。狩りなどで、槍の先の武器として使ったりすることが多かったものと思われます。

 
土偶(亀ヶ岡(かめがおか)遺跡)

縄文の遺跡(いせき)から、土偶(どぐう) という、土を焼き固めた、女性のような形の人形が見つかる場合があります。 土偶は、食料が増えることや女性の安産をいのったものだと考えられています。

 
六本柱建物(復元)

青森(あおもり)県の 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき) は、約5500年前から約1500年前の間の集落だったということがわかっています。

この三内丸山遺跡から、木を栽培(さいばい)した形跡(けいせき)が見つかっています。

つまり、すでにこの時代から農業をしていたことがわかります。

また、多くの土器や石器のあとも見つかっています。

大型の、掘立(ほった)て柱も、見つかっています。掘立て柱の用途(ようと)はまだ分かっていません。 ヒスイの玉や、黒曜石(こくようせき)でできた()物のようなものも見つかっています。

ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の糸魚(いとい)川などの他の土地でとれるので、他の地域(ちいき)と交易があったのだろう、と考えられています。

この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として代表的な遺跡です。

縄文(じょうもん)時代の次の時代は、弥生(やよい)時代です。

弥生(やよい)時代

~米づくりがはじまる~

 
弥生(やよい)土器

いまから2400年ぐらい前のころ、ユーラシア大陸や朝鮮(ちょうせん)半島あたりの人々から、米による稲作(いなさく)が、日本に伝わりました。

米作りは、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方にまで広がりました。

この時代の農具の多くは、まだ木製です。ただし、米作りとともに鉄器の技術も日本に伝わっているので、一部では鉄を用いた農具も見つかっています。

()から米をとるときに、 石包丁(いしぼうちょう) が、使われました。

  • 弥生(やよい)土器
    • また、このころ、土器は、縄文(じょうもん)土器よりも うすくて かたい 弥生(やよい)土器 をつくるようになりました。「弥生(やよい)」とは、学者が発見した場所が、東京(とうきょう)の弥生町(現在の文京(ぶんきょう)区)だったので、弥生の土器という意味で、「弥生土器」とよばれています。
    • 縄文土器と弥生土器の形のちがいについては、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が かわったのだろう、と考えられています。
  • 高床(たかゆか)倉庫
    • 米は、 高床(たかゆか)倉庫 で保管されていました。

高床倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするためです。なお、風通しをよくするため、という理由も考えられます。ねずみの害を防ぐという理由の有力な根拠(こんきょ)として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床倉庫が見つかっています。

弥生(やよい)時代の多くの住まいは、竪穴(たてあな)住居です。

  • 金属器
 
銅鐸

大陸や朝鮮(ちょうせん)半島から米作りがつたわるとともに、青銅器や鉄器などの金属器が、伝わります。そして、日本でも、弥生時代中に、金属器がつくられるようになりました。

青銅とは、銅 と すず(金属の1つ)を、とかしてまぜあわせた金属でつくられた、合金です。

青銅器には、銅(けん)や、銅(ほこ)、銅(たく)、銅(きょう)などが、あります。

青銅器は、おもに祭りに使われるようになります。 いっぽう、鉄器は、農具や武器などの実用品につかわれるようになります。

  • 登呂遺跡(とろいせき)
 
登呂遺跡。復元、竪穴住居。

静岡(しずおか)県にある、登呂遺跡(とろいせき)からは、竪穴(たてあな)住居と、高床(たかゆか)倉庫が見つかっています。水田(すいでん)のあともあります。

  • 吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)
 
吉野ケ里遺跡,遠景

佐賀(さが)県にあります。

まわりを(ほり)でかこまれた 環壕(かんごう)集落 です。

矢がささった人骨(じんこつ)も見つかっています。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できます。

濠の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。


おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、

それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じて、
そのため、土地や水が必要になり、
集落どうしで、土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。

このような争いが、身分の差を作っていった理由の一つだとも、思われています。

この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。

日本の統一へ
  • 邪馬台国

中国大陸の3世紀ごろの歴史書では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かりました。

そして、日本にはこれら30あまりの国をしたがえた 邪馬台国(やまたいこく) がありました。邪馬台国で、代表的な地位にあった人物は、卑弥呼(ひみこ) という女性です。彼女(かのじょ)の政治は、まじないやうらないによるものだったようです。

邪馬台国の場所は、わかっていません。

邪馬台国は、() に、外交の使いを送りました。

 
金印。

57年、日本は、()皇帝(こうてい)から、金印などを受け取りました。

古墳(こふん)時代
 
仁徳天皇陵(てんのうりょう)と思われている大山(だいせん)古墳。前方後円墳、大阪(おおさか)(さかい)

3世紀から4世紀ごろになると、王や豪族(ごうぞく)をほうむる大きな墓がつくられはじめました。 このような、大きな王などをほうむった大きな墓を 古墳(こふん)といいます。

古墳は,特に近畿(きんき)地方から瀬戸内海沿岸(せとないかいえんがん)地域(ちいき)に見られます。

この、3世紀ごろから7世紀ごろの時代を 古墳時代 といいます。

古墳時代の文化のことを 古墳文化 といいます。

古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に()り上がった古墳を円墳(えんふん)といいます。四角く盛り上がった古墳を方墳(ほうふん) といいます。円墳と方墳があわさったような、かぎ(あな)のような形の古墳を 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん) といいます。 大阪(おおさか)(さかい)市にある 大仙(だいせん)(大山)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。

大仙古墳は、まわりが3重の(ほり)で、かこまれています。

  • 古墳の副葬(ふくそう)
 
はにわ。武装(ぶそう)男子立像(群馬(ぐんま)太田(おおた)市出土)
 
はにわ。(馬形埴輪(はにわ))

古墳からは、鏡や玉、(つるぎ)などの副葬品が発見されている。ほかにも、はにわ という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が発見されています。

大和政権(やまとせいけん) 編集

奈良(なら)県の大和(やまと)地方には、大きな古墳(こふん)が多く発見されています。このことからこの地方に、有力な勢力があったと考えられている。この地方の有力な豪族(ごうぞく)たちの政治勢力を 大和政権(やまとせいけん) といいます。

この大和政権の政府を 大和朝廷(ちょうてい) と言い、その最高権力(けんりょく)者を 大王(おおきみ) といいます。

 
真ん中の、(たて)に長いものが、発掘(はっくつ)された鉄剣(てっけん)

埼玉(さいたま)県の稲荷山(いなりやま)古墳から見つかった鉄剣(てっけん)には、「ワカタケル大王」という名が(きざ)まれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。

熊本(くまもと)県の 江田船山(えだふなやま)古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という同じ名の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域(りょういき)が、関東(かんとう)地方から九州(きゅうしゅう)までの広い範囲(はんい)におよんでいたことがわかります。

ヤマトタケルの物語

皇子(おうじ)であるヤマトタケルノミコトは、武勇(ぶゆう)にすぐれていました。かれは父の命令で九州に行き、朝廷(ちょうてい)にしたがわない豪族(ごうぞく)である クマソ をたおしました。

それから関東(かんとう)に行き、広い野原で焼きうちにあってしまいましたが、きりぬけて、関東を征服(せいふく)しました。

しかし、タケルは帰る途中(とちゅう)で、病気で なくなりました。そして、タケルは大きな白い鳥になって、大和(やまと)のほうへ飛んでいきました。


  • 仏教(ぶっきょう)の伝来

また、仏教(ぶっきょう)も、外国から伝わりました。538年に、朝鮮(ちょうせん)半島の百済(くだら)という国の王から、仏像や経典(きょうてん)が、日本の天皇(てんのう)に送られました。

天皇(てんのう)を中心とした国づくり 編集

聖徳太子(しょうとくたいし)の登場~

聖徳太子(しょうとくたいし)
(れい) (おこな)ったこと 社会のできごと
6世紀
豪族(ごうぞく)どうしが争う
574 1才 聖徳太子が生まれる
蘇我(そが)氏が権力(けんりょく)をにぎる
589 (ずい)が中国を統一する
593 20才 聖徳太子が摂政(せっせい)になる
7世紀
603 30才 冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定める
604 31才 十七条(じゅうななじょう)憲法(けんぽう)を定める
607 34才 小野妹子(おののいもこ)遣隋使(けんずいし)として送る
618 (ずい)がほろんで(とう)になる
622 49才 聖徳太子がなくなる
645 大化(たいか)の改新

日本では、6世紀ごろから、豪族(ごうぞく)影響力(えいきょうりょく)が強まりました。豪族の反乱(はんらん)や、豪族どうしの争いも起こり始めました。

この、豪族どうしの争いで、最終的に587年ごろ、蘇我馬子(そがのうまこ)が勝ちました。 そして、女性である 推古天皇(すいこてんのう) による政治が行われましたが、蘇我氏の影響(えいきょう)下にありました。

 
聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし)(厩戸王(うまやどのおう))は、おばの推古天皇の政治を補助(ほじょ)する 摂政(せっしょう)という仕事につきました。

※ なお当時、「摂政」という用語は無い。のちの時代に、幼少の天皇や女性天皇などを助ける仕事のことを「摂政」と呼ぶようになった。

聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革(かいかく)をすすめました。

聖徳太子らによる改革のひとつに、十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)の制定があります。

  • 十七条の憲法

役人の心がまえを記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。

十七条の憲法(要約)

1条 争いをやめ、なかよくしなさい。

2条 仏教を厚く保護しなさい。

3条 天皇(てんのう)の命令には(したが)いなさい。

5条 裁判(さいばん)は、公正に行いなさい。

12条 農民などの(たみ)から、勝手に税やみつぎ物をとってはいけません。

17条 重要なことを決めるときには、話し合いで決めなさい。

聖徳太子らの行った重要な政策(せいさく)には、外交政策もあります。ユーラシア大陸の一部を支配していた (ずい) という国との外交です。

607年に、外交の使者として 小野妹子(おののいもこ) たちを 隋に送ります。この使者を 遣隋使(けんずいし) といいます。

なお、小野妹子は男だと考えられています。


外交の結果、日本は隋と国交を結びました。また、隋の文化や制度は日本よりも進んでいたので、日本は多くの文化や制度を取り入れました。

  • 冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制

聖徳太子らによる改革には、冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制というものもあります。これは、家がらに関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手がらによって、役人に位が与えられます。位は、一代かぎりです。 役人の位を12段階(だんかい)に分けたので、このような名前で()ばれます。


  • 法隆寺(ほうりゅうじ)建立(こんりゅう)
 
法隆寺。金堂(きんどう)五重塔(ごじゅうのとう)
 
法隆寺の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)(金堂)

聖徳太子は、607年に, 現在の奈良(なら)県に法隆寺(ほうりゅうじ)を建てさせました。法隆寺は、現存する木造建築としては世界最古です。法隆寺は、1993年に世界文化遺産(いさん)に登録されました。

さまざまな改革(かいかく)

622年に、聖徳太子(しょうとくたいし)()くなりました。聖徳太子の死後には、蘇我(そが)氏の権力(けんりょく)が強まりました。 蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなりました。

まず、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)の権力が強まりました。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である 蘇我入鹿(いるか) の権力が強まりました。

645年皇族(こうぞく)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、豪族(ごうぞく)中臣鎌足(なかとみのかまたり) との協力により、蘇我入鹿は殺害されました。蝦夷は、この事件を知り、自殺しました。


  • 大化(たいか)改新(かいしん)

このあと、中大兄皇子らが権力を取り、さまざまな政治改革(かいかく)を行いました。この改革を 大化(たいか)改新(かいしん) といいます。645年に元号を「大化」と定めたので、この一連の改革は大化の改新と呼ばれています。 「大化」という元号により、日本では、はじめて元号が定められました。これは、中国を手本としたものでした。

  • 公地公民(こうちこうみん)

これまでは(ごう)族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のもの(朝廷が管理する)になりました。これを 公地公民(こうちこうみん) といいます。

  • 戸籍(こせき)をつくる

人民の 戸籍(こせき) を作り、それにもとづいて国が人々に土地を(あた)え、仕事をさせました。

この当時の戸籍は、人民を1人ずつ、公文書(こうぶんしょ)に登録することで、住所や家族の名や年(れい)、家の世帯主などを把握(はあく)するためのものでした。

  • ()調(ちょう)(よう)
一般(いっぱん)の人々の負担(ふたん)
 種類 内容
 税  () 収穫(しゅうかく)の約3~10%の(いね)(おさ)める。
調 地方の特産物(糸、(きぬ)、わた、塩、
魚、海そう、鉄など)を納める。
都で年10日ほど働くか、布を納める。
 兵役(へいえき)  防人(さきもり) 九州北部で兵士を3年行う。

税の種類です。

()とは、田の収穫(しゅうかく)量の、約3~10%を、国に(おさ)める税です。
調(ちょう)とは、地方の特産物を、国に納める税です。
(よう)とは、都に出てきて年10日ほど働くか、布を納める税です

このほかに、防人(さきもり)という、九州で兵士として警備(けいび)を行う、兵役(へいえき)の仕事がありました。

この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が残っています。

 さきもりの歌  (『万葉集(まんようしゅう)』より )

  (から) (ころも) (すそ) に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや(おも)なしにして


(現代語(やく))唐衣のにすがって泣きつく子どもたちを、(防人に出るため)置いてきてしまったなあ。あの子たちには母もいないのに。
  • 大宝律令(たいほうりつりょう)

701年に、 大宝律令(たいほうりつりょう) という、税金や都についての法律(ほうりつ)が完成しました。

奈良(なら)時代
 
平城京のイメージ図

710年に、都が奈良(なら)平城京(へいじょうきょう) へと移りました。

この都が平城京にあった時代を 奈良(なら)時代 といいます。


平城京は、碁盤(ごばん)の目のように、区画が整理されています。

  • 古事記と日本書紀

712年に『古事記(こじき)』という天皇家(てんのう)貴族(きぞく)などに伝わる、神話の時代をまとめた書がつくられました。


古事記には、神話の時代から推古(すいこ)天皇にいたるまでの出来事が書かれています。

また、日本の歴史書である『日本書紀(にほんしょき)』が720年に完成しました。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇に(いた)るまでの国家と天皇の歴史について書いた書です。

大仏づくり 編集

 
東大寺の大仏
 
聖武天皇

8世紀のなかごろ、都では病気が流行し、多くの死者が出たり、さらに、貴族(きぞく)反乱(はんらん)が起きたりしたため、世の中が混乱しました。

仏教(ぶっきょう)を信じた聖武天皇(しょうむてんのう)は、仏教の力を借りて人々の不安をしずめ、社会を安定させようとしました。

まず741年に国(今でいう都道府県)ごとに 国分寺(こくぶんじ) を建てさせました。

都には 東大寺(とうだいじ)を建てさせ、そのなかに大仏を作らせました。

 
行基

このころ、行基(ぎょうき)という(そう)がいました。かれは、渡来人(とらいじん)の子孫で、民衆(みんしゅう)のために用水の池や橋を造りながら、諸国(しょこく)をまわって教えを説いていたので、多くの人々にしたわれていました。

しかし、朝廷(ちょうてい)は、はじめは、行基の行動をとりしまりました。当時は、民衆(みんしゅう)への仏教の布教は禁止されていました。 朝廷からは、行基は危険(きけん)な人物だろうと思われていたのです。

大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、人々の支持が必要でした。このため、民衆にしたわれていた僧の行基の活動を(みと)めました。

遣唐使(けんとうし)鑑真(がんじん) 編集

中国の帝国(ていこく)(とう)に変わっても、かつての遣隋使(けんずいし)と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の 遣唐使(けんとうし) を送りました。

遣唐使として有名な人物には、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) や、吉備真備(きびのまきび) などがいます。


阿倍仲麻呂は、日本に帰国するために乗った船が難破(なんぱ)したため日本に帰国できず、最終的に唐の皇帝(こうてい)に仕えることになりました。

吉備真備は日本に帰れました。吉備真備は2回唐にわたり、2回とも日本に帰国できました。


  • 鑑真(がんじん)

日本の朝廷らは、唐の有名な僧の 鑑真(がんじん) に、日本でも仏教をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招きました。これを受け、鑑真は日本へわたりましたが、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。6回目に日本についたころには、失明しました。

鑑真は、奈良(なら)唐招提寺(とうしょうだいじ) を開き,そして多くの日本人の僧を育てました。

  • 正倉院
 
正倉院正倉
 
正倉院の宝物庫

東大寺(とうだいじ)にある 正倉院(しょうそういん) には、奈良(なら)時代の美術品や、聖武天皇(しょうむてんのう)が愛用した道具などが(おさ)められています。

※「螺鈿紫檀五絃琵(らでんしたんごげんのびわ)」(図参照)や「瑠璃杯(るりのつき)」などの宝物(ほうもつ)保存(ほぞん)されているのですが、画像を用意できません。外部サイトや参考書などで、画像を(さが)してください。

(これらはあくまで参考です。)

  • 万葉集

和歌をまとめた 万葉集(まんようしゅう) が759年ごろから編纂(へんさん)されました。

貴族(きぞく)だけでなく、農民や防人(さきもり)など様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録(しゅうろく)されています。

合計で4500首の歌が収録されています。

貴族のくらしと文化 編集

貴族(きぞく)がさかえた時代~

桓武天皇(かんむてんのう)は794年に都を京都(きょうと)平安京(へいあんきょう) にうつしました。

  奈良から平安京への寺院の移転は禁止されました。

他にも、社会の変化で、もはや、公地公民(こうちこうみん)による昔の政治がうまくいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだと思われます。

政治の中心地が平安京であった、約400年間の時代を 平安(へいあん)時代 といいます。

  • 摂関(せっかん)政治

9世紀の中ごろになると藤原鎌足(ふじわらのかまたり)(中臣(なかとみの)鎌足)の子孫の一族である 藤原氏 が、権力(けんりょく)を強めました。

藤原氏の一族は、代々、(むすめ)天皇(てんのう)の きさき(妻)にしています。 すると、藤原氏は天皇の母方の親せきということになるので、藤原一族の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。

 
藤原道長(ふじわらのみちなが)


藤原氏は、天皇が(おさな)いときは、藤原氏の者が摂政(せっしょう)となり政治の実権(じっけん)をにぎり、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。

道長は、次の歌をよみました。

「この世をば わが世とぞ思((う)) 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思((え))ば」

(この世は、望月(満月)のように欠けているものがなく、まるで(わたし)(道長)の物のようだ。)

 
平等院鳳凰堂

道長(みちなが)の子である 藤原頼通(ふじわらのよりみち) は、京都(きょうと)平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう) を建てさせました。現在の10円玉の表面にもえがかれています。

 
現在の10円玉
平安時代の文化
  • 遣唐使(けんとうし)の中止と国風文化

菅原道真(すがわらのみちざね)の進言により、894年に遣唐使(けんとうし)が中止されました。

 
菅原道真

遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、ユーラシア大陸で内乱(ないらん)が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険(きけん)が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済(けいざい)的な負担(ふたん)が大きい、などです。

この遣唐使の廃止により、日本の () (ぞく) 文化では、だんだんユーラシア大陸の文化の影響(えいきょう)がうすれたかわりに、国風文化(こくふうぶんか)()ばれる日本独自の貴族文化が発展(はってん)しました。

 
漢字からひらがなへの変化
  • かな文字の発明

ひらがな や カタカナ などの かな文字 が、平安時代に発明されました。 ひらがなは、漢字の形をくずして発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。

 
カタカナの由来

ほかにも、歌集である古今和歌集(こきんわかしゅう)竹取物語(たけとりものがたり) は、かな文字を用いた作品です。

  • その他の文化
 
典型的な寝殿造である東三条殿(ひがしさんじょうどの)の復元模型(もけい)(京都}文化博物館)
1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)
 
江戸(えど)時代の束帯
 
十二単、京都御所(ごしょ)にて

平安(へいあん)時代には、貴族の衣服(正装(せいそう))が変わります。

男の貴族(きぞく)の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) となりました。


貴族の住居の形が 寝殿造(しんでんづくり) になりました。


 
大和絵『源氏物語絵巻』
源氏物語は人気作となり、絵巻物まで作られるほどになりました。この絵は、源氏物語の作品のなかの場面をえがいたものです。

文学の物語では『源氏(げんじ)物語』という創作(そうさく)の物語が、貴族である紫式部(むらさきしきぶ)によって書かれました。貴族の「光源氏(ひかるげんじ)」という人物を主人公にして貴族の恋愛(れんあい)などを書いています。

「源氏物語絵巻(えまき)」も(えが)かれました。

(ずい)筆では、貴族である清少納言(せいしょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が、日常生活や自然を観察して、感想をつづったものです。

絵画には、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が現れ、寝殿造の屋敷(やしき)屏風(びょうぶ)や ふすま などに描かれました。さきほど紹介した源氏物語絵巻も、大和絵です。


武士の世の中へ 編集

平安時代の武士たち

平安時代には、地方の豪族(ごうぞく)たちが私有(しゆう)地を広げていきました。

9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力をたくわえました。一族の者や、手下の農民たちに武装(ぶそう)させるようになりました。

このようにして、武士ができていきました。武士たちは、一族の かしら をリーダーとして、それぞれの一族ごとに 武士団 を結成しました。

  • 平氏
 
平清盛

この時代に、天皇(てんのう)()をめぐって皇族(こうぞく)どうしで権力(けんりょく)争いが起きると、武士たちは、これらの戦いに加わりました。

その結果、 平清盛(たいらのきよもり)の加わっていた 平氏(へいし) の側が勝利したので、清盛が権力をにぎっていきました。

そして1167年には、平清盛は、武士としては初めて 太政大臣(だいじょうだいじん) の位につきました。

平清盛は、清盛のむすめを、天皇の(きさき)(妻)にさせました。

このようにして、平氏の一族が、朝廷(ちょうてい)での重要な役職を得ていき、権力を強めました。

 
厳島神社。平氏の一族は、一族の繁栄(はんえい)を厳島神社に願った。国宝(こくほう)。世界遺産(いさん)

清盛は 海の神をまつっている 厳島(いつくしま)神社 を(うやま)いました。厳島神社は、今でいう広島(ひろしま)県の瀬戸内海(せとないかい)の側にあります。 そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)としました。

しかし、平氏の独裁(どくさい)的な政治に、ほかの貴族やほかの武士などからの不満が高まっていきました。 それらがのちに、平氏をたおすことへとつながりました。

  • 源氏(げんじ)平氏(へいし)の戦い

ついに1180年、皇族(こうぞく)は、平氏(へいし)をほろぼすように命令を下しました。

 
源頼朝と伝えられる人物 :頼朝が子供のころ、平治(へいじ)(らん)で頼朝の父の義朝(よしとも)が平氏と戦って敗北したので、小さいころに源頼朝は、伊豆に流されていた。やがて成人して大人になった頼朝が、平氏への反乱をした。
源氏と平氏の戦い
おもなできごと
1180  源頼朝が伊豆(いず)(現在の静岡(しずおか)県)で挙兵するが、石橋山(いしばしやま)の戦い で平氏にやぶれる
 源頼朝が富士川の戦いで平氏をやぶる
1181  平清盛(たいらのきよもり)がなくなる
1183  源義仲(みなもとのよしなか)が、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏をやぶる
1184  源義経(みなもとの よしつね)一ノ谷(いちのたに)の戦い で平氏をやぶる
1185  源義経が八島(やしま)の戦いで平氏をやぶる
 源義経が壇ノ浦(だんのうら)の戦いで平氏をやぶる
 平氏がほろびる


  • 源平(げんぺい)の戦い

源頼朝(みなもとのよりとも) は、関東で兵をあげました。富士(ふじ)川の戦いで平氏をやぶったあと、頼朝は関東の鎌倉(かまくら)に、とどまって、勢力の基盤(きばん)をかためました。

そして頼朝は、平氏に不満をもっている武士の北条氏(ほうじょうし)など関東の武士とも協力して、勢力をのばしていきました。

頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、代わりに弟の 源義経(みなもとのよしつね) の兵を借りて、平氏を西へと追いつめていきました。

1185年、源義経(みなもとのよしつね)らはついに本州の西の(はし)である今の山口(やまぐち)県の下関(しものせき)で起こった 壇ノ浦(だんのうら)の戦いで、ついに平氏をほろぼしました。

これらの源氏と平氏との一連の戦いを「源平(げんぺい)の戦い」あるいは「源平合戦」といいます。

 
源義経
鎌倉(かまくら)時代

平氏(へいし)滅亡(めつぼう)後、頼朝が朝廷(ちょうてい)に要求したことより、新しい制度として、国ごとに守護が1人ずつ置かれ、荘園(しょうえん)や公領には 地頭(じとう) が置かれました。

守護の役割(やくわり)は、その国の軍や警察(けいさつ)の管理者でした。地頭の役割は、荘園(しょうえん)および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てでした。

頼朝は1185(1192)年に朝廷から 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) に任命されました。

頼朝は鎌倉(かまくら)(現在の神奈川(かながわ)県)に、武家による政治の拠点(きょてん)である 鎌倉幕府(かまくらばくふ)を開きました。鎌倉に幕府があった時代を 鎌倉(かまくら)時代 といいます。

この鎌倉時代から、政治の権力(けんりょく)が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代となっていきました。

幕府の行政の仕組みは、朝廷による制度とは (こと)なります。

将軍(しょうぐん)の家来の武士のことを 御家人(ごけにん) といいます。

将軍は、「(おん)」と()ばれる、御家人たちの土地の権利(けんり)を保証する政策(せいさく)をとるかわりに、奉公(ほうこう)と呼ばれる、御家人たちは将軍のために警備(けいび)を行ったり、戦争の時には戦ったりするという主従(しゅじゅう)関係を、 ご恩と奉公 といいます。

 
ご恩と奉公

いざ鎌倉(かまくら)」といって、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。

この主従関係は、土地を仲立ちとしています。

御家人たちの屋敷(やしき)は、武家造(ぶけづくり)という作りで、屋敷のまわりに(ほり)があったり、(へい)で囲まれていたりと、戦いにそなえたつくりになっています。

一所懸命(いっしょけんめい)」という言葉がありますが、これは、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子からできた言葉です。なお、これが転じて「一生(いっしょう)懸命」となりました。


 
北条政子(菊池容斎(きくちようさい) 画、江戸(えど)時代)

頼朝の死後は、頼朝の長男である頼家(よりいえ)が次の将軍(しょうぐん)となり、さらに次の将軍は頼朝の次男である実朝(さねとも)となりましたが、幕府の実権(じっけん)は、有力な御家人である北条氏の一族がにぎっていました。頼朝の妻は 北条政子(ほうじょう まさこ) で、その父である 北条時政(ほうじょうときまさ)執権(しっけん) という役職につき、北条時政らが幕府の実権をにぎりました。

北条氏のように、執権として政治の実権をにぎる政治の方法を 執権(しっけん)政治 といいます。


  • 承久(じょうきゅう)(らん)

頼朝の死後、1221年に朝廷(ちょうてい)は、政治の実権(じっけん)を武士から取りかえそうとして、幕府をたおせという命令を出しました。

このとき、北条政子(ほうじょうまさこ)は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえたご(おん)は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくいようとするものは、力を合わせて敵軍(てきぐん)をうちとり、幕府(ばくふ)をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめた。

この結果、北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝利しました。

そして、幕府の権力は、朝廷(ちょうてい)をしのぐほどになりました。

また、幕府は、武士のための法律(ほうりつ)をととのえました。

  • 武士のくらし
 
やぶさめ

武士は、日ごろから やぶさめ などの武芸にはげんでいました。「やぶさめ」とは、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに()る武芸のことです。


  • モンゴルとの戦い
  • モンゴル帝国(ていこく)(もと)

13世紀、中国をふくむユーラシア大陸の広い地域(ちいき)では モンゴル民族が モンゴル帝国(ていこく)を築いていました。

モンゴル帝国はユーラシア大陸を制圧すると、モンゴルの国号(国名)を (げん) に変えました。


  • 元寇(げんこう)

モンゴルは、まず朝鮮(ちょうせん)をしたがえました。つづいて、日本にも、モンゴルに(したが)えと、元は使者を日本によこしました。

しかし、ときの執権(しっけん)であった北条時宗(ほうじょうときむね)は、これを断りました。

そして、元は、1274年と1281年の2度にわたって、軍隊とともに日本にせめこみました。

最終的には暴風雨のえいきょうにより元軍が引き上げたので日本が勝利しましたが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と()ばれた)、毒矢、元軍の集団戦に苦戦しました。

 
1274年のモンゴル軍の襲来(しゅうらい)において、矢が飛びかい、てつはうが炸裂(さくれつ)する中を、モンゴル軍へこうげきする御家人の 竹崎季長(たけさきすえなが) と、応戦・逃亡(とうぼう)するモンゴル兵

右の合戦の絵は、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)という絵巻物の一部の絵です。

「蒙古」とはモンゴルのことです。

1度目の戦いのあと、幕府は次のモンゴル軍がせめこんでくるのに備え、今の福岡(ふくおか)県にある博多(はかた)湾の沿岸(えんがん)に こうげきを防ぐための石垣(いしがき)である石塁(せきるい)を築かせました。

1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本に おそいかかりましたが、日本が勝利しました。

この2度の元軍の襲来(しゅうらい)を あわせて 元寇(げんこう) といいます。

御家人は元寇で多くの費用を使いましたが、幕府は ご(おん)としてのほうびの土地を、十分に用意できなかったので、御家人(ごけにん)幕府(ばくふ)に不満を持つようになりました。

  • その他

鎌倉(かまくら)時代には、彫刻(ちょうこく)金剛力士像(こんごうりきしぞう)がつくられました。

※金剛力士像の画像が用意できないので、ここには画像をのせません。

金剛力士像は、奈良(なら)県の東大寺(とうだいじ)南大門(なんだいもん)にあります。


今に伝わる室町文化 編集

 
金閣と足利義満
 
銀閣と足利義政


1336年、今の京都(きょうと)室町(むろまち)室町(むろまち)幕府ができました。

1394年、室町幕府の3代将軍(しょうぐん)である足利義満(あしかがよしみつ)は、京都の北山(きたやま)金閣(きんかく) を建てました。金閣には、金ぱくがはられています。

1482年、室町幕府の8代将軍である足利義政(あしかがよしまさ)は、京都の東山(ひがしやま)銀閣(ぎんかく) を建てました。銀閣には、銀ぱくは はられていません。



  • 生活
 
室町時代の田植えの様子。『月次風俗図屏風(つきなみふうぞくずびょうぶ)』より

色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるようにするなど、農民どうしの集まりが開かれるようになりました。

室町時代には、農民は、(きび)しい領主に対しては、集団で対立するようになりました。

年貢(ねんぐ)が重い場合は、集団で領主におしかけてうったえでたり、全員が村から逃亡(とうぼう)したりして対抗(たいこう)しました。


  • 室町文化
  • 書院造(しょいんづくり)
 
書院造

書院造(しょいんづくり)という、和室の様式が出てきました。

特ちょうは、

  • (ちが)(だな)という、段差(だんさ)になった棚がある
  • 障子(しょうじ)やふすまがある
  • (たたみ)(ゆか)がある

などです。

これが、今の和室の様式につながっています。

  • 水墨画
 
水墨画。秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)
 
雪舟

鎌倉時代に、中国から 水墨画(すいぼくが) の技法が日本に伝わりました。

はじめ日本では、水墨画は、仏教の世界をえがくためにえがかれました。

しかし、室町時代になり、雪舟(せっしゅう)は、水墨画と仏教を分けて考え、仏教にとらわれずに、自然の風景などの水墨画をえがきました。

雪舟
雪舟は、(おさな)いとき、今の岡山(おかやま)県の興福寺(こうふくじ)(あず)けられていました。しかし雪舟はそこで修行(しゅぎょう)をせず絵ばかりかいていました。そこでおこった和尚(おしょう)は雪舟を柱にしばりつけました。しばらくして和尚が様子を見に行くと、雪舟の足元にねずみがいたので、追いはらおうとしましたが、ねずみは動きません。雪舟が、なみだでかいたねずみだったのです。和尚は、それ以降(いこう)、絵をかくのを(みと)めました。


 
雪舟の水墨画、『天橋立図(あまのはしだてず)


  • 茶の湯

書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む、(ちゃ)()が始まりました。茶の湯は、今でも茶道(さどう)として、受けつがれています。


  • (のう)

観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)の親子が、芸能のひとつである (のう) を形成しました。


戦国(せんごく)の世の統一 編集

  • 鉄砲(てっぽう)とキリスト教の伝来


  • 鉄砲(てっぽう)
 
種子島火縄銃(ひなわじゅう)
当時の鉄砲は,つつ先から火薬とたまをいれるものでした。なお,たまがとどくきょりは,100mほどだといわれています。

1543年に,現在の鹿児島県の島である種子島(たねがしま)に,ポルトガル人を乗せた船が流れ着きました。

このとき, ポルトガル人から鉄砲(てっぽう)が日本に伝わりました。それまでの日本では鉄砲は知られておらず, 日本にとっては鉄砲は新しい兵器でした。

やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がり、大量に鉄砲が作られるようになりました。

鉄砲が日本に伝わってから少しあとのころ,キリスト教が日本に伝わりました。

 
ザビエル

1549年にはスペイン人の宣教師(せんきょうし)であるザビエルが日本の鹿児島(かごしま)に来て,キリスト教を伝えました。

そのあと,他の宣教師も,次々と日本にやってきました。

宣教師は,日本とヨーロッパとのあいだの貿易の世話もしたので,大名たち(特に西日本)の中にはキリスト教を保護する者もいました。

このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,九州(きゅうしゅう)長崎(ながさき)平戸(ひらど)や,大阪(おおさか)(さかい)の港などを(おとず)れて貿易をするようになりました。

天下統一へ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

  • 織田信長
  • 桶狭間の戦い
 
織田信長
 
1565年の領地の様子


戦国(せんごく)時代には各地に大名がおり,多くの大名どうしが争っていた。1560年以降(いこう)から,まず,尾張(おわり)(現在の愛知県の西部)の大名であった 織田信長(おだのぶなが)が勢力を拡大(かくだい)し始めました。

1560年に,愛知県にいる織田の領地に,となりの静岡県の今川義元(いまがわよしもと)がせめこみ、桶狭間(おけはざま)の戦い が起こりました。

この戦いで,今川義元を織田らの軍が()ち取り,今川義元は()くなりました。このため,今川軍は命令の系統(けいとう)がくずれてしまい,敗北しました。

桶狭間の戦い以降,信長は西へと勢力を拡大しました。1568年には,室町幕府(むろまちばくふ)足利(あしかが)氏の一族である足利義昭(あしかがよしあき)支援(しえん)して京都に入りました。義昭はのちに,室町幕府の15代将軍(しょうぐん)となりました。

1569年,信長は,キリスト教の宣教師(せんきょうし)と初めて出会い,かれにキリスト教の布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく,信長のねらいは宣教師のもたらす情報などがねらい,あるいは当時に信長と敵対(てきたい)していた仏教勢力への対策(たいさく)などと,いっぱんに言われています。


1571年には, 仏教勢力である延暦寺(えんりゃくじ)が織田を(うら)切ったことから、織田信長は,比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ) を焼き()ちにしました。


そして,1573年ごろ,室町幕府は ほろびました。



  • 長篠の戦い
 
長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。

1575年に三河(みかわ)(現在の愛知(あいち)県の東部)で、織田(おだ)徳川(とくがわ)同盟(どうめい)と,甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだかつより)らの戦争である 長篠(ながしの)の戦いが起きました。この戦いでは,織田・徳川の同盟が勝利し,武田は敗北しました。

  • 安土城(あづちじょう)

1576年,織田信長は近江(おうみ)(現在の滋賀(しが)県)にある小高い山の上に 安土城(あづちじょう) を築かせました。

安土城の城下町では,自由に商売をできるようにしたので,とてももうかりました。

また,安土の城下町には,キリスト教の学校や教会も建てられました。

安土城の城下町付近では、商業をさかんにするため,関所で通行税をとることを廃止(はいし)しました。

なお、このような政策を 楽市楽座(らくいちらくざ)といいます。

  • 本能寺の変
 
1582年の領地の様子

織田信長(おだのぶなが)を、家臣の 明智光秀(あけちみつひで)(うら)切り,明智の軍が信長におそいかかり,この本能寺で信長は死亡(しぼう)しました。

なお、この一連の事件を 本能寺の(へん) といいます。

信長は,天下統一をなしとげられませんでした。

信長は,天下統一をしていません。 天下統一ならず,信長は死亡します。


豊臣秀吉の台頭(たいとう)
 
豊臣秀吉。秀吉は,もともと農民でしたが,武士になりました。そして,信長に(みと)められ,信長の部下になりました。
 
大阪城

信長の死を聞いた豊臣秀吉(とよとみひでよし)は,ただちに毛利との停戦をし,そして京都・大阪に向かい,明智光秀(あけちみつひで)をたおしました。

その後も,秀吉にさからう大名をつぎつぎとたおし,支配をかためていきました。

このようにして,しだいに秀吉の地位は高まっていき,信長の領地を受けついでいきました。

1583年に秀吉は,大阪城を築かせ,そこを本拠地(ほんきょち)にしました。

そのあと,秀吉は各地の大名たちを平定して(したが)えていきました。

そして1590年には,秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)をせめ,北条氏政(ほうじょううじまさ)をほろぼしました。

1590年,秀吉に従っていなかった東北の伊達(だて)氏など東北の大名も,秀吉に従いました。こうして、秀吉が天下統一をなしとげました。

秀吉の政策
  • 検地(けんち)

農民からねんぐを取るための土地の調査を検地(けんち)といいます。

検地は信長の時代からも行われていたが,秀吉は各地でちがっていた長さや面積などの単位を全国で統一させました。

そして記録によって,田畑の面積や,田の収穫高(しゅうかくだか)である石高(こくだか),その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られました。

検地帳によって耕作者がはっきりしたので,農民は田畑を持つ権利(けんり)(みと)められましたが,同時にねんぐを(おさ)める義務を負うことになり,土地を勝手に はなれることができなくなりました。また,かつての荘園(しょうえん)のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなりました。

  • 刀狩(かたながり)

1588年に、豊臣秀吉は刀狩令(かたながりれい)という、農民から刀や鉄砲(てっぽう)などの武器を没収(ぼっしゅう)する命令を出しました。

表向きの理由は,京都(きょうと)方広寺(ほうこうじ)に大仏を作るので材料の鉄が必要であるためですが、秀吉の実際のねらいは,一揆(いっき)を防ぐためといわれています。

刀狩令(かたながりれい)
百姓(ひゃくしょう)が刀・やり・鉄砲などの武器をもつことを禁止する。ねんぐを出ししぶり,一揆をおこすものは,(きび)しくばっする。
とりあげた刀は,大仏をつくるためのくぎなどにするから,百姓は仏のめぐみで,この世だけでなく,あの世でも救われるだろう。
朝鮮出兵

日本を統一した秀吉は,つぎに,外国を征服(せいふく)しようとしました。そのため,中国を征服しようとしました。このための足がかりとして,まず朝鮮(ちょうせん)に通行の許可や協力などをもとめたが,朝鮮に断られたため,朝鮮との戦争になり,2度にわたって朝鮮に兵を送って戦争をしました。

この戦争を,朝鮮出兵 とか 朝鮮侵略(しんりゃく)といいます。

秀吉の朝鮮出兵は2度あります。

最終的に日本は朝鮮・明の連合軍に敗北しました。

1598年に日本国内で秀吉が病死し,日本軍は日本にひきあげ,朝鮮出兵は終わりました。


朝鮮出兵の結果
朝鮮出兵の結果として、
  • 日本の(しょ)大名などからの豊臣氏への信用が弱まり,のちに,豊臣氏がほろしていくきっかけの一つになる。
  • 朝鮮に大きな被害(ひがい)をあたえた。
  • 戦争でほろんだ明の力も弱まる。

などのことが起こりました。


徳川家康
 
徳川家康

1590年,秀吉の命令によって,家康の領地が関東に移され,江戸城(えどじょう)が家康の拠点(きょてん)となりました。家康が江戸に移る前は,三河(みかわ)(今でいう愛知県の東部)の大名でした。

豊臣秀吉が()くなると,徳川家康の勢力が強まりました。

  • 関ヶ原(せきがはら)の戦い
 
関ヶ原の戦い
絵の右側にいるのが徳川軍。絵の左側にいるのが豊臣軍。

1600年、関ヶ原(せきがはら)(今の岐阜県)で、徳川家康が率いる軍と,豊臣秀吉が率いる軍が戦いました。これを 関ヶ原の戦い といいます。結果は,徳川家康が率いる軍の勝利でした。

  • 江戸幕府(えどばくふ)
1603年,朝廷(ちょうてい)から徳川家康(とくがわいえやす)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) に任命されました。
家康は江戸(えど)(現在の東京)に幕府(ばくふ)を開きました。これが江戸幕府であり,この時から江戸時代が始まりました。江戸時代は260年ほど続きます。
  • 大阪城をせめる
1614年 家康により,豊臣(とよとみ)氏をほろぼすための戦争を始めました。

そして,この戦いに敗れた豊臣氏は,ほろぼされました。


  • 江戸の工事
 
江戸城

江戸のまちは,江戸幕府より前は,政治の中心地になったことがなかったので,やや不便でした。

そのため家康は,日本全国の大名に資金や人手を提供(ていきょう)させて,江戸の町を広げる工事をさせました。江戸城を広げる工事も行われました。



まとめ
信長・秀吉・家康
信長(のぶなが)秀吉(ひでよし)家康(いえやす)の時代
織田信長
 
豊臣秀吉
 
徳川家康
 
1534 尾張(おわり)(現在の愛知(あいち)県の西部)の大名の子として生まれる 1537 尾張に農民の子として生まれる 1542 三河(現在の愛知県の東部)の大名の子として生まれる
1560 今川(いまがわ)氏を破る
1562 家康と連合する 1562 信長と連合する
1573年 足利(あしかが)氏を京都(きょうと)から追い出す
(室町幕府をほろぼす)
1575 長篠(ながしの)の戦いで,信長と家康の連合軍が,武田の軍をたおす
1576 安土城(あづちじょう)を築く
1582 明智光秀(あけちみつひで)におそわれ,
信長は自害する(本能寺(ほんのうじ)の変)

1582 秀吉が光秀をたおす
1583 大阪城(おおさかじょう)を築く
1588 刀狩(かたながり)を命じる
1590 日本を統一する 1590 秀吉の命令で,関東に領地をうつす
1592 朝鮮(ちょうせん)をせめる
1597 ふたたび朝鮮をせめる
1598 病死する
1600 関ヶ原の戦いで勝つ
1603 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり,江戸幕府(えどばくふ)をひらく
1615 豊臣氏をほろぼす
1618 病死する

つぎのような句があります。

織田(おだ)がつき 羽柴(はしば)がこねし   天下もち
    すわりしままに  食うは徳川(とくがわ)

羽柴(はしば)」とは,豊臣秀吉のことです。秀吉は,「豊臣秀吉」と名乗る前には,「羽柴秀吉」と長く名乗っていました。

「織田」とは,織田信長のことです。

「徳川」とは,徳川家康のことです。

なぜ,このような歌で説明されるようになったのか,「ヒント」をもとに自分の言葉で説明してみましょう。

ヒント:織田は「もちをついて」、つまりもちをやわらかくしています。羽柴は「もちをこね」、つまり織田がついたもちをさらにやわらかくしています。そして徳川は「すわりしままに食う」、つまりもち作りに協力していないのに、優雅(ゆうが)にもちを食べています。

また、かれらの性格をあらわした,つぎのような句があります。

織田信長
 
豊臣秀吉
 
徳川家康
 
鳴かぬなら
 殺してしまえ
  ホトトギス
鳴かぬなら
 鳴かせてみせよう
  ホトトギス
鳴かぬなら
 鳴くまで待とう
  ホトトギス

織田信長は「逆らうものは排除(はいじょ)する」という姿勢(しせい)をとり、豊臣秀吉は「逆らうものは(したが)わせる」という姿勢をとり、徳川家康は「逆らうものは従うまで待つ」、つまりチャンスを(さぐ)るという姿勢をとっています。


当時の日本人がヨーロッパ人を南蛮人(なんばんじん)()んだので,日本によるヨーロッパとの貿易を南蛮貿易(なんばんぼうえき)といいます。

 
南蛮屏風(なんばんびょうぶ)(※ 一部分)
南蛮貿易のようすがかかれています。日本人がえがいたものです。