小学校社会/6学年/歴史編/下巻では、日本の歴史について、江戸(えど)時代以降(いこう)を学びましょう。なお、安土桃山(あづちももやま)時代までについての上巻(じょうかん)こちらです。

また、人物についてくわしく学ぶ「人物事典」はこちらです。政治や日本の世界へのかかわりについて学ぶ「政治・国際編」はこちらです。

幕府(ばくふ)による政治の安定

編集
江戸時代初期の政治

江戸(えど)時代のはじめごろ、江戸幕府(えどばくふ)は、日本全国の大名(だいみょう)を、徳川家の親類である親藩(しんぱん)・古くから徳川家に(したが)っていた譜代(ふだい)・関ヶ原の戦いのころから従った外様(とざま)の3つに分け、それぞれ都合のよい地域(ちいき)に配置しました。江戸時代に大名の支配する領地のことを (はん) といいます。


親藩や譜代は、重要な地域や江戸の近くなどに配置されました。一方で、外様は、江戸から遠いところなどに配置されました。

江戸幕府での「大名」とは、領地の米の収穫(しゅうかく)量が一定以上の武士のことです。

また、江戸・大阪・長崎などの地域(ちいき)は、幕府が直接治めました。幕府の直接おさめた地域は、日本全国の4分の1ほどにわたります。

  • 武家諸法度(ぶけしょはっと)

1615年, 江戸幕府の2代将軍(しょうぐん)である徳川秀忠(とくがわひでただ)によって, 大名を取りしまるための法律(ほうりつ)が作られました。これを 武家諸法度(ぶけしょはっと) といいます。この法度に違反(いはん)すると、領地の没収(ぼっしゅう)・領地の変更(へんこう)などの(きび)しい処分(しょぶん)がされました。

以降(いこう)、将軍が交代するごとに修正されました。

  • 武家諸法度
    • 一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら専念(せんねん)すること。
    • 一. 新しく城を築くことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。
    • 一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に参勤(さんきん)すること(参勤交代)。 (※)
    • 一. 大きな船を作ってはならない。(※)
    • 一. 大名は、幕府の許可なしに勝手に結婚(けっこん)をしてはならない。

(※)は3代将軍 徳川家光が加えたものです。

こうして、幕府(ばくふ)に逆らうことは(むずか)しくなりました。

  • 参勤交代(さんきんこうたい)
 
徳川家光
 
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)(栃木県)。
家光によって建てられた、徳川家康(とくがわいえやす)をまつっている神社です。世界文化遺産(いさん)および国宝(こくほう)です。

1635年、3代将軍(しょうぐん)徳川家光(とくがわいえみつ)は、武家諸法度(ぶけしょはっと)に大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせるという 参勤交代(さんきんこうたい) という決まりを付け加えました。

また、大名の妻子は、江戸に人質(ひとじち)として住まわせられました。

大勢の家来を江戸と領地に往復させるので、大名に多くの費用がかかり、大名の経済(けいざい)力を弱められました。

参勤交代のときの大名の一行は長い行列ができるので、これを 大名行列 といいます。

 
園部(そのべ)藩(現在の京都府(きょうとふ))参勤交代行列図 (1) (南丹(なんたん)市文化博物館(ぞう))
 
園部藩参勤交代行列図 (2) (南丹市文化博物館蔵)
 
園部藩参勤交代行列図 (3) (南丹市文化博物館蔵)

参勤交代によって、道路や宿場町(しゅくばまち)も整備されていきました。

関所(せきしょ)
  • 関所(せきしょ)
 
関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。

警備(けいび)上の理由から、街道には、通行を制限する 関所(せきしょ)がおかれました。関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形を見せる必要がありました。

関所では、とくに江戸に入る鉄砲(てっぽう)出女(でおんな)は、(きび)しく調べられました。鉄砲は反乱(はんらん)をおそれたためです。「出女」は、参勤交代で人質(ひとじち)として江戸に住まわせた女(妻)のことで、こっそりと帰国することをおそれたためです。

徳川家光は、「生まれながらの将軍(しょうぐん)」と言われており、つぎのような話が残っています。

家光は、諸国(しょこく)の大名を江戸城(えどじょう)に集め、

「わたしの祖父の家康(いえやす)や父の秀忠(ひでただ)は、もともとは、お前たちと同じ大名で、ともに戦った仲間だったから、お前たちへのえんりょがあった。だが、私は、生まれながらの将軍だ。だから、お前たちを家来として、あつかう。これに不満のある者は、領地に帰って戦いの準備をするがよい。戦いの相手をしてやろう。」

宣言(せんげん)をしました。

キリスト教の禁止と貿易
鎖国(さこく)への歩み
おもなできごと
1613  幕府がキリスト教の禁止令を出す
1616  外国船との貿易を長崎(ながさき)平戸(ひらど)に制限する
1624  スペイン人の来日を禁止する
1635  日本人の海外渡航(とこう)の禁止,海外にいる日本人の帰国の禁止
1637  島原(しまばら)天草一揆(あまくさいっき)(島原の(らん))が起きる
1639  ポルトガル船の来航を禁止する
1641  平戸にあったオランダ人の商館を、長崎の出島(でじま)に移す
(鎖国(さこく)の完成)

徳川家康は、はじめ、外国との貿易を許可していました。

そのため、貿易船の多くは、東南アジアまで出かけることも、多くありました。

しかし、幕府(ばくふ)はキリスト教の信者が団結して幕府に逆らうことをおそれて、幕府はキリスト教を信じることを禁止しました。


 
キリストの踏み絵

さらに、3代将軍(しょうぐん)徳川家光(とくがわいえみつ)のころに、日本人が海外に行くことや、外国にいる日本人が日本に帰国することを禁止しました。

このころ、現在の長崎県にある島原(しまばら)半島や現在の熊本県にある天草島(あまくさじま)で、キリスト教の信者の農民3万人あまりによる、大きな一揆(いっき)が起きました。

この島原・天草の一揆の目的は、キリスト教の禁止によるキリシタンへの弾圧(だんあつ)および領主による重いねんぐなどへの反乱(はんらん)でした。

反乱軍の中心人物は、当時16才という(わか)さだった 天草四郎(あまくさしろう)という少年です。

幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。

これを 島原(しまばら)天草一揆(あまくさいっき) または 島原の(らん) といいます。


この戦いのあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう(きび)しくなりました。

キリスト教を発見するためには、()み絵を用いた絵踏みが行われました。

踏み絵による絵踏み

この時代、キリスト教は禁止されていましたが、かくれてキリスト教を信じる人たちがいました。このような人を取りしまるため、幕府(ばくふ)は人々にキリスト教の神であるイエス・キリストがえがかれた銅板の踏み絵を踏ませるという 絵踏み をさせて、踏めなかった者はキリスト教徒であるとして処罰(しょばつ)しました。

 
出島の鳥かん図(空から見た図)。

そして江戸幕府(えどばくふ)は、貿易の相手を、キリスト教を広めないオランダと中国だけにかぎり、長崎で貿易を行うことにしました。

長崎には、オランダとの貿易のために出島(でじま)という人工の島がつくられました。

オランダとの貿易は、この出島の中のみで行われました。また、オランダ人は、この出島にしか住めませんでした。

幕府は、出島に入れる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人のみに制限していました。

このような、江戸幕府による、外国人と日本人との交流を減らす政策(せいさく)鎖国(さこく) といいます。

江戸幕府は長崎のオランダ商館長(しょうかんちょう)に、外国のようすを幕府に報告させるための報告書の提出を義務づけました。

このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、日本では、江戸幕府が貿易の利益と西洋についての情報を独占(どくせん)しました。

発展(はってん):オランダとの貿易

オランダとの貿易での輸入品のほとんどは、生糸(きいと)砂糖(さとう)・毛織物でした。ときどき、ガラスや望遠鏡や時計などの、めずらしいものも輸入されました。

日本からの輸出品は、金・銀・銅などの金属や陶磁器(とうじき)などでした。

江戸時代の北海道と沖縄
  • 北海道(ほっかいどう)

江戸(えど)時代、北海道(ほっかいどう)は「えぞ」とよばれており、アイヌ民族と()ばれる民族も住んでいました。

アイヌは、現在の北海道の南部にある 松前藩(まつまえはん)と貿易をさせられており、アイヌのサケやコンブを、わずかな米などと交換(こうかん)していたといいます。

このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、17世紀の中ごろ、シャクシャインという人物を中心に反乱(はんらん)を起こしました。


  • 琉球(りゅうきゅう)王国

江戸時代、いまの沖縄(おきなわ)県は「琉球(りゅうきゅう)」という王国でした。

江戸時代の初めごろ、琉球王国は薩摩藩(さつまはん)(現在の鹿児島(かごしま)県の西部)によって支配されていました。そして、薩摩藩によって、琉球は年貢(ねんぐ)を取られるようになりました。

薩摩藩は、以前から琉球が行っていた中国との貿易を続けさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。


身分による支配

江戸(えど)時代より前に、刀狩(かたながり)などによって農民や武士とのあいだの身分の区別が決まっていきました。江戸幕府(えどばくふ)も、身分の区別を受けつぎました。

武士は、城のまわりに住んで、役人として仕事をすることがふつうでした。

江戸時代は、武士の身分が最も高くなっており、続いて農民・職人・商人となっていました。

 
江戸時代の身分別の人口割合(わりあい)
なお、「公家(くげ)」とは、朝廷の関係者のこと。

農民の身分が2番目に高いとされました。

江戸時代、農民は毎年米などの年貢(ねんぐ)を取られていました。

農民や漁民をまとめて、百姓(ひゃくしょう)といいます。

いっぽう、職人や商人など、町人の多くは城下町などの都市に住んでいました。

このような、職人や商人のことを、町民といいます。

町民は、年貢のかわりに、町づくりのための費用などを(おさ)める必要がありました。

これらとはべつに、条件のわるい土地にすまわされたり、祭りへの参加を禁じられるなど、身分上(きび)しく差別をされた人々がいました。

江戸時代の日本の人口における武士の割合(わりあい)は人口の7%ほどです。なお江戸時代の人口の数は 約3000万人 です。

江戸時代の日本の農民の人口の割合は、人口の約84%です。

また、職業を勝手に変えることは、許されませんでした。

また、女性の地位は、男性よりも低いとされていました。

  • 農民への おふれ書き

農民のくらしは、ぜいたくをしないように、(きび)しく管理されました。

 農民への おふれ書き

  • 一. 朝は早起きをして草をかり、昼には田畑の耕作をして、夜には縄をつくって(たわら)を編むなど、それぞれの仕事をしっかりと行うこと。
  • 一. 幕府の法令をおこたったり、地頭や代官のことをそまつに考えず、また名主(村長)や組頭のことは真の親のように思って尊敬(そんけい)すること。
  • 一. 酒や茶を買って飲まないこと。
  • 一. 農民は麦・ひえ・あわ などの雑穀(ざっこく)などを食べ、なるべく米を食べないこと。
  • 一. 農民の服は、(あさ)木綿(もめん)のみとし、ほかの服は着てはいけない。裏地(うらじ)にも他の布を使ってはならない。
  • 一. タバコを()わないこと。
  • 五人組(ごにんぐみ)

ほかにも、5~6けんの農民ごとに 五人組(ごにんぐみ) をつくらせ、ねんぐや犯罪などに、共同で責任を負わせました。

新しい文化と学問

編集
産業
  • 農業

幕府(ばくふ)(はん)は、新田(しんでん)の開発に力を入れました。その結果、開こんが進み、田畑の耕地面積は大きく広がりました。

幕府や藩の財政は農民からのねんぐにたよっており、財政を豊かにするために農業を発達させる必要がありました。

江戸(えど)時代は貨幣(かへい)が全国的に流通していたので、武士はねんぐの米を売って貨幣に現金化していました。

ねんぐの米は江戸や大阪(おおさか)にある 蔵屋敷(くらやしき) に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されました。

全国各地の海産物や、各地の特産物も、ほとんどは大阪にあつめられました。

そして、大阪から、集められた産物が全国各地に売り飛ばされました。

  • 肥料

なたね油やごま油の しぼりかす が、肥料として使われました。

「ほしか」と()ばれる、イワシを乾燥(かんそう)させて固めた肥料が使われていました。


  • 商品作物

農民が売ることを目的に、綿・なたね・茶・(あさ)・あい・しょうゆ などの商品作物が作られるようになりました。 農村でも貨幣(かへい)が使われるようになっていきました。

教育・学問
  • 儒学(じゅがく)

徳川家康(とくがわいえやす)をはじめとして幕府(ばくふ)は、幕府を保ちつづけるには儒学(じゅがく)()ばれる道徳的な学問が必要だと考え、武士に儒学を学ばせました。

  • 教育
 
寺子屋のようす。

農民や町民などの庶民(しょみん)は、寺子屋(てらこや)で文字の読み書きやそろばんなどを学びました。

当時の外国では、文字の読み書きのできる庶民は少なく、世界各国の中でも、日本は識字率(しきじりつ)(文字を読める人の割合(わりあい))が高い国でした。

  • 儒学以外の学問

ヨーロッパの学問は、危険(きけん)な学問だと考えられており、禁止されていました。

一方、日本の古典や歴史を学ぶことは(みと)められていました。そのため、万葉集(まんようしゅう)などの古典や、古事記(こじき)日本書紀(にほんしょき)などの歴史書について学んだり、研究したりする者も現れました。


  • 蘭学(らんがく)

ヨーロッパの医学や農学や科学技術など、キリスト教や政治道徳以外のヨーロッパの学問を学ぶことは、18世紀の初めごろ、8代将軍(しょうぐん)である徳川吉宗(とくがわよしむね)改革(かいかく)などにより、(みと)められました。

当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを 蘭学(らんがく) といいました。「蘭」とはオランダのことです。

  • 医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳(ほんやく)
 
『解体新書』。とびら絵は『ターヘル・アナトミア』のとびら絵とはまったく(こと)なっている。
 
『ターヘル・アナトミア』(複製)。

18世紀のおわりごろ、医者の 杉田玄白(すぎたげんぱく) と、前野良沢(まえのりょうたく) の二人がかりである。オランダの医学書が日本語へと翻訳(ほんやく)されて出版されました。

杉田たちは、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を見て、人体の内蔵(ないぞう)解剖(かいぼう)図が、とても正確であることにおどろき、翻訳を決意しました。

 
杉田玄白

これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書となりました。

その当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書はなかったため、非常に時間がかかり、この医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのにまる1日かかったといいます。翻訳が終わるまでには4年ほどがかかりました。

また、杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを『蘭学事始(らんがくことはじめ)』に記しました。


  • 国学(こくがく)

江戸時代の半ばごろから、国学(こくがく)()ばれる、儒教(じゅぎょう)や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきました。

 
本居宣長

本居宣長(もとおりのりなが)は、『古事記(こじき)』の研究を行い、『古事記(でん)』を記しました。

 
伊能忠敬がえがかれた切手
  • 測量
 
江戸時代の測量のようす

伊能忠敬(いのうただたか)は、日本全国を地図をつくるために測量する旅を通して、正確な日本地図である『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』を作りました。

伊能忠敬

伊能忠敬は、50才のときに、天文学や測量のための勉強をはじめました。そして、55才のときに、自費で北海道の南岸の測量を行いました。56才のとき、地図づくりのための測量を、幕府(ばくふ)に願いでました。幕府は、忠敬の地図づくりの才能を(みと)め、忠敬に地図づくりの許可を出しました。

それから17年間、忠敬は、地図づくりのため、日本の全国各地を歩きました。忠敬が歩いたきょりは3万km以上になります。

地図の完成の前に、71才で忠敬は()くなりましたが、弟子たちが、日本全国の地図を完成させました。

そして、忠敬の弟子たちにより、とても正確な日本地図が、できあがりました。

江戸時代の文化
  • 絵画
 
『見返り美人図』菱川師宣

絵画では、えがかれる対象が町人や女性などのようすになり、それらの絵を版画を利用して印刷する 浮世絵(うきよえ) が、画家の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって広まりました。浮世絵は、何度も印刷できたため、安く売られ、町人も簡単に入手できました。

また、風景画では歌川広重(うたがわひろしげ)葛飾北斎(かつしかほくさい)などの人物が活やくしました。

浮世絵は、貿易をとおして外国にも紹介され、ゴッホなどの西洋の画家にもえいきょうをあたえました。


  • 人形浄瑠璃

三味線(しゃみせん)などを伴奏(ばんそう)にしてリズミカルに節をつけて、(あやつ)り人形をうごかしながら物語を語るという人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)が流行しました。

 
近松門左衛門

人形浄瑠璃の脚本(きゃくほん)家である 近松門左衛門(ちかまつもんざえもん) が活やくしました。近松の作品には、『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』や『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』など, 実際の歴史上の事件などをえがいた作品があります。

ほかにも、江戸時代にはすもう、花火、川柳(せんりゅう)(季語の入っていない俳句(はいく))が流行しました。

明治の国づくり

編集
  • ペリーの来航と開国
 
黒船来航
 
ペリー
 
日本の浮世絵(うきよえ)にえがかれたペリー。

1853年にアメリカ合衆国の軍艦(ぐんかん)が今の神奈川(かながわ)県の浦賀(うらが)にあらわれアメリカ人の ペリー 日本の開国を求めるアメリカ大統領からの国書を幕府(ばくふ)にわたしました。

このようなアメリカの船と、ペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。そこでペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、1年後にもう一度日本に来てもらうようにたのみました。


幕府は、事態を重くみて、朝廷(ちょうてい)にも報告をして、諸国(しょこく)の大名にも相談をしました。


いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、日本で燃料や水の補給(ほきゅう)を行うために立ち寄ることができるようにすることでした。

そして1年後の1854年に、ペリーが再び日本に現れました。1854年の交渉では、幕府はアメリカの開国要求を断りきれず、ついに日本は開国をしました。 日本とアメリカとの間で 日米和親条約(にちべいわしんじょうやく) が結ばれました。この日米和親条約により、今の静岡(しずおか)県にあるの下田と今の北海道(ほっかいどう)にある函館(はこだて)が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。また、下田にアメリカの領事館がおかれました。


 
井伊直弼

さらに1858年に、幕府(ばくふ)大老(たいろう)であった 井伊直弼(いいなおすけ) はアメリカと 日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく) を結びました。しかし、この条約は朝廷(ちょうてい)}の許可をとらないまま結ばれた条約でした。また幕府は、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の条約を結びました。

  • 不平等条約

日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。

  • 日本に関税自主権がない

日本への輸入品に税をかける権利(けんり)が日本にはありませんでした。輸入品にかける税を 関税(かんぜい)といい、国が関税を自由に決められる権利を 関税自主権(かんぜいじしゅけん) といいます。日本には、関税自主権がありませんでした。

  • アメリカ人の領事裁判権(りょうじさいばんけん)(治外法権(ちがいほうけん))がある。

日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の法律(ほうりつ)では処罰(しょばつ)できませんでした。アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを 領事裁判権(りょうじさいばんけん) または 治外法権(ちがいほうけん) といいます。

  • 開国による経済(けいざい)の変化

輸出品として、生糸(きいと)や茶が輸出されたので、それらの産業が発展(はってん)しました。国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出しすぎたり、買いしめなどが起こったりしたからです。貿易をしていない米や麦の値段(ねだん)も上がりました。貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府(ばくふ)は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。

このような品不足や物価の上昇(じょうしょう)などにより、庶民(しょみん)のくらしは苦しくなっていったため 一揆(いっき) や 打ちこわし が起きました。

庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきました。

また、日本の世間から、欧米の国をやっつけようとする考えが出始めました。このような考え方を攘夷(じょうい)といいます。

攘夷(ろん)だけでなく、朝廷(ちょうてい)天皇(てんのう)()り上げて(うやま)おうという考え方が出てきました。

のちに、これらの考え方は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への批判(ひはん)にかわり、やがて幕府をたおそうという運動へと変わっていきました。


  • 幕末(ばくまつ)の武士たち


  • 生麦(なまむぎ)事件・薩英(さつえい)戦争

1862年に神奈川(かながわ)県の生麦(なまむぎ)で、薩摩藩(さつまはん)(現在の鹿児島(かごしま)県の西部)の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が殺害するという 生麦事件 が起こりました。イギリスからの犯人の処罰(しょばつ)要求を薩摩藩が受け入れなかったので、翌年(よくとし)の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これを 薩英(さつえい)戦争 といいます。この戦争で薩摩は敗北し、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知ることになりました。

戦後、薩摩では政治の方針(ほうしん)を切りかえ、イギリスなどから制度を学び、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。


  • 発展(はってん)長州藩(ちょうしゅうはん)下関(しものせき)戦争    
 
欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台
1863年に、今の山口(やまぐち)県にある下関海峡(しものせきかいきょう)を通る外国船に、長州藩(ちょうしゅうはん)が、いきなり砲撃(ほうげき)を始めました。翌年、外国の連合艦隊(かんたい)、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国からなる連合軍により反撃(はんげき)を受け、下関の砲台を占拠(せんきょ)され、長州は負けました。

長州藩は、下級武士であった高杉晋作(たかすぎしんさく)木戸孝允(きどたかよし)伊藤博文(いとうひろぶみ)らが、イギリスの援助(えんじょ)も受けて、彼らが改革(かいかく)の中心となっていきました。

このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動は(あやま)りだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府をたおす必要があるという気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。


  • 薩長同盟(さっちょうどうめい)
 
坂本竜馬(さかもとりょうま)

薩摩(さつま)長州(ちょうしゅう)は、過去の歴史的な関係から、対立していました。 1866年に、土佐藩(とさはん)(今の高知(こうち)県)の 坂本竜馬(さかもとりょうま)(「竜」という漢字ではなく「龍」を使うこともあります) が両藩の仲立ちをして薩長同盟(さっちょうどうめい)を結ばせました。

幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府が敗北しました。

イギリスが薩摩や長州の支援(しえん)をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革(かいかく)をしました。

  • 大政奉還(たいせいほうかん)
 
徳川慶喜

江戸幕府(えどばくふ)の15代将軍(しょうぐん)であった 徳川慶喜(とくがわよしのぶ) は、1867年に政権(せいけん)朝廷(ちょうてい)にかえしました。

これを 大政奉還(たいせいほうかん) といいます。

こうして、約260年続いた江戸幕府の時代は終わりました。

また、鎌倉(かまくら)時代から約700年間つづいた武士の支配は、こうして終わりました。

明治(めいじ)時代
  • 明治維新(めいじいしん)と自由民権(みんけん)運動

~西洋に学べ~

1868年、新政府は元号を「明治(めいじ)」と改め、新政府は「江戸(えど)」の地名を「東京(とうきょう)」と改めました。1869年に、新政府は京都(きょうと)から東京(とうきょう)(みやこ)(首都)を移しました。この年号が明治の時代を 明治時代 といいます。

新政府は武士などに対して政治の方針(ほうしん)をしめすため、五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん) を出しました。

五箇条の御誓文(現代語(やく))
  • 政治は、会議で広く意見を聞いて行おう。
  • 身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていこう。
  • みんなの願いを実現しよう。
  • 古い、よくないしきたりはやめよう。
  • 知識を外国からも学び、日本を発展(はってん)させていこう。

1871年には、明治政府は、(はん)廃止(はいし)し、かわりに県や府をおきました。そして、それらの県や府の地方政治では、政府の任命した役人を知事(ちじ)として送りました。これを 廃藩置県(はいはんちけん)といいます。

このような、幕末(ばくまつ)から明治時代のはじめごろに行われた一連の改革(かいかく)明治維新(めいじいしん)といいます。

1871年、江戸(えど)時代の身分制度はなくなり、農民や町民・差別を受けていた人は「平民」となり、身分上は解放されました(四民平等(しみんびょうどう))。 平民は、江戸(えど)時代とはちがい、職業や住む場所を変えられるようになりました。名字を、平民も持てるようになりました。

武士は士族(しぞく)と変わりました。士族は、刀を差すことを禁じられるなど、江戸時代のころの特権(とっけん)を失いました。また、公家と大名は華族(かぞく)となりました。そして、天皇(てんのう)の一族は、「皇族(こうぞく)」となりました。

岩倉具視(いわくらともみ)らの視察団
 
使節団の人々
左から木戸孝允(きどたかよし)山口尚芳(やまぐちなおよし)、岩倉具視、伊藤博文(いとうひろぶみ)大久保利通(おおくぼとしみち)

1871年に、明治政府は、欧米諸国(おうべいしょこく)の政治や産業のしくみや産業のしくみを勉強するために、岩倉具視(いわくらともみ)など50人の日本人による使節団を欧米諸国に送りました。

帰国後、使節団にいた人たちは、欧米の政治の知識など、国づくりの知識を、日本に持ちかえりました。

また、この使節団といっしょに、60人の留学生も同行して、欧米のようすを学びました。

 
同行した女子留学生

この留学生のなかには、女子留学生も5人いました。その中には、津田梅子(つだうめこ)という当時6才の少女もいました。

女子留学生は帰国後、女子のための学校をつくるなど、女子のための教育の分野で活やくしました。


  • 富国強兵(ふこくきょうへい)

明治時代の日本では、日本を強い軍隊を持った国にしようという動きが高まりました。これを富国強兵(ふこくきょうへい)といいます。

  • 軍制の改革(かいかく)

政府は、欧米(おうべい)の軍制にならった改革(かいかく)として、1873年に 徴兵令(ちょうへいれい) を出し、ほぼすべての満20才以上の男子に、身分に関係なく3年間兵役(へいえき)の義務を課しました。

  • 地租(ちそ)

江戸時代の税は米などの農産物などであり、農作物のできなどによって税の収入(しゅうにゅう)が増減するので、政府にとっては不安定な制度だったため、政府は税の制度をあらため、土地をもつことにかかる税金がかかるようにしました。豊作でも不作でも同じ金額を(おさ)めるため、農民にとっては大変なものとなりました。

これを「地租(ちそ)」といいます。


義務教育
 
学校に通った子どもの割合(わりあい)(※「1973年」は「1873年」の(あやま)りです)

1872年に、日本全国の子どもに義務教育を受けさせるため、欧米(おうべい)の制度を参考に6才以上の男女に義務教育を受けさせるという学制(がくせい)発布(はっぷ)しました。

しかし、学校の建設費や授業料の負担(ふたん)が大きく、また当時の子供は働き手であったので労働力をうばわれることから反発がありました。

このような理由で就学率(しゅうがくりつ)(学校に通った者の割合(わりあい))は低く、実際に学校に通った者は、一部でした。

さて、明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%になりました。


  • 福沢諭吉
 
福沢諭吉(ふくざわゆきち)

西洋の学問を学ぶ熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れました。

福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、下級武士の家の生まれだったが、蘭学(らんがく)を学んでいました。かれは西洋の知識が深かったので、明治政府の使節団に参加させてもらい、ますます西洋の知識を深めました。

かれは『学問のすすめ』を書きました。その冒頭(ぼうとう)には

「天は 人の上に 人を造らず 人の下に 人を造らず と いへり」

という文があり、 人は生まれながらにして平等であるという考え方を紹介(しょうかい)しました。

文明開化(ぶんめいかいか)
文明開化
おもなできごと
1869(明治2)  東京(とうきょう)横浜(よこはま)間に電信が開通する
1870  人力車が使われ始める
 日刊新聞の創刊(そうかん)
1871  制度が始まる
1872  新橋(しんばし)~横浜間に鉄道が開通
 ガス灯がつく(横浜)
1874  銀座(ぎんざ)がレンガ街になる
1890  東京~横浜間に電話が開通する

明治のはじめごろ、江戸時代ごろのちょんまげではなく、ざんぎり頭が流行し,「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化(ぶんめいかいか)の音がする」などと、ちまたで言われていました。

東京(とうきょう)横浜(よこはま)大阪(おおさか)などの大きな町には、ガス灯がつきはじめました。江戸時代には仏教の関係で禁止されていた牛肉やぶた肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきました。 また、牛乳(ぎゅうにゅう)やパンなども、しだいに食べるようになった。


  • 郵便(ゆうびん)

1871年に郵便(ゆうびん)制度ができました。数年後には、全国一律(いちりつ)の料金制度ができました。


  • 鉄道

1872年には、新橋(しんばし)横浜(よこはま)間に、日本で最初の鉄道が開通しました。


  • 新聞の発行

印刷の技術は幕末(ばくまつ)のころより輸入されていましたが、明治になって、出版活動がさかんになりました。

1870年には、日本で最初の日刊の新聞が発行されました。そのあと、次々と新しい新聞が発行されていきました。

  • 官営工場
 
当時の富岡製糸場

工業の近代化も必要だったため、政府が経営する 官営(かんえい)工場 を建てました。機械は外国から買いました。また、工場労働者を育成する技師は、外国から招きました。

中でも、群馬(ぐんま)県の富岡製糸場(とみおかせいしじょう)では、フランスから技師を招きました。また、働き手には、全国から女性が集められました。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させていきました。なお、富岡製糸場は 2014(平成(へいせい)26)年に世界遺産(いさん)に登録されました。なお、このように工場などを建設し、西洋の技術などを取り入れていった動きを 殖産興業(しょくさんこうぎょう) といいます。


西南戦争

西郷隆盛(さいごうたかもり)は、もとは新政府の中心的な人物のひとりでしたが、政治の進め方に不満を持ち、新政府を去りました。

1874年ごろから九州の各地で、士族による反乱(はんらん)が起きました。

 
西南戦争のようす。左が官軍、右が西郷軍。

ほかにも、反乱がおき、不満を持った士族たちの指導者として、西郷隆盛が(かつ)ぎ出されました。西郷も、その不平を持った士族とともに、1877年、鹿児島で反乱を起こしました。これを 西南(せいなん)戦争 といいます。

しかし、政府軍が勝利したため、それ以降(いこう)、士族の反乱はなくなりました。

  • 国会を開く運動
 
板垣退助の演説と、それをとりしまる警官(けいかん)
 
板垣退助

いっぽう、政治のすすめかたをめぐって政府を去った 板垣退助(いたがきたいすけ) は、西南戦争の前から、言論(げんろん)活動によって、政府を批判(ひはん)しました。

1874年に、板垣は、政府に対して、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう国会を、すぐに設立するように求めました。

当時の日本の政治には、まだ選挙制度がなかったので、薩摩藩(さつまはん)長州(ちょうしゅう)藩の出身者など影響(えいきょう)力のあった藩の出身者たちのみで行われていました。少数の政治家によって政治が決まっていたのです。

この国会設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を 自由民権(みんけん)運動 いいます。

自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動でしたが、しだいに農民や商工業者などにも支持されていきました。

しかし、1881年には、まだ、国会をひらくために必要になる、憲法(けんぽう)法律(ほうりつ)がありませんでした。

このような理由もあり、政府は、すぐには国会を開かず、10年以内に国会を開くことを国民に約束しました。

 
大隈重信

国会が開かれるのにそなえて、板垣退助は自由(とう)を、大隈重信(おおくましげのぶ)立憲改進党(りっけんかいしんとう)を作りました。

 
伊藤博文

明治政府は、伊藤博文(いとうひろぶみ)らをヨーロッパに送り、ヨーロッパ各国の憲法や政治のしくみを調べさせました。

そして、伊藤は、日本に帰国してから、皇帝(こうてい)権力(けんりょく)が強いドイツの憲法(けんぽう)を手本にして、新しい憲法の案をつくりました。

そして1889年、明治天皇(めいじてんのう)が国民にあたえるという形で 大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)発布(はっぷ)されました。

 大日本帝国憲法の主な内容 (現代語(やく))

  • 第1条 大日本帝国は、永久に続く同じ家系(かけい)天皇(ほうりつ)が治める。
  • 第3条 天皇は神のように(とうと)い。
  • 第5条 天皇は議会の協力で法律(ほうりつ)をつくる。
  • 第11条 天皇が陸海軍を統率(とうそつ)する。
  • 第29条 国民は、法律の範囲(はんい)内で、言論(げんろん)・集会および結社の自由をもつ。
  • 議会

憲法発布の翌年(よくとし)1890年には、国会での議員を選ぶための選挙が行われ、国会である 帝国(ていこく)議会 が開かれました。

帝国議会は 衆議院(しゅうぎいん)貴族院(きぞくいん) の2つの議院からなっていましたが、選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみでした。一方、貴族院の議員は、皇族(こうぞく)華族(かぞく)などの有力者から天皇が任命していました。

1890年の衆議院議員選挙の選挙(けん)は、税金を一定以上(おさ)めた25才以上の男子にのみあたえられ、有権者(ゆうけんしゃ)は国民の約1.1%となっていました。


このようにして、日本は、アジアで初めて、憲法にもとづいて議会政治を行う近代国家となった。

日清(にっしん)戦争
  • 日清(にっしん)戦争について
 
日清戦争のころの風刺(ふうし)画 「魚()り遊び」」
魚(=朝鮮(ちょうせん)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア

1894年、朝鮮(ちょうせん)半島で、朝鮮国内の改革(かいかく)をもとめる内乱(ないらん)が起きました。

中国((しん))が、朝鮮国のもとめに応じて援軍(えんぐん)をおくると、日本もこれに対抗(たいこう)して、軍隊を送りました。

そして、日本軍と中国軍との戦争が起こりました。これを 日清(にっしん)戦争 といいます。

 
リャオトン半島の位置
 
下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権

1895年、日清戦争の講和条約として、次のことが決定されました。

  • 中国((しん))は、朝鮮(ちょうせん)の独立を(みと)めること。
  • リャオトン(遼東(りょうとう)半島を日本にゆずる。
  • 台湾(たいわん)を日本にゆずる。
  • 中国は、賠償(ばいしょう)金として3億円をはらう。なお、これは当時の日本の財政収入(しゅうにゅう)の約3倍の金額であった。


朝鮮が独立国となったことにより、朝鮮が中国の属国でなくなったので、1897年に、朝鮮は国名を「大韓帝国(だいかんていこく)」と改めました。


  • 三国干渉(さんごくかんしょう)

ロシアは、日本の勢力が中国に拡大(かくだい)することで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。 ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本にリャオトン半島を中国に返還(へんかん)するように要求しました。 日本は、三国干渉の要求に(したが)い、中国にリャオトン半島を返還しました。

日露(にちろ)戦争
  • 日露(にちろ)戦争
  • 日英同盟(にちえいどうめい)

(発展(はってん):)義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にい続けました。

そして、ロシアは冬でも凍らない港が、軍事上の理由で必要だったため、朝鮮(ちょうせん)半島や中国に勢力を拡大(かくだい)することを目指しました。

いっぽう、中国に利権(りけん)を持つイギリスにとっては、この政策(せいさく)が不都合でした。

さらに当時のロシアは、ロシア国内で東西に長いシベリア鉄道を建設していました。もしシベリア鉄道が完成すると、軍隊の兵士や軍事物資も、すばやく送れるようになるので、イギリスにとっては、ロシアはとても危険(きけん)な国でした。

そこでイギリスは、この政策に対抗(たいこう)するため、1902年に日本とイギリスとの間で 日英同盟(にちえいどうめい) を結びました。

ロシアの勢力の拡大をおそれ、日本の政府は戦争を決意しました。一方、ロシアの政府も、大国であるロシアとすれば小国にすぎない日本をおそれる必要はないので、日本との戦争もかまわないという強硬(きょうこう)姿勢(しせい)を強めていきました。

  • 日露(にちろ)戦争

1904年、日本は日露(にちろ)戦争の開戦にふみきりました。陸地での戦争では、日本は苦戦の末、ロシアに勝利しました。

 
ロシア艦隊は日本海南西部で撃破された。

日本海海戦では、海軍の 東郷平八郎(とうごうへいはちろう)率いる連合艦隊(かんたい)が、ロシアの艦隊をやぶりました。

しかし、日本は大きく戦力を消耗(しょうもう)しており、軍事費を使いきっていたため、戦争の続行が(むずか)しくなりました。

いっぽうのロシアでも政府に反対する革命(かくめい)の動きが起き始め、ロシア政府も戦争の続行が難しくなりました。

そこで日本は状況(じょうきょう)が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカに仲立ちをしてもらって、アメリカのポーツマスで日本とロシアは講和条約をむすんだことで、日露戦争が終わりました。

  • 講和条約
 
小村寿太郎

アメリカ大統領であるルーズベルト(ローズベルト)が仲立ちとなり、日本の代表は外務大臣の 小村寿太郎(こむらじゅたろう) で、ロシアの代表はヴィッテでした。


1895年、日露戦争の講和条約として、次のことが決定されました。

  • 日本の朝鮮での優越権(ゆうえつけん)(みと)めること。
  • 日本に南満州の鉄道の権利(けんり)をゆずりわたすこと。
  • 日本は、ロシアから樺太(からふと)の南半分の領土をゆずり受けること。
  • 日本は、リャオトン半島の一部の権利を得ること。

日本は講和を急いだため、賠償(ばいしょう)金をとりませんでした。このことが国民の反発を()び、東京(とうきょう)日比谷(ひびや)では焼き()ち事件が起きました。国民からすれば、戦争で多くの負担(ふたん)をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。

日露戦争前、開戦を多くの国民が支持しましたが、開戦に反対する意見もありました。

 
与謝野晶子(よさの あきこ)

歌人の 与謝野晶子(よさのあきこ)は、「君死にたまふ((もう))ことなかれ」という、戦場にいる弟を思いやる詩を書きました。

君死にたまふ((もう))ことなかれ

((あ)) ()とうとよ 君を泣く 
  君 死にたまふ((もう))こと なかれ 
  末に 生まれし 君なれば 
  親の なさけは まさりしも 
  親は (やいば)を にぎらせて 
  人を殺せと ((お))しえしや 
  人を殺して 死ねよとて 
  二十四までを そだてしや 

(以下省略)

与謝野晶子の詩は、当時の日本国民の多くから、反戦の気持ちを遠回しにうたった詩として受け止められました。

条約改正への歩み
条約改正への流れ
おもなできごと
1858  江戸幕府が不平等な条約を結んだ
1868  明治時代が始まる
1871  日本の使節団が欧米(おうべい)視察(しさつ)する
視察のさい、条約改正をうったえたが、取り下げられた
1876 日本は1858年に結んだ条約と似た条約を朝鮮(ちょうせん)と結ぶ
1883  鹿鳴館(ろくめいかん)を開き、舞踏会(ぶとうかい)を行う
1886  ノルマントン号事件が起こる
1889  (大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)発布(はっぷ)される)
1894  陸奥宗光(むつむねみつ)によってイギリスとの間で領事裁判権(りょうじさいばんけん)(治外法権(ちがいほうけん)撤廃(てっぱい)される
日清(にっしん)戦争が起こる(~1895)
1904  日露(にちろ)戦争が起こる(~1905)
1911  小村寿太郎(こむらじゅたろう)関税自主権(かんぜいじしゅけん)の回復を達成する



岩倉具視(いわくらともみ)らの視察団
 
使節団の人々
左から木戸孝允(きどたかよし)山口尚芳(やまぐち なおよし)、岩倉具視、伊藤博文(いとうひろぶみ)大久保利通(おおくぼとしみち)

1871年には、欧米諸国(おうべいしょこく)視察(しさつ)のため送られた岩倉具視(いわくらともみ)らの視察団が条約を改正してほしいと交渉(こうしょう)したが、欧米は、日本が近代化されていないことなどを理由にして、条約の改正を断りました。


鹿鳴館(ろくめいかん)
 
鹿鳴館における舞踏会を描いた絵

1883年には、東京に、洋風の建物である鹿鳴館(ろくめいかん)を建て、欧米(おうべい)}人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなどを日々開いたが、まったく条約改正は進まず、失敗しました。


  • ノルマントン号事件
 
ノルマントン号事件をえがいた絵。

1886年には、和歌山(わかやま)県の沖合いの海上で、イギリス船のノルマントン号が沈没(ちんぼつ)する事件が起きました。このとき、船長をはじめとしたイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けませんでした。日本人の乗客は、全員死亡(しぼう)しました。

この事件の裁判(さいばん)は、領事裁判権(りょうじさいばんけん)(治外法権(ちがいほうけん))にもとづき、イギリス人の領事によって日本国内で行われました。

船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、日本への差別的な判決だと感じました。

この一連の事件を ノルマントン号事件 といいます。 この事件をきっかけに、国民のあいだで、条約改正をのぞむ声が、大きくなりました。


  • 関税自主権の回復
 
陸奥宗光
 
小村寿太郎

日清(にっしん)戦争の直前の1894年に、外務大臣の陸奥宗光(むつむねみつ)が、イギリスとのあいだで条約の一部改正に成功し、日本での領事裁判権(りょうじさいばんけん)(治外法権(ちがいほうけん))をなくすことに成功した。

そのあと、日清戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども領事裁判権(治外法権)をなくすことに同意しましたが、日本の関税自主(けん)(みと)めませんでした。

そのあと、日露(にちろ)戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)の各国との交渉(こうしょう)により、1911年に日本の関税自主権は回復しました。

韓国併合

日露戦争のあと、韓国では、日本の支配が強まりました。

その後、日本政府内では、韓国を日本の領土にしようという意見が強まりました。

そして、1910年に、韓国は日本に併合(へいごう)されました。

併合後は、日本が韓国の政治のありかたを支配するようにしたため、韓国では、日本の支配への反発も高まり、1919年には韓国で日本の支配に反対する独立運動も起こりましたが、この独立運動は失敗しました。

学校では朝鮮ではなく日本語や日本の歴史が教えられるようになり、朝鮮の人々のほこりは(きず)つけられました。

明治時代の経済(けいざい)の変化

イギリスなどから輸入した機械をもとに、生糸(きいと)などを生産しました。

原料の綿などは、併合(へいごう)した韓国(かんこく)や、獲得(かくとく)した満州(まんしゅう)などから安い値段(ねだん)のものが輸入されたため、日本の農家は打撃(だげき)を受けました。

生糸や綿製品は、日本の輸出品になりました。

1901年、日清(にっしん)戦争の賠償(ばいしょう)金をもとにして福岡(ふくおか)県の北九州(きたきゅうしゅう)八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)操業(そうぎょう)されました。

農業では、小作人が増えました。

農村などで収入(しゅうにゅう)が少ない農民は、都市に出稼ぎに行くこともありましたが、せんい工場などで働く女性は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、働かされました。しかし、日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていました。


  • 足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒(こうどく)事件
 
1895年頃の足尾銅山

栃木(とちぎ)県にある足尾銅山(あしおどうざん)では、明治(めいじ)時代ごろには、全国の約3分の1の銅を生産していました。

しかし、鉱石の処理(しょり)の安全対策(たいさく)が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒(こうどく)」が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れこみ、川の魚が死に、農作物などはかれていきました。

作物だけでなく、目や()などの内臓(ないぞう)の病気にかかっていった人が増え、死者も出ました。

 
田中 正造

衆議院(しゅうぎいん)議員の 田中正造(たなかしょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえましたが、政府は対策をとりませんでした。

田中正造は、世論(せろん/よろん)にうったえるため、議員を辞め、天皇(てんのう)直訴(じきそ)しようとしましたが、天皇の近くで警官(けいかん)に取りおさえられました。

しかし、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られました。


明治の学問や文化
  • 医学
 
北里 柴三郎
  • 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)

北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)は、ドイツに留学し、そこでドイツの医学者コッホといっしょに研究し、伝染(でんせん)病である破傷風(はしょうふう)治療(ちりょう)法を発見しました。そして北里の名前は世界に広まり、日本の医学も世界に(みと)められていきました。

北里は帰国したあと、研究所をつくりました。この研究所から、赤痢菌(せきりきん)を発見した志賀潔(しがきよし)や、へび毒などの研究で活やくした野口英世(のぐちひでよ)など多くの医学者が育ちました。


 
野口英世
  • 野口英世(のぐちひでよ)

野口は、北里の研究所で学んだのち、アメリカにわたり、ヘビ毒の研究で、大きな成果をあげました。その後、アフリカのガーナにわたり、医療(いりょう)活動および、黄熱病(おうねつびょう)などについて研究しましたが、野口自らが黄熱病に感染(かんせん)してしまい、1928(昭和(しょうわ)3)年に()くなりました。

 
ガーナ


  • 文学

明治時代には、小説が流行し、夏目漱石(なつめそうせき)樋口一葉(ひぐちいちよう)などの小説家が登場しました。

夏目漱石(なつめそうせき)は、小説家でした。もともとは教師として働いており、主に英語を教えていました。なので、彼の作品には、教師としての経験などをいかした作品もあります。漱石の作品としては、『()っちゃん』『吾輩(わがはい)(ねこ)である』などがあります。

樋口一葉(ひぐちいちよう)は女性の小説家で、作品には『たけくらべ』、『にごりえ』などがあります。

国際社会を目指した日本

編集
大正(たいしょう)時代 ==
  • 第一次世界大戦

1914(大正3)年、ヨーロッパで 第一次世界大戦 がおきました。

日本も、日英同盟(にちえいどうめい)を理由に、この戦いに参加して、イギリスを助けました。

この戦いでは、日本は、直接の被害(ひがい)を受けませんでした。

この第一次世界大戦で、イギリスの陣営(じんえい) が勝利したので、日本も戦勝国のひとつとなりました。

また、この戦争の間、日本は好景気でした。

しかし、米をはじめとして物価があがり、()らしが苦しくなったため、米騒動(こめそうどう)()ばれる騒動が、日本の各地で起きました。

しかし、戦争が終わると日本は不景気になりました。

その後、日本は好景気と不景気をくりかえしていきました。

なお、1922年、ロシアで革命が起き、 ソビエト社会主義共和国連邦(れんぽう) が成立しました。なお、「ソビエト連邦」「ソ連」などと言われることもあります。


平等な社会をめざす運動
  • 平塚らい((ちょ))う・市川房江
 
平塚らいてう
らいてうは、雑誌(ざっし)において「もともと、女性は太陽であった。しかし今、女性は月である。ほかの光によって かがやく、病人のような青白い月である。(わたし)たちは、かくれてしまった私たちの太陽をさがさなければならない」と述べました。

平塚らい((ちょ))うは、女性の地位の向上や、女子の選挙(けん)獲得(かくとく)を目指す女性解放運動を主張しました。

平塚らいてうは市川房江(いちかわふさえ)と協力して、新婦人協会(しんふじんきょうかい) をつくりました。

  • 全国水平社

1922年に、明治時代に身分上は平等となってからも差別をされつづけてきた地域(ちいき)の人たちが、差別をなくす運動をするために全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)を結成しました。

選挙権

1925(大正(たいしょう)14)年、選挙制度が改正され、25才以上のすべての男子が、選挙(せんきょ)権を手に入れました。

また、同じ1925年、政府は 治安維持法(ちあんいじほう)を制定して、政治や社会のしくみの改革(かいかく)運動を取りしまりました。


  • 大正時代の()らし

大正時代の終わりまでには、東京(とうきょう)大阪(おおさか)など大都市では、バスやデパートなどが、日本に、すでに登場していました。

とくに、大きな駅のちかくに、デパートや劇場などが、ありました。

バスでは、女性がバスの乗務員(バスガール)として働いていました。


1925(大正14)年には、日本でラジオ放送が開始しました。


  • 関東大震災(かんとうだいしんさい)

1923年、関東地方で大きな地震(じしん)が発生し、死者・行方不明者は14万人以上にのぼりました。この地震を 関東大震災(かんとうだいしんさい) といいます。


なお、このとき、「朝鮮(ちょうせん)人が反乱(はんらん)をくわだてている」といううわさが飛びかい、多くの朝鮮(ちょうせん)人が殺害される事件が起きました。


戦争と人々の()らし

編集
満州事変
 
満州国の位置。Manchukuoが満州国。

中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されました。

日本の一部の軍人は、中国北部の満州に出張していた日本軍を指揮(しき)して、中国の満州を占領(せんりょう)しようとたくらみました。

そして日本軍は1931年に、満州を占領する口実をもうけようとして、自作自演の事件を起こしました。

日本軍は、この事件を中国側のしわざだと断定し、日本軍は、中国の都市を占領しました。

そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言(せんげん)しました。

これを、 満州事変(まんしゅうじへん) といいます。


中国との戦争中のできごと
おもなできごと
1931  満州(まんしゅう)事変が起きる
1932  満州国が成立
同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
1936  日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
1937  日中戦争が始まる
日本軍はペキンやナンキンなどを占領(せんりょう)する



  • ()一五(いちご)事件
 
五・一五事件を報じる新聞

このころ、日本政府は満州(まんしゅう)の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていました。しかし1932年の5月15日、日本軍の一部の軍人らが総理官邸(かんてい)に乱入して、総理たちを殺害する事件が起こりました。この一部の軍人が総理を殺害した殺人事件を ()一五(いちご)事件 といいます。


しかし、当時の一般(いっぱん)の人々は、ひどい不景気のため、政治家に絶望していたため、犯行におよんだ軍人を、一般の人々は支持しました。

また、このため日本は、まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になっていました。

  • ()二六(にろく)事件

1936年の2月26日にも、軍人が大臣たちを殺害する事件が起きました。この事件を()二六(にろく)事件といいます。

日中戦争
  • 日中戦争の開戦

1933年、 日中(にっちゅう)戦争 が始まりました。

  • 広がる戦場

1939年にヨーロッパで、ドイツがポーランドにせめこんで、第二次世界大戦が始まりました。

ポーランドの西半分は占領(せんりょう)されてしまいましたが、イギリスとフランスが、ドイツを相手に戦いました。なお、このころソビエト連邦は、ポーランドの東半分を占領しました。なお1941年からソ連はドイツを相手に戦いましました。

このころ日本は、ドイツ・イタリアと同盟(どうめい)を結んでいました。

その後、ドイツ軍がフランスにせめこみ、フランス軍は敗北しました。ドイツ軍はフランスを占領しました。

フランスがドイツに降伏(こうふく)したので、ドイツの同盟国の日本は、東南アジアでフランスの植民地にされていたベトナムを占領しました。

日本にとっても、中国を支援しているフランスの拠点を占領でき、東南アジアの資源(しげん)も手に入るので、ベトナム占領には好都合な面もありました。

しかし、日本がベトナムを占領すると、アメリカは、日本に対して、(アメリカからの)石油や鉄の輸出を禁止しました。イギリスも、アメリカの動きと同じように、日本との貿易を制限しました。

これによって、日本とアメリカとの対立は、ますます深まりました。

 
日本による占領地域(ちいき)拡大(かくだい)(1937年から1942年) :※英語で書かれた画像です。参考程度にしてください。
 
真珠湾攻撃で燃え上がるアメリカ軍の軍艦'ウェストバージニア)。

その直後、日本はアメリカとの戦争をおそれ、アメリカとの戦争にならないように交渉(こうしょう)しますが、アメリカから満州事変よりも前の状態に日本の海外領土をもどすように要求されました。

日本は、アメリカの要求を飲まなかったので、日米の交渉はまとまりませんでした。

そして、石油がないと、兵器が動かせないので、日本が危機(きき)におちいることを恐れた日本政府は、1941年12月にハワイの真珠湾(しんじゅわん)にあるアメリカ軍基地を攻撃し、同じ時期に日本軍は東南アジアのイギリス領マレー半島も攻撃して、日本とアメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。

こうして戦場は、中国だけでなく、東南アジアや太平洋にも広がっていきました。

なお、これらの周辺地域(ちいき)での戦争のことを、太平洋(たいへいよう)戦争といいます。


日本軍は、太平洋戦争のはじめごろは、東南アジア各地をどんどんと占領(せんりょう)して、勢力を拡大(かくだい)していきました。

しかし、日本軍による東南アジアの占領地では、現地の住民を強制的に重労働させたりしたので、いくつかの地域では日本に対する反対運動も高まりました。

また、日本軍は物資の補給(ほきゅう)に苦労したので、占領した場所で、食料や資源(しげん)などを取り立てました。

初めのうちは勝利していた日本軍も、アメリカが体勢をたてなおして反撃(はんげき)に出てくると、日本軍は各地で負けはじめました。

また、日本軍は補給にますます苦労するようになり、戦うまえに()くなった日本兵も、東南アジアの各地で出てきました。

日本の新聞やラジオなどでは、情報の操作(そうさ)が行われており、日本が負けていることは、かくされていました。ほとんどの日本人は、正しい戦争であると信じて戦争に協力しました。

戦時中の()らし
  • 朝鮮(ちょうせん)台湾(たいわん)などの人々

また、日本国内で、徴兵(ちょうへい)のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が不足したので、朝鮮(ちょうせん)半島や台湾(たいわん)から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで(きび)しい労働をさせました。

  • 日本の人々
戦争中のできごと
おもなできごと
1938
昭和13
 国家総動員法ができる
 ガソリンの使用が制限される
1939  (第二次世界大戦が始まる)
 パーマネントが禁止される
1940  砂糖(さとう)・塩・しょうゆ・マッチなどが配給制になる
 国民服が制定される
1941  米が配給制になる
1942  衣類が配給制になる
1944  学童疎開(がくどうそかい)が始まる

1938年、国民全員を戦争に総動員させるために 国家総動員法(こっかそうどういんほう) が出されました。また、隣組(となりぐみ)など、主に集団で行動するようになりました。

戦争への協力ができない人々もいましたが、「非国民」と非難(ひなん)されました。

戦争が長引き、日本では物資が不足したので、日本では米などの食料品や日用品などは 配給制 になりました。

鉄などの金属も、使用が制限されました。

このため、例えばアイロンは陶器(とうき)製になりました。また、ランドセルは、竹製になりました。

そして、配給される量もしだいに減っていき、生活はますます苦しくなっていきました。

日本では、「ほしがりません、勝つまでは」・「ぜいたくは(てき)だ」・「足らぬ足らぬは工夫(くふう)が足らぬ」のような標語ができました。



一定の年(れい)に達した男子は、徴兵(ちょうへい)されたり、工場などで働かされたりしました。

 
学徒出陣(1943(昭和18)年)

男子大学生も、「学徒出陣(がくとしゅつじん)」といって、兵士にとられました。

女学生や女性も、工場や農場などで働きました。

中学生も、工場や農場などで働かされました。


小学校でも、軍事教練(ぐんじきょうれん) が行われるようになりました。


 
国民服。

衣類などが不足してきたことや、ぜいたくを取りしまる意味もあり、男子の服装(ふくそう)として国民服が定められるなど、服装に対する制限も(きび)しくなりました。

(はげ)しくなった戦争
  • 空襲(くうしゅう)疎開(そかい)

1943年ごろからアメリカ軍は、太平洋で日本の海軍をどんどんとたおし、アメリカ軍は太平洋の島々を占領していきました。 そして、1944年から、アメリカ軍による空襲(くうしゅう)(はげ)しくなりました。

空襲では、とくに、東京や大阪などの都市が攻撃(こうげき)の対象にされることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、親元からはなれて地方へと移り住む、集団疎開(しゅうだんそかい)をしなければなりませんでした。なお、「学童疎開」ということもあります。

 
東京大空襲で焼け野原となった東京。

そして1945年3月10日に起こった 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう) では、数万人もの人が ()くなりました。

その後も、全国各地で空襲は行われ、日本全国で約20~30万人が空襲で亡くなりました。


  • 沖縄

1945年4月には、アメリカ軍が沖縄(おきなわ)島に上陸し、3か月ちかくもの地上戦になり、住民も()きこまれ、多くの人が ()くなりました。

沖縄の男子学生は、中学生でも、日本軍として、いっしょに戦いました。

女子学生は、看護(かんご)師として、負傷(ふしょう)兵の看護(かんご)などの仕事に当たりました。

この沖縄での戦闘により、沖縄県民の10万人ちかくが、なくなりました。なお、それまでの沖縄県民の人口は約60万人です。

 
看護部隊「ひめゆり部隊」
 
ひめゆり部隊の慰霊碑(いれいひ)(ひめゆりの(とう))

そして、沖縄はアメリカ軍によって占領(せんりょう)されました。

  • 原爆(げんばく)の投下と終戦
 
長崎に投下された原子爆弾の「キノコ雲」
1945年8月9日
 
原爆投下後の広島のようす。


そして1945年7月、連合国は、日本に降伏するように宣言(せんげん)を出しました。

しかし、日本は、降伏の決断をできず、そのまま戦争を続けました。

すると、1945年の8月6日に、アメリカが、広島に原子爆弾(げんしばくだん)(原爆)を投下しました。広島の街は一瞬(いっしゅん)で焼きつくされて破壊(はかい)され、広島では10万人以上が()くなりました。また8月9日には長崎にも原子爆弾が投下され、8万人ほどが亡くなりました。

8月8日、ソビエトは条約をやぶって満州(まんしゅう)樺太(からふと)にせめこみました。

こうした中、日本は降伏(こうふく)の決断をし、アメリカ・イギリス・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件であるポツダム宣言(せんげん)を受け入れ、1945年の8月14日に降伏しました。

そして1945年8月15日には、昭和天皇(しょうわてんのう)がラジオ放送で国民に日本の降伏(終戦)を発表しました。

こうして、日中戦争や太平洋戦争をふくむ第二次世界大戦が終わりました。

終戦を知らせるラジオ放送(玉音(ぎょくおん)放送)の音源(おんげん)
  • 朝鮮(ちょうせん)台湾(たいわん)

日本の敗戦により、朝鮮(ちょうせん)台湾(たいわん)の人々は、日本の支配から解放されたので、喜んだといわれています。

新しい日本へ

編集
戦争が終わっても…
  • 各国の第二次世界大戦での犠牲者(ぎせいしゃ)
  • 中国 - 約1000万人
  • 朝鮮(ちょうせん) - 約20万人
  • ソビエト連邦(れんぽう) - 約2000万人
  • 日本 - 約310万人、そのうち軍人が約230万人、民間人が約80万人

第2次世界大戦の全体の死者は約6000万人にのぼると言われています。

  • 満州国(まんしゅうこく)消滅(しょうめつ)

満州(まんしゅう)は、いったんソビエト連邦(れんぽう)軍の占領(せんりょう)下に入り、そのあと中国にわたされ、国家としての「満州国」は、消滅(しょうめつ)しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争が終わっても、日本にもどれなかった人もいました(中国残留)。このような人々の中には、今でも肉親に会えない人もおり、今でも肉親(さが)しが続けられています。

  • 原子爆弾(ばくだん)後遺症(こういしょう)

広島(ひろしま)長崎(ながさき)では、なんとか原子爆弾(ばくだん)投下を生きのびても原子爆弾の放射線(ほうしゃせん)による被害(ひがい)によって、後遺症に苦しむ人がでました。

原子爆弾の後遺症(こういしょう)による死者も、多数出ました。

戦後の日本
  • 新しい国づくり

1945年8月に日本が降伏(こうふく)し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に統治されました。

そして連合国軍は、日本政府に民主化のための指令を出し、日本政府は民主化のための改革(かいかく)を次々と実行していきました。

また、日本軍は解散させられました。

1945年の終戦によって憲法(けんぽう)を改正することが決まったのですが、内容を考えるのに時間がかかり、すぐには作れませんでした。

また、農業の改革では、それまで大きな農地をもっていて人を(やと)っていた地主からは、政府はいったん農地をとりあげ、それらを実際にその農地を耕していた人たちに安い{{Ruby|値段|ねだん}]であたえました(農地改革)。

また、1945年の選挙制度の改革では、女性にも選挙(けん)があたえられました。また、選挙に投票できる年(れい)が男女とも20才以上になりました。なお、現在は2015年の改正により男女とも18才以上となっています。

1946年4月に、衆議院(しゅうぎいん)選挙が行われ、女性も選挙に投票と立候補(りっこうほ)ができるようになりました。そして、数十人ほどの女性議員が当選しました。

そして1946(昭和(しょうわ)21年11月3日には 日本国憲法(にほんこくけんぽう) が制定され、1947年の5月3日に公布(こうふ)された。日本国憲法では、これまで制限されていた言論(げんろん)の自由が保障(ほしょう)され、また、男女平等が原則になりました。

戦後の()らし
  • 買い物

当時、食料は国から配給されていましたが、量が足りず、ほとんどの人は、食べものに(こま)っていたので、都市の人は、鉄道にのって、遠くの農家などに、食べ物を買いにいきました。

また、「やみ(いち)」と()ばれるふつうの価格(かかく)の数十倍もの値段(ねだん)で食料や日用品などを売る(いち)が開かれましたが、それでも買う人がたくさんいました。

焼けあとなどの野原で、野菜をつくる人などもいました。

  • 海外からの引き上げ

日本兵として外国に行っていた人や、戦時中に仕事などとして外国に行っていた人たちが、しだいに日本に引き上げてきました。

日本国憲法(けんぽう)
 
当時の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の3原則を表したさし絵。
 
当時の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での平和主義(戦争放棄)の原則を表したさし絵。

1946年11月3日に公布された新しい憲法(けんぽう)である日本国憲法では、   主権者(しゅけんしゃ)は国民であること (国民主権)、


軍隊をもたず永久に戦争をしないこと (平和主義・戦争放棄(ほうき))、 すべての日本国民は人間としての基本的な権利(けんり)をもっている (基本的人権(じんけん)尊重(そんちょう))、 

という3つの原則が決められました。

なお、天皇(てんのう)は日本の象徴(しょうちょう)とされました。

  • 戦後の学校

空襲(くうしゅう)などで、学校の校舎が焼けてしまったので、終戦後には、授業を校庭などで行うことが多くなりました。このような、戦後の屋外での授業のことを 青空教室 といいます。

学校での教育内容も、平和や民主主義を大切にする内容にされました。しかし、教科書をあたらしく作るのが間に合わなかったので、戦前の教科書のうちの軍国的な記述をすみで黒くぬりつぶした教科書をしばらく使いました(「すみぬり教科書」)。

学校での教育期間の制度が、小学校6年間、中学校3年間、高校3年間など現在に近い制度になりました。戦後の義務教育は、小学校6年間と中学校3年間の合計9年間です。

また、それまで学校では男女別々の教室で学んでいましたが、戦後は、男女とも同じ教室で学ぶようになりました。

そして、学校給食の制度が始まりました。


  • 戦後の国際社会

第二次世界大戦後、戦前まで国際社会の平和をめざすための話し合いの場所であった国際連盟(こくさいれんめい)が、戦後は、戦時中の連合国を中心とする 国際連合(こくさいれんごう)(国連) として作りかえられました。

第二次世界大戦後、植民地とされていたアジアやアフリカで、多くの国が独立しました。

第二次世界大戦後は、国際社会のありかた などをめぐって、ソビエト連邦(れんぽう)とアメリカが(はげ)しく対立しました。

そして世界各国は、アメリカを中心とする陣営(じんえい)と、ソ連を中心とする陣営(じんえい)とに、わかれました。

第二次世界大戦後、日本の支配から独立していた朝鮮(ちょうせん)では、朝鮮半島の南北で、北はソビエト連邦が占領(せんりょう)し、南はアメリカが占領しました。

朝鮮半島の北には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がつくられ、南には大韓民国(だいかんみんこく)(韓国)がつくられ、2つの国家に分かれました。

そして朝鮮半島では1950年に、北朝鮮と韓国との間で、朝鮮戦争 が起きました。

この戦争のとき、アメリカ軍を主力とする国連軍が、韓国を援助(えんじょ)し、ソ連は、北朝鮮を援助しました。この戦争は現在まで続いていますが、現在は休戦中です。


 
サンフランシスコ平和条約での調印


朝鮮(ちょうせん)戦争によるアメリカの苦戦によって、アメリカは日本を西側の陣営(じんえい)に加えようと考えました。そのためアメリカは、日本にあるアメリカ軍基地の存続(そんぞく)を条件として、日本の独立を早めようとしました。

いっぽう、1951(昭和26)年、国際社会では、日本の国際社会への復帰についての講和会議が、アメリカのサンフランシスコで開かれました。日本は、アメリカ・イギリスなどの48か国と平和条約を結びました。これを サンフランシスコ平和条約 といいます。


 平和条約の主な内容
  • 日本は、朝鮮(ちょうせん)の独立を(みと)める。
  • 台湾(たいわん)千島(ちしま)列島、樺太(からふと)の南半分を放棄(ほうき)する。
  • 沖縄(おきなわ)奄美諸島(あまみしょとう)小笠原諸島(おがさわらしょとう)については、アメリカが治めることに同意する。 ※現在はアメリカの統治は終了(しゅうりょう)しています。


しかし、当時はソ連などとは国交を結べませんでした。

また、サンフランシスコでの平和条約といっしょに、日本とアメリカとのあいだで、日本国内のアメリカ軍基地に、引き続きアメリカ軍がとどまるための条約である 日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく) が結ばれました。なお、略して「安保(あんぽ)」などということもあります。

そして1952年には、日本は独立し、主権(しゅけん)を回復しました。

しかし沖縄(おきなわ)は, 1972年まで, ひきつづきアメリカの統治下におかれることになりました。

1956年にはソ連との国交を回復し、日本は国際連合に加盟(かめい)しました。

戦後の発展(はってん)

第二次世界大戦のあと、日本の産業は、工業を中心に成長していき、「もはや戦後ではない」ともいわれました。

日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまでもどりました。

1950年代のなかごろから日本では、鉄鋼(てっこう)や自動車などの工業が発達していきました。

また、主なエネルギー(げん)が石炭から石油に変わりました。

その他、プラスチック製品などの石油化学製品もつくられるようになっていったため、石油化学工場も増えていきました。 また、1950年代には「三種の神器」と()ばれた 白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫などが普及(ふきゅう)していきました。

1960年代には、「3C」と呼ばれるクーラー・カラーテレビ・カラーテレビなどが普及していきました。

この1950年代ごろから1970年代ごろまでの経済(けいざい)成長を 高度経済成長 といいます。

 
東京オリンピック。10,000m走で優勝(ゆうしょう)したアメリカの選手
  • 東京オリンピック・パラリンピックと万国博覧会

1964年、東京でアジア初のオリンピックが開かれました。これは復興の象徴(しょうちょう)となったともいわれ、人々に希望をあたえました。また、同じ年に東京で、(しょう)がい者のスポーツ大会である パラリンピック も開かれました。

この東京オリンピックのころ、東海道(とうかいどう)新幹線が開通しました。

  • 農村から都市への移住

地方の農村で生まれ育った若者(わかもの)が、仕事などを求めて、都市部に移住するようになりました。

やがて、大都市では、人が多すぎて住む場所が足りなくなり、その周辺の地域へも、農村から来た人たちが移住するようになりました。


  • 公害や自然破壊

いっぽう、この1950~1960年代のころから、日本では、公害が目立ってきました。

都市部を中心として、大気や水がよごれ、被害(ひがい)をうけた人もでてきました。

また、各地で、自然破壊(はかい)も行われました。

このため、環境(かんきょう)改善(かいぜん)や自然保護などを求める運動が起こりました。

日本の外交
  • 朝鮮(ちょうせん)半島

日本は韓国(かんこく)と、1965年に国交を回復しました。しかし、韓国は島根(しまね)県にある竹島(たけしま)を1954年から不法に占拠(せんきょ)しています。

北朝鮮(きたちょうせん)とは、2002年に日本と北朝鮮の首脳(しゅのう)どうしで会議(日朝首脳会談)をしましたが、国交回復はしていません。

なお、この会議で、北朝鮮の首脳は、北朝鮮が日本人を拉致(らち)(むりやり連れていくこと)したことを公式に(みと)めました。

  • アメリカ

1972年に沖縄(おきなわ)はアメリカから日本に返還(へんかん)されました。そして沖縄は、日本の領土になりました。沖縄には今も、アメリカ軍の基地があります。


  • ロシア(ソビエト連邦(れんぽう))

ロシアは択捉(えとろふ)島, 国後(くなしり)島, 色丹(しこたん)島, 歯舞(はぼまい)群島からなる北方領土を不法に占拠しています。


  • 中国

1972年に、日本と中国との国交が正常化しました。1978年には、日中平和友好条約を結びました。しかし、日本固有の領土である沖縄(おきなわ)県にある尖閣諸島(せんかくしょとう)の領有を主張しています。


おわりに

日本は戦後に奇跡的(きせきてき)な復興をとげ、非常に平和で豊かな国となりました。

しかし、日本や世界には環境(かんきょう)問題、人権(じんけん)問題などまだまだ課題が山積みになっています。

そのために、日本や世界はこのような課題の解決を目指さなければなりません、

さて、日本や世界の歴史は中学校や高校でまだまだくわしく学びますが、小学校でならう歴史はここまでです。

歴史は、先人の知を学んだうえで、それを通して現代について考えるものでもあります。

では、「世界の中の日本」に進み、日本の世界とのかかわりについて学びましょう。「世界の中の日本」はこちらです。