日本史/近世/江戸時代/後期
このページ (日本史/近世/江戸時代/後期) は、8代将軍徳川吉宗から最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜までの100年 (1750頃~1850頃) を解説します。
8代将軍徳川吉宗
編集紀伊徳川家
編集後に8代将軍となる松平頼久 (後の徳川吉宗) は紀伊徳川家の2代目藩主である紀伊 (徳川) 光貞の三男として生まれる。が、それゆえに将来藩主となる可能性は低かったため、自由奔放な生活をおくっていた。しかし、14歳のとき、父光貞や兄が当時の将軍であった徳川綱吉と面会した折に、(綱吉が)自分と同じく長男でないため冷遇を受ける存在であることを哀れに思い、別室で控えていた頼久を呼ぶ。そして越前の丹生郡に3万石を拝領し、葛野藩の藩主となる(この際、名を松平頼方と改める)。
しかし、1700年代に父も兄もみな死去したため、紀伊藩主となる(このとき22歳)。この折に当時の将軍綱吉から名を拝領し「紀伊吉宗」となる。その後、藩政改革に乗り出し、火の車だった紀伊藩の財政を立て直す。
将軍後継者問題
編集享保元年、7代将軍徳川家継がたった8才で死去し、徳川宗家が潰える。徳川家康がこのような事態を想定し造った3つの分家 (紀伊徳川家、尾張徳川家、水戸徳川家) の藩主から次の将軍を選ぶため、老中が合議の末、吉宗が選ばれた(尾張
吉宗の政治
編集当時の幕府は、5代綱吉の頃の大幅な無駄遣いを引きずって、非常に財政が悪化していた。吉宗は状況を改善するため、江戸時代三大改革の1つとされる『享保の改革』に乗り出す。以下にその行動を挙げる。
これらを通して改革は実行されていった。また、他にも幾つか吉宗の行った特筆すべき事柄がある。これらは直接的には享保の改革と関係ないものの、吉宗の行った政治の1つとして『享保の改革』の一部とされる事がある。以下に列挙する。
公事方御定書 によって人によりばらつきが出ていた判決を減らした- 目安箱を用いて庶民の要望を将軍が直接知った
- 目安箱の意見から、小石川養生所を設立し、より多くの人々が医療を享受できるようにした
- 甘藷(現代では「サツマイモ」と呼ばれる)の栽培を推奨
大岡越前守忠助 など有能な人材を家柄に関わらず採用
これらの多くは、小中学校の教育でも取り上げられているため、多くの人々が知っている。
テレビドラマ「大岡越前」や「暴れん坊将軍」に代表されるような、大岡忠助や吉宗を題材にした小説やドラマなどは、幕末期に既に存在していた。しかし、これらの物語には、実は事実と異なる部分の多く含まれている。例として「暴れん坊将軍」の前提となる「将軍が江戸
享保の改革の結果
編集前述のような、後の世にも伝えられるほどの良い点があった享保の改革だが、元々の目的である「財政を改善する」という点では、あまり効果が出ていない。ある程度は改善したものの、以前赤字のままなのだ。例として上げ米の制について述べると、これは大名が参勤交代で江戸にいなければならない期間を半年とする代わりに、より多く米を上納させるというものだったのだが、物価の高き江戸での生活が短くなることは諸大名に利点があったものの、参勤交代の「謀反を防ぐ」目的から逸脱してしまったことは否めない。米を上納させても、その分金銭に余裕の生まれた大名が謀反を起こしては元も子もない。これらの理由から、上げ米の制も長くは続かなかった(臨時の法令ではあったが)。
「享保の改革に関係ないが、含まれることもある」と前述した事項 (目安箱など) がある。これらは江戸時代1の善政と言っても過言ではない[ウィキブックスの1編集者の見解または意見に過ぎません]。こうした政策は、吉宗の優れた点として有名になった。さらに、これらが享保の改革の一部とされたことで、享保の改革全体に成功したイメージをもつ人もいる。これらが功を奏し、江戸時代三大改革の最も成功した例として知られているのかもしれない(他の改革は (後述するが) 悪い部分が多い、などの理由もあるのかもしれない)。
関連項目
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