徳川時代は戦国時代及び安土桃山時代の「合戦による時代」の終わりを特徴付けた。時代の始まりは関ヶ原の戦いによってそれ以降の時代が徳川家による時代であることを示したことに始まる。関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍 (あるいは国の軍事的支配者) に任ずるよう上奏(じょうそう)し、征夷大将軍に就くと同時に天皇を名目上の元首として維持させた。これは歴代の幕府に全て共通することである。将軍の職はそのときから後の時代まで家康の子孫へ引き継がれた。七代将軍・徳川家継が幼くして死去したことで二代将軍・秀忠の子孫が途絶えた後、こういったこと (宗家断絶) を想定して家康が設けた3つの分家 (全て秀忠の兄弟の家) のうち、紀伊徳川家(きいとくがわけ)から八代将軍として徳川吉宗が選ばれた。そして、15代将軍まですべて徳川一族で占められることとなった。

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ウィキペディア江戸時代の記事があります。

江戸時代は総じて権力が徳川家に集中し、支配者が代わるようなことはなかった。それはすなわち、(関ヶ原の戦い以降)国を二分するような大きな戦がなく平和であったことを意味する。これにより、いくつかのメリット及びデメリットが発生した。詳しくは後述の「#平和」を参照。

このページでは江戸時代すべてに共通する政策などをまとめるほか、一揆や戦闘について取り扱う。江戸時代は長い時代であり(これも家康が基盤固めをしっかり行ったため)、関ケ原直後のことと幕末のことは一緒に取り扱うわけにはいかないので、「前期」「中期」「後期」の3つのページで時期ごとの政策や文化を取り扱う。

江戸時代は他の時代に比べて現代に近いため、研究が進んでいるかのように思うかもしれない。しかし、江戸時代には「神君」とされた家康は過剰に賛美され(もちろん幕府を直接批判するのは不可能)、明治時代には明治政府の正当性を示す意味もあって過剰に貶められた。こうした政治的事情が史料にも大きな影響を与えている。また、講談や歴史小説によって流布された俗説や根拠の怪しい「記録」も多い[注釈 1]。そのため、21世紀に入ってからようやく解明されたことが多い。

関ヶ原(せきがはら)(たたか) 編集

 

背景 編集

安土桃山時代の章で触れた通り、豊臣秀吉はまだ幼い秀頼を唯一の子孫としてこの世を去る。その直後に秀吉が残した五大老への手紙により秀頼が成人するまで前田利家主にそばで支えることとしたが、利家もまもなくこの世を去る(利家と秀吉は同年代である)。すなわち、この時点で秀吉の読みは崩れ始める。反家康派の筆頭であった利家が死去したことで家康および加藤清正らの勢力が力を持ち始める。変わって反家康派の筆頭と成った石田三成は秀吉に仕えていた時代から頭脳派で、清正や福島正則といった武力派との溝は深くなっていく一方だった。

そしてこの頃から、家康は秀吉が生前に定めた法度を次々と破りだし、勢いに乗った家康派の清正および正則などがついに三成を襲撃にかかる。三成は己の兵力で彼らを防げないと見るやいなや家康邸に逃げ込む。家康が己 (=三成) を殺すことはないとわかっていたためである。家康は三成を保護し、清正一味から匿うが代償として三成は居城である佐和山城で引退を余儀なくされる。

しかし、家康があまりに横暴をはたらいたので、三成は仲の良かった直江兼続およびその主上杉景勝(うえすぎかげかつ) (通称、「義の男」として戦国時代に一世を風靡した上杉謙信の養子) と手を組み打倒家康を狙う。第一歩として景勝は軍備設備の整備および拡張を行う。これにおこった家康は「謀叛の疑いあり、至急上洛せよ」(当時、上杉家は越後から会津に移封されていたが、これは家康の監視のためだったと言われている)と文を送るが、兼続はその要請を無視し、家康に苦言を書き連ね、謀反を疑われる行動を釈明し論破したのベ15か条 (違うものもある) の文書を家康に送りこれに激怒した家康は伏見城に鳥居元忠を残して兵を引き連れ会津征伐に出発した。しかし、これを好機とみた三成は家康らが会津に着く前に兵を挙げ、伏見城を落とす。家康は長らく自身に仕えてきた元忠の死をきっかけに兵を引き返し一路美濃・近江方面に進軍する(これを決定した軍議を小山評定という)。

天下分け目の 編集

関ヶ原の戦いは徳川家康を総大将とする東軍と毛利輝元(もうりてるもと)を総大将とする西軍の間で戦われた。しかし、毛利輝元は実際のところ戦っておらず、石田三成が事実上の総大将となった。石田三成は、豊臣秀吉の後継者である秀頼の代わりに戦った、とも言える

家康は想像を上回る三成の兵力に驚嘆し、西軍の大名に東軍への裏切りをするよう文を送りつけた。前述の家康の工作が功を奏し小早川家の当主、小早川秀秋は石田三成を裏切った。それをはじめとして他の中小大名が次々と寝返ってしまい、これを大因として家康は勝ってしまった。

一方、家康の嫡男で後の2代目将軍、徳川秀忠率いる東軍の別働隊 (38000人) が、西軍に味方しつつも関ヶ原に来ず彼らの居城である上田城 (など) に籠城する真田昌幸ら2500~3000人程度の真田軍を討伐するため中山道を進んだが、真田軍に苦戦し、家康からの催促でおさえの兵を残してようやく動き出した。しかし、時既に遅し、東軍は主力兵力を欠かした70000人程で80000人程の西軍に対峙した。特筆すべきは、当初の計画の人数と異なる軍勢で劣っていた家康に三成が敗北したことだ。

以上が関ケ原の合戦のあらましだが、2000年代以降、この合戦についての研究が進み、従来の学説および歴史小説で見られた展開は大幅に見直されている。

見直されている点 編集

  1. 徳川家康は、石田三成などの反徳川武将を決起させるために会津征伐を行ったという説
  2. 小山評定
  3. 毛利輝元は石田三成に担がれただけで積極的に西軍に加担しなかったという説
  4. 関ケ原の合戦における小早川秀秋の動向

大坂の陣 編集

※現在の大阪は明治時代まで大坂と呼称、それにならってこのページでは大坂と書きます。

背景 編集

前述のとおり関ケ原の戦いで徳川家康が政の主導権を握り、豊臣秀吉の唯一の嫡子であった豊臣秀頼(右大臣)を首領とする豊臣側はその領地を大幅に削られた。徳川家康は死が近づいていることを否めなくなり、死ぬまでに江戸幕府の盤石を頑丈なものにしたいと欲した家康は豊臣家を滅ぼしにかかる。

勃発まで 編集

豊臣家は当時豊臣秀頼を頂点とする三角形となっていたものの秀頼が内気な性格だったこともあり、実質的な首領は秀頼を産んだ親である淀君、その他秀吉の妻複数が該当していた(正室であるねねは出家し尼となっており寺で徳川家による軟禁状態にあった、と言われ、『尼将軍』として大きく影響力をもった北条正子とは大きく異なる)。豊臣側への挑発として徳川家は、豊臣家の名目で行われた方広寺(ほうこうじ)の復建に伴って新造された鐘の銘文「国家安康、君臣豊楽」を「【家康】の二字を引き離し、【豊臣】を楽として家康を呪い豊臣家の繁栄を願っている」などと言いがかりをつけ豊臣家に問い詰めた。豊臣家に突きつけられた条件は以下の通りである。

  • 秀頼を江戸に参勤させる(大名と同じ扱い→豊臣家が大名として幕府に従う意味)
  • 淀殿を人質として江戸に置く(上記に同じ)
  • 秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する(守りの堅い大坂城から出れば豊臣家を易々と攻めることができる)

これらの条件は括弧内で示した通り豊臣家に利はなく、淀殿 (秀吉の側室で秀頼の生母) がこの案を言上した片桐且元を怒鳴りつけたため、しだいに且元は「裏切り者」の扱いをされるようになり、大坂城を去ってしまう(実際には且元は豊臣家のためを思って実行したが、大坂城を去った後は家康の家臣となる)。ここから、家康は「豊臣包囲網」を組み始める。慶長6年に築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城及び二条城、彦根城、篠山城、亀山城、北ノ庄城、名古屋城の再建・造営、江戸城及び駿府城、姫路城、上野城などの大改修が具体的な例である。

(大坂)冬の陣 編集

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背景 編集

慶長19年、豊臣方は全国各地の大名に「豊臣方に味方せよ」という趣旨の文を送り、また関ヶ原の合戦で西軍についた浪人にも同様の文を送った。豊臣家は秀吉の頃に大量の金銀を確保しており、その散財を目的として家康が方広寺などの改修を勧めたが、あまり影響はなかった。あまりにも各地の鉱山を確保して金銀を備蓄したため、と言われている。そしてこの金銀を餌に浪人衆を集めた。彼らは前述の通り関ヶ原の合戦で敵対したために領地を取り上げられたり、あるいは家康に藩を潰されたり、といったように皆家康に恨みを持つ者ばかりだった。また、家康の厳しいキリスト教弾圧政策で潜伏していたキリシタン大名も戦後のキリスト教保護を約束され五七の桐の下についた。彼らもまた家康に恨みがあった。また、キリシタン大名に従ってきた神父なども多く参加していた。しかし、浪人衆は集まったものの、大名は誰一人として大坂城に馳せ参じる者はおらず、福島正則が唯一蔵の兵糧の供出を黙認した、と言われているのみである。浪人を雇い入れたため、豊臣方は秀頼を名目上の頂点とし、その下に豊臣家一族および従来からの家臣、その下に真田信繁や後藤又兵衛など5人を代表とする浪人衆によるピラミッドを構成する。

勃発 編集

豊臣家の家臣である片桐且元は、方広寺の一件以来悪化は進む一方であった両家の関係を改善するため、江戸と大坂を行き来し、奔走する。そして、私案として以下の3つの一つを採用するように進言した。

  • 秀頼を江戸に参勤させる
  • 秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する
  • 淀殿を人質として江戸に置く

しかし、三角形の頂点に君臨していた淀殿らは反対。且元の私案だったため、且元を改易の処分とし、高野山に封じるとした。しかし、且元は豊臣家の家臣であったものの、家康から1万石を加増されるなど、事実上家康の家臣でもあった。そのため、豊臣方による且元への処分を口実に家康は諸大名へ出兵を命じる。こうして、前代未聞の天下を取った者とその臣下で天下を奪った者という構図の、関ヶ原以来続いた豊臣家と徳川家のにらみ合いに決着をつける戦いは火ぶたを切ることとなる。

天草・島原の乱 編集

1637年から1638年にかけて、おもにキリシタンからなる農民のグループが、浪人の子で同じくキリシタンの天草四郎を頭領として九州の天草を中心に一揆を起こした。彼らの主要な動機は宗教的なものではなく重い年貢が課されたためであった可能性が高いものの、後述のキリスト教に対する制限政策の一因としてこの戦いでキリシタンが宗教的に死を恐れず攻撃してきたことと、団結力の高さが共に幕府への脅威となったことが挙げられるため、ある程度宗教的なものであった可能性も考えられる。

彼らは原城 (跡) を占領した。幕府はそれをを鎮めるために30000の兵を送ったが、勝てなかった。しかしついに幕府は一揆を鎮圧し、37000の反幕府勢力を処刑した。この後、キリスト教は完全に止された(一応これ以前にも同様の法令は出ていたがこの地域は改宗しない者が多かった)。これは1860年代まで日本における最後の主要な戦いであった。

外国(日本から見た)及びキリスト教との関係 編集

対ヨーロッパ 編集

戦国時代の1549年に唐 (当時の中国) 船に乗っていたところ難破し薩摩国種子島にポルトガル人が漂着したことで始まった西洋との関係は鉄砲 (火縄銃) やキリスト教の布教などで発展した。それらは主に当時の実力者であった織田信長が仏教への対抗勢力としてキリスト教を保護したこと、貿易での利益をあげたい九州の大名の一部がキリスト教になってキリシタン大名となったことが大きな理由である。しかし、織田信長の死後権力を握った羽柴秀吉は貿易を推進するも、キリスト教の布教そのものは禁止とし、宣教師などを追放し、キリシタン大名らにも改宗を迫った。それらの理由として、「他の大航海時代に植民地となった多くの国が宗主国のキリスト教の布教による信者 (=協力者) を利用して植民地化されているため」と言われている。しかし、貿易の利益を優先したため十分な取り締まりができなかった。その死後権力を掌握した徳川家康は同様にキリスト教の禁止を目論んだものの、秀吉の失敗もありより厳重な取り締まりを行った。その内容は、

  • 海外へ渡航する商人(あきんど)の船には「朱印状」を持たせそれ以外の船は「海賊」とする(この朱印状をもった船を「朱印船」と言いそれらによる貿易を「朱印船貿易」と呼ぶ)
  • 海外の船(当時来航していた西洋の国はイギリス、オランダ、ポルトガル、スペイン)のうち、宗派上キリスト教を布教しないプロテスタントのイギリス、オランダを除いたポルトガル、スペインの両国を長崎の長崎及び平戸に限定

などである。しかし、信仰は弾圧に打ち勝ち、前述のとおり島原・天草の乱が起こる。幕府軍が苦戦していた頃、ポルトガル船によって海上から一揆勢に砲撃を加えたこともあった。島原・天草の乱の後、3代将軍徳川家光 (当時の将軍) はスペイン船が一揆勢を幇助したとして来航を禁止する。この乱を経験した家光は弾圧に積極的で、カトリックのためキリスト教を広める可能性が排除できないポルトガルも来航を禁じられ、イギリスも貿易赤字のため商館を閉鎖し引き揚げていたことから西洋からはオランダが唯一の交易国となった。末期に至るまで、この状態のまま推移した。開国~倒幕までの海外との関係に関しては /後期を参照。

対アジア 編集

室町時代より、日本と明との日明貿易では勘合による勘合貿易が行われていたが #ヨーロッパ の節でも説明したとおり朱印船貿易になった。この後、日本と東南アジア及び東アジア間に商人や琉球王国を介した貿易網ができ、シャム (現在のタイ) など日本人の多く訪れる場所は日本人町が形成され日本の貨幣、日本の法令、日本人によるコミニュティイの統治が行われたが、後述の家光の鎖国政策により滅びた。朝鮮には秀吉の朝鮮侵略がもとでそれ以降の国交はなかったが、家康の意向で対馬藩の宗氏によって紆余曲折ありながらも国交が結ばれた。

上記2節のまとめ:鎖国 編集

徳川家光の積極的なキリスト教排除の政策によりオランダ、明、朝鮮、琉球王国 (江戸中期に薩摩藩によって侵略) の4国のみが日本と貿易を許されるという結果になった。これらの政策をまとめて「鎖国」と後世呼ばれるようになった[注釈 2]

平和 編集

江戸時代は戦国時代および安土桃山時代の武将の誰もが達成できなかった「平和な時代」を達成した。徳川家康が徳川家の安定と繁栄を図って武家諸法度や禁中並公家諸法度などを用いて謀反などの反乱を起こしにくくし、さらには庶民が平和を望んでいたためである。世界的に見ても、島原・天草一揆から戊辰戦争までの長きに渡って大規模な戦いや反乱の起きることなく平和な時代を継続した珍しい例であると考えられている[ウィキブックスの1編集者の見解または意見に過ぎません]。しかし、これによって武士の権威が少しずつ無くなっていったばかりか、町人の力が強まった時代でもある。であるからして、従来の米を中心とした経済 (武士などの支配者中心) から貨幣経済 (町人中心) へと世の中は変わっていったが、中期から後期にかけての3度に渡る幕政改革ではそういった世間を反映することができなかった。1度だけ老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)が貨幣を中心とした経済構造に幕府もあわせよう、という政策を行ったものの、賂が横行したことやそれをよく思わぬ者により田沼が失脚したことをために (他にも田沼が失脚した理由はある) この政策は上手くいかず(株仲間による物価上昇など)。

これら経済の移り変わり以外にも、浪人 (表記ゆれ:牢人) の問題もある。幕府の反乱を恐れた大名および藩の積極的な取りつぶしや減封によって多くの浪人が発生した。これらの浪人は最初こそ由井正雪などを中心とした幕府の転覆計画に賛同したり(この計画は密告により失敗)、大坂の陣において豊臣方に味方したり[注釈 3]、あるいは島原・天草一揆の一揆勢として戦うなど幕府に対し攻撃的な姿勢であった。しかし、これらの浪人の動きが幕府の破綻に繋がらなくもないと考えた幕府は一転し、これら浪人から幕府に対しての反抗心を無くしたり、そもそも浪人が発生しないようにする政策を取り始めた。例えば、士官先や就職先を幕府が探す、藩の取りつぶしではなく移封することでの対応で浪人の発生を抑える、といったようにである。ただし、これでも幾つかの浪人は悪に手を染めたり、反社会的勢力の用心棒やそれらそのものになったりなど、必ずしも浪人が幕府に対する反抗心などを抱いていなかったわけではない。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ その例として、真田「幸村」がいる。本来の名は「信繁」だったが、『難波戦記』などの講談本で「幸村」とよばれて有名になった。その結果、「幸村」の名が広まりすぎて本来の「信繁」はほぼ忘れられ、ついには真田本家である松代藩が作成した系図でも「幸村」の名を採用するに至った。
  2. ^ 実際には江戸時代の間この言葉は使われていなかった。
  3. ^ 逆に幕府側に加勢した者もいなかったわけではない。

出典 編集

関連項目 編集

日本史
前の時代
1573-1603
日本史 安土桃山時代
近世
この時代
1603-1868
日本史/近世/江戸時代
近世
次の時代
1603-1700頃
日本史 江戸時代/前期
近代