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概要
ヨーロッパやアメリカの文明の影響を受けた明治以後を指す。19世紀後半の明治維新により近代国家としての基礎が確立。初期は不平等条約の改正のため欧米の先進国の政策などを積極的に取り入れ、列強の一員として日清・日露戦争と第一次世界大戦で領土を拡大したが、第二次世界大戦によってその大半は以前の状態に戻る。
日清戦争/三国干渉
この節は書きかけです。この節を編集してくれる方を心からお待ちしています。 1984年、朝鮮で甲午農民戦争が勃発。(別名「東学党の乱」とも。東学は儒・仏・道教などを融合した宗教で、「西学」=キリスト教に対抗して作られた。[1])これを契機に日清両国が出兵、日清戦争が勃発。 緒戦の豊島沖の海戦を制した日本海軍は勢いに乗って、清国海軍の主力、北洋艦隊を黄海の海戦で撃破。 一方日本陸軍も、旅順と威海衛を占領。これで日本の勝利は決定付けられた。 翌1895年、下関条約が結ばれた。清国は朝鮮独立を認めた。よって朝鮮は国名を大韓帝国とし、国王は皇帝になった。日本は賠償金2億両(テール)、台湾、遼東半島、澎湖諸島を獲得、重慶、沙市、蘇州、杭州を開港させた。
しかし、日本は遼東半島を、ロシア、ドイツ、フランスの三国に圧力によって、ロシアに返還してしまう(日本にはまだロシアに勝てる力がなかったからである)。これを三国干渉という。これにより、日本人の反露感情は発達していくことになる。
脚注
日露戦争
1904年、日露戦争が勃発。
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脚注
第一次世界大戦
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日本の参戦
シベリア出兵
日本が得たもの
脚注
15年戦争(第二次世界大戦)
満州事変
柳条湖事件
無視される不拡大方針
第一次上海事変
満州国
日中戦争
盧溝橋事件
南京大虐殺(南京事件)
前夜
1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった。
この発砲の事件を盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)と言う。
これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。この戦闘を 北支事変(ほくしじへん) と言う。
はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。
現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦協定が結ばれた。
だが、25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう じけん)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん じけん)が起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。
この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も「戦争」という語を用いなかったといわれているが、同様の理由なのだろう。
事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、日中戦争(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。
なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していた。
1937年、北京郊外の盧溝橋において日中の軍事衝突である盧溝橋事件が発生する。日本の近衛文麿内閣は派兵を決定。日中戦争へと発展する。しかし、この時点ではまだ軍及び政府は不拡大方針をとり、「北支事変」の呼称を用いていた。約1カ月後には上海に「上海地区の日本人居留民保護」を目的として派兵される。この派遣軍もそれらの理由から (不拡大方針) 精鋭の現役兵ではなく、予備兵であった。しかし、上海派遣軍を指揮する中支那方面軍の大将、松井石根は拡大派であり、彼は南京を落とせば中国政府は降参するものと考えていた。この頃、日本のメディアや風潮は「支那
第二次上海事変
- 通州事件(つうしゅう じけん)
- (※ 通州事件は、ふつうテストには出ません。)
盧溝橋事件の三週間後の1937年7月29日に起きた事件。 北京(ペキン)の東側にある通州(つうしゅう)で、中国人の保安隊による、日本人の居留民(きょりゅうみん)や日本人の守備隊など日本人 約260名への虐殺事件があった。
この事件もあって、日本の世論は中国にたいして、かなり強硬的になっていく。
7月25日の廊坊事件(ろうぼう じけん)や、26日の広安門事件(こうあんもん じけん)は、日本の軍隊に対しての攻撃事件である。だが、この通州事件は、民間人への攻撃事件であった。
- 大山大尉殺害事件(おおやまたいい さつがいじけん)
- (※ 大山大尉殺害事件は、ふつうテストには出ません。)
1937年の8月には、上海(シャンハイ)で大山勇夫(おおやま いさお)海軍中尉が殺害される事件が起きた。この事件を大山大尉殺害事件(おおやまたいい さつがいじけん)などと言う(死後、海軍大尉に特進。)
日本はこの大山事件を中国軍のしわざだと考え(真相は不明)、日本軍は1937年の8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。
宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。
- ※ 「日中戦争のはじまりの時期を、いつと考えるか?」には、盧溝橋事件と考えるか上海戦と考えるか、その間の事件に対する報復攻撃の時期と考えるか、多くの説がある。このような事情があるので、日中戦争の開始の時期には、あまり、こだわる必要がない。もしテストに細かく日中戦争の開始時期を問う教育者がいれば、その教員の知識がうたがわれるだろう。
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。
勘違い(かんちがい)されやすいが、上海事変は、てっきり盧溝橋事件の報復攻撃で、陸軍が南京まで攻め落としたのだろ、と勘違いされやすい。だが、じつは、上海戦は、海軍が事件の報復として、おこなった戦争である。
その後
9月、国民党と共産党は抗日民族統一戦線を形成 (第2次国共合作) し、日中戦争は泥沼化を始める。日本の軍部では、拡大派が不拡大派を抑えて戦線は拡大の一途をたどることとなる。そして、この頃から、当時首都であった南京への爆撃が本格化し(宣戦布告のない南京への爆撃行為自体が国際法違反)、のちの南京事件への一歩を踏み出す。
11月中旬に上海を攻略するも、南京を制圧することで中国政府の降伏を狙う松井は己の考えを実戦で実行し成功させる必要に駆られていた。本来はこれで作戦目的を完了し、兵は3カ月に及んだ戦闘から解放されるはずだった。この時点で物質の現地での購買が徴発に変化し、軍紀が乱れていることは陸軍上層部にも知れ渡っていた。しかし、上海派遣軍を指揮する中支那方面軍指令部は11月15日に独断で南京追撃の敢行を決定しており、不拡大派の軍指令部はその報告 (19日) に対し即座に (20日) 作戦の対象地域から逸脱している旨を返す[1]も、命令に違反し19日に南京への進軍が始まる。しかし、参謀本部を無視し正式命令も無い状態で強行した南京進攻作戦は、進軍に停滞が発生すれば前進の停止を命じられる可能性が高い。それを回避し、軍上層部に独断の追認をさせるため、南京に急進撃をかける必要があった。しかし、上海派遣軍は既に疲労していた。そこで、中支那方面軍指令部は上海派遣軍と第10軍 (上海の制圧の際に後から投入されたので、軍に余力があり、南京進撃に積極的だった) に「南京1番乗り」を競わせたのだ。上海派遣軍は上海の制圧のための軍であり、後方支援部隊がなく、既に物質を現地での調達に頼っていたが、挑発され「1番乗り」を煽られ、徴発に変化し始めていた調達は上海戦後も帰れず南京進撃に駆り出された不満が現れ、エスカレートしていく。さらにこの派遣軍は北支事変が正式な戦争ではないとされたため、兵の組成が天皇の命令を伴わないものであり、法務部 (軍の行動を軍刑法に基づき取り締まる) が存在しなかった[2]。南京事件前夜、既に十分な予兆が出ていた。
南京陥落
前述したように、軍内部での拡大派 (この作戦を敢行し主導権を握りたい) と現地の軍指揮官 (手柄をとりたい) のそれぞれの野心が働きあい、正式な命令も無いまま、一路南京に向かう。
しかし、前述の通り正式な軍ではないため後方支援部隊が無く、食糧は道中の村で調達した。その際、非戦闘員を含めた村人に略奪並びに殺傷行為を働く[注釈 1]。彼らは戦闘に慣れていない後備兵であり、上海を落とせば凱旋できると家族や故郷のことを想い上海戦を敢行した矢先、南京へ駆り出された(それも複数の部隊で進軍を競わされた)のだ。彼らの怒り、ストレスの類がそのような行動を行わせたことは否定できない。この蛮行の原因が指令部にあることは言うまでもないだろう。規律が守られず、それを取り締まる法務部もいなかった。これらの村には、まだ近代化が進んでいない村も多く、情報が伝わらなかったが故に、日本軍の来襲を知らず、中国軍と間違えるなどもあった。南京は周囲へ放射状に幹線道路があり、南京を守る中国軍は南京の周辺全域で防御を敷いたため、沿線の村はほとんどが巻き込まれた。日本軍は予備兵中心のため、戦闘経験の無い者も多く、捕虜を殺害することを「楽しむ」者までいた。
メディアも必要以上に国民の戦意を煽り、国民にあたかも南京を制圧することで戦争が終結するように思わせ、国民を協力させる(拡大派の思うつぼ)。南京制圧が目前になると、祝福ムードが増し、ついに不拡大派の一部も南京攻略に同意する。当然ながらこの際に「後方支援部隊を投入する」などの案が出されたものの、「戦機を逃す」としてこれを拒否した[3]。
中国政府も南京の防御が厳しくなってきたため、12月2日、ドイツ大使を通じて和平条件(不拡大方針で日本が提示したトラウトマン和平工作)を認める意向が伝えられる[4]も、拡大派中心になっていた軍や近衛内閣の閣僚はこれをないがしろにした[4]。中国政府は遷都し、南京は首都ではなくなった。ところが、拡大派の主張する「中国一撃論」[注釈 2]に乗せられ、総勢16万以上の日本軍がいよいよ南京城内[注釈 3]の攻略に取り掛かる。日本は南京から放射状に伸びる幹線道路を用いて外側から包囲し中心に進む作戦を採り、戦線から離脱した中国軍兵士を全員殺害する[注釈 4]。
12月7日に、南京の調略も間近と見た方面軍司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を作成するも、実際にはことごとく破られる。それは略奪行為ならびに失火、放火を禁じたが、ここまで食糧を補給せずに行軍中の徴発、略奪を強要し、厳寒(12月)の頃にまともな耐寒装備や野営等の準備も無い進軍(→火で暖をとるようになる)を強要しておきながら禁止してももはや効力が無いに等しい。さらに「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった[5]。
12月11日、各新聞が華々しく南京調略を報じ、祝賀の提灯行列があるなど、翌日にかけて全国で南京を落としたことを祝される。ところが、この時点ではいまだ銃声が止むことはなく、依然として戦闘は継続状態にあった[6]。そもそもこれは、各新聞やメディアが「南京一番乗り」を競い、一部の部隊が壊れた城壁の瓦礫に旗(日章旗)を立てた[注釈 5]ことを「南京一番乗り」として報じたことが元凶の誤報であった[6]が、真実は国民に伝わることはなかった。
12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めた[7]ことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。 先述の同士討ちに関してだが、中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、これにより「南京死守」の命令に行動する兵士とそうでない兵士が混在した。河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一なるになることによって何とか生き延びようとした。兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという[注釈 6]。
12月13日、南京攻略。
12月14日、前日の南京攻略が日本国内で大々的に祝われた。人々もこれを喜び、首都東京では多数の市民が提灯を提げ行進するなど、官民一体で祝福された。これは南京一撃論[注釈 2]が国民に広く浸透していたことが表れていると言える。軍中央の意向を無視して行われ、正式な戦争ではないはずの南京攻略に対し、遂に大元帥である昭和天皇より「お言葉」が下賜される[8]。
その後も日本軍はしばらく滞留した。そして、日本軍は軍門に下った者までも殺す[注釈 7]だけでなく、「便衣兵(一般人に紛れた軍人)を探す」として特に詮索もせず[注釈 8]多くの成人男性を虐殺した。これにより、その後も2月頃まで約20万人から30万人、少なくとも15万人以上の人々[注釈 9]が殺害され[9]たとされ、おびただしい物質が強奪されたという。
南京での日本軍によるこの時期の虐殺及び略奪、強姦など一連の行為を一般に「南京大虐殺」「南京事件」と呼ぶ。なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。結局、海軍の思惑で始まった南京戦は、軍上層部の名誉的な予想とは別の意味合いで歴史に名を残したが、中国政府を倒すことはできず、日本にとっても何の利益も生まなかったのだ。
地獄の終焉
前述のように、南京奪取後も中国政府は武漢に首都機能を移転(事実上の遷都)し、元からの抗日的感情に南京事件が火をつけ、中国国民のより高まった戦闘継続の意志によって戦争は継続される。拡大派の「南京一撃論」[注釈 2]は虚実の妄想であった。以後も戦争は継続される。
終戦後
注意:本来、太平洋戦争の終戦後関係の節に書くべき内容をここに書いています。実際は戦争が継続されました。 |
1945年、日本はポツダム宣言を受諾、降伏文書に調印し、ようやく戦争は終結した。その後、敗戦国の軍人などに対して戦争中の責任を追及する軍事裁判、極東国際軍事裁判 (東京裁判) が行われた。南京事件 (及びその前後) についても触れられたが、国民は軍部による総力戦で国力が低下し、日々の暮らしで精一杯であった。おまけに南京の一件は戦時中国民に知らされることがなかったため、「南京事件」と聞いてもその存在ならびに内容について知る国民はごくわずかであり、判決当日の新聞でも占めた紙面はあまり大きくなかった。
日本政府や日本の人々のこの事件に対する認識並びに行動
さて、この一件は戦時中ならびに戦後もあまり実態について知れ渡ることはなく、日本軍が大量虐殺をしたことを否定する、国粋主義などの思想も現れだした。これらによって改変された歴史は歴史修正主義の代表の1つとも言われる。
注意:以下、しばらく家永教科書事件とそれが及ぼした影響の内容が強く、歴史書から離れている部分もあります。 |
1965年、自ら著した「新日本史」が教科書検定で「不合格」(1962年)、「条件付き合格」(1963年)とされた家永三郎は国家賠償請求を求めた。これは事実上の教科書検定制度違憲訴訟であるとも言える[10]。これは戦後最大の教育裁判と言われる[10]。
この裁判では、教科書検定の制度そのものは合憲であると認めたものの、731部隊や、この南京大虐殺などについての記述に関しての検定に当時の学説状況について(文部省側の)著しい事実誤認があり、違法であるとして、国に賠償が命じられた。 この裁判により、国民の教育権(日本国憲法23条、26条)ならびに国家が教育に介入してまで人間の精神領域を制限してはならないとする思想の自由(日本国憲法16条)の概念が国民に広まった[10]。また、国家がかつての悪事を教育上隠匿することが誤ったことであることが証されたといえるだろう。
また、この虐殺の存在を否定しようとする動きがあることは前述したが、その手法の1つとして、「誤った二分法」と呼ばれるものを用いたものがある。具体的には、中国などの主張する犠牲者数の「30万人」を根拠をもって否定することで、あたかもこの大虐殺全体を否定しようとするものが挙げられる。近年、一部の新聞社を中心に、「歴史戦」と称し大虐殺の否定がこれらの手法をもって行われるようになり、歴史を探求する者にはより一層の読解力や理解力が求められていることに留意したい。
時系列
- 盧溝橋事件から日中戦争へ発展。
- 当初は軍上層部も不拡大方針を採り「北支事変」と呼称(戦争ではないとしたかったようだ)。
- 上海地区の居留民保護のために「編組」(天皇の命令を伴わない非正式な用語)された上海派遣軍は不拡大方針から予備兵。
- 8月15日、日本は自国民を特別列車で南京から退去させ、3時間後に南京を爆撃した(正式な宣戦布告もされていない)。
- 戦時国際法の開戦に関する条約(日本は1912年に批准)と陸戦の法規慣例に関する条約(開戦に関する条約と同年に批准)に違反している(正式な宣戦布告が無いのに戦争を開始・非武装都市の爆撃並びに非戦闘員の殺傷)。
- まだ上層部は不拡大方針だったものの、海軍の実績確保(臨時軍事費の獲得やそれによる軍備拡張のため)のため行われた。
- それ以降連夜のように行われる。
- 8月29日にはドイツ及びイタリア、アメリカ、イギリス、フランスの南京駐在代表が爆撃行為の停止を求める抗議書を日本に提出。
- しかし海軍上層部はそれ以降も戦闘を継続。
- 上海や中国北部で解決しようとした陸軍の作戦を超える。
- これにより、9月までに数十万人が南京から避難。
- 9月25日には屋上に大きく赤十字のマークと「中央病院」が書かれていた国立中央病院でさえ爆撃を受ける。
- しかし海軍上層部はそれ以降も戦闘を継続。
- この結果、9月28日に国際連盟で「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」が採択される。
- いっぽう、日本のメディアは連日「戦果」のみを報じ、国際社会から孤立する。
- 上海派遣軍(並びに後から転戦してきた軍)の司令官は拡大派であり、上海を落とした後、制令線を越え南京へ進軍。
- 道中の村で非戦闘員を含めた村人に略奪並びに殺傷行為を働く。
- 予備兵や後備兵が中心であり、規律が守られず、それを取り締まる法務部や略奪行為の基である食糧などを補給する後方支援部隊もいなかった(正式な戦争ではないとして)。
- 予備兵や後備兵が中心で、上海制圧後に帰れない上後方支援部隊が無い、司令官による2軍の競わせなどによる不満が現れたと見ることもできる。
- まだ近代化が進んでいない村も多く、日本軍の来襲を知らず、中国軍と間違えるなどもあった。
- 日本軍は予備兵中心のため、戦闘経験の無い者も多く、捕虜を殺害することを「楽しむ」者までいた。1908年に定められた「陸軍刑法」で物質の掠奪を1年以下の懲役に処す旨を明記していたため、指令部が物質の住民からの徴発(=掠奪)を強いたことそのものが陸軍刑法に違反している。
- 予備兵や後備兵が中心であり、規律が守られず、それを取り締まる法務部や略奪行為の基である食糧などを補給する後方支援部隊もいなかった(正式な戦争ではないとして)。
- メディアも必要以上に国民の戦意を煽り、国民にあたかも南京を制圧することで日中戦争が終結するように思わせる(拡大派の思うつぼ)。
- ついに不拡大派の一部も南京攻略に同意する。
- この際に「後方支援部隊を増強する案」が提示されるも、「戦機を逃す」としてこれを拒否。
- ついに不拡大派の一部も南京攻略に同意する。
- 12月2日、ドイツ大使を通じて和平条件(不拡大方針で日本が提示したトラウトマン和平工作)を認める意向が伝えられるも、拡大派中心になっていた軍や近衛内閣の閣僚はこれをないがしろにした。
- 道中の村で非戦闘員を含めた村人に略奪並びに殺傷行為を働く。
- 中国政府は遷都し、首都ではなくなった南京だが、拡大派の主張する「中国一撃論」(南京を落とせば中国は屈服するというもの)に乗せられ、総勢16万以上の日本軍が南京攻略戦を開始する。
- 南京は周囲へ放射状に幹線道路があり、南京を守る中国軍は南京の周辺全域で防御を敷いたため、沿線の村はほとんどが巻き込まれた。
- 日本は南京を包囲し中心に進む作戦を採り、戦線から離脱した中国軍兵士を全員殺害するという方針であった。
- 日本も批准し公布したハーグ陸戦条約に違反する(兵器を捨て投降した者を殺傷したこと、助命せざることを宣言したこと)。
- いよいよ南京城内に侵攻を始める。
- 12月7日に、南京の調略も間近と見た方面軍司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を作成するも、実際にはことごとく破られる。
- 略奪行為ならびに失火、放火を禁じたが、ここまで食糧を補給せずに行軍中の徴発、略奪を強要し、厳寒(12月)の頃にまともな耐寒装備や野営等の準備も無い進軍(→火で暖をとるようになる)を強要しておきながら禁止してももはや効力が無いに等しい。
- ここまでそのような行為を強制しておきながら、突然の禁止が守られるはずも無い。
- 「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
- 12月11日、各新聞が華々しく南京調略を報じ、祝賀の提灯行列があるなど、翌日にかけて全国で南京を落としたことを祝される。ところが、この時点ではいまだ銃声が止むことはなく、依然として戦闘は継続状態にあった。
- そもそもこれは、各新聞やメディアが「南京一番乗り」を競い、一部の部隊が壊れた城壁の瓦礫に旗(日章旗)を立てた[注釈 5]ことを「南京一番乗り」として報じたことが元凶の誤報であったが、真実は国民に伝わることはなかった。
- 12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めたことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。
- 中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一般人になることによって何とか生き延びようとした。
- 兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという[注釈 6]。
- 12月13日に南京を攻略する。
- その後も2月頃まで約20万人[注釈 9]が殺害され、おびただしい物質が強奪された。
- なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。
- 結局、海軍の思惑で始まった南京戦は、軍上層部の名誉的な予想とは別の意味合いで歴史に名を残した。
- なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。
拡大方針
南京大虐殺の最中である1938年1月、首相であった近衛文麿は「第1次近衛声明」と言われる声明を発し、「国民政府を相手とせず」として、戦闘継続の意志をあらわにした。
張鼓峰事件
1938年7月、日本はソ連軍の物見を目的に、張鼓峰と呼ばれる朝鮮北部の国境が未確定の地域で戦闘を試みるも、損害を受ける。
東亜新秩序
同年10月に武漢などを占領すると、翌11月に「『東亜新秩序』の建設」を謳う「第2次近衛声明」を発し、海軍の思惑である「南北併進論」に沿った戦闘を行う旨を、翌12月には「第3次近衛声明」を表明した。
ノモンハン
1939年5月から同年9月にかけ、「満州国」とモンゴル人民共和国との間で軍事的衝突が発生した。ソ連軍とモンゴル軍に関東軍が大敗を喫した結果、北進(対ソ連開戦)論は後退する。
日米通商航海条約の破棄
ノモンハン事件の最中である1939年7月にアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告し、軍需品の多くをアメリカからの輸入に頼っていた日本では南進論が力を増す。
日独伊三国同盟
1939年9月にドイツによって第二次世界大戦の幕が切って落とされた。日中戦争がこう着状態に陥っていた日本にとってその後のドイツの連勝ぶりは目を奪われるものであり、今後もその強さを維持するであろうと踏み、1940年9月27日に日独伊三国同盟を締結する。ドイツによって連合国が弱体化した際にそれらの国々がアジアにもつ植民地を奪い、あるいは先に植民地を奪うことでドイツ及びイタリアの戦闘を連合国側の補給面から支えるなどの利点があった。これは松岡洋右外相に代表される「四国協商構想」の一環で、この日独伊三国同盟に1941年4月に結ばれた日ソ中立条約を通してソ連を引き込み、さらには日ソ中立条約で北方に対する備えを南方に移動でき、動員する戦力を増やすことが目的だった。
先に結論から述べてしまうと、ドイツは日本史/近代/戦前のように中国に対して行っていた軍事的支援を日本からの再三の停止要請にもかかわらずしばらく継続し、対英戦「バトル・オブ・ブリテン」(wp)が困難になってからは対ソ戦に踏み切る。ソ連はスターリンの大粛清で軍事力が低下したものの、1941年11月に最もモスクワに近づいて以降12月からは戦線が押し戻され始めた。この12月に日本はアジア・太平洋戦争(太平洋戦争)を開始する。
そもそもこの対ソ戦は日本が日ソ中立条約を結ぶ1941年4月よりも前の1940年12月にヒトラーが準備を指示しており、日本は大きな誤算をしていた。「四国協商構想」が日の目を見ることはなかった。
援蔣ルート
国民革命軍を軍事物質の面から援助するルートを「援蔣ルート」と言った。これらと日本が行った対応は以下の通りである。
- 仏印ルート
- 1940年の北部仏印進駐
- ビルマルート
- 1939年にイギリスに対して封鎖を要求
- 香港ルート
- 1941年に占領
- 西北ルート
時系列
アジア・太平洋戦争(太平洋戦争)
総力戦
この戦争では、総力戦の実行に際して、日本はナチス・ドイツを参考にした。総力戦では、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーのように人気のある強い指導者を国民全員が熱烈に支持する必要がある。日本でも、開戦当時の内閣総理大臣東条英機がオープンカーの使用[注釈 10]にこだわり(雨でも使用するほど)、「公共交通機関を利用して人々の生活にメモをとる」といったいわば「水戸黄門」のような指導者を演じることで、人々の中に「市民の味方」といった感情を植え付け、戦果によって「強い指導者像」を作り出すことにも成功した。
しかし、日本の総力戦は、ナチス・ドイツのそれと決定的に異なる部分があった。それは民需である。ナチス・ドイツではどれだけ戦局が悪化しようとも、ある程度の生活水準を維持したのに対し、日本は資源不足などのしわ寄せを民衆に行い、生活水準は昭和恐慌の時点を下回る有様[注釈 11]であった。アメリカが軍事物質の増産などを通しどんどん経済が豊かになっていったのとは対照的である。
ナチス・ドイツは民族による差別を広く行い、ほぼ全ての (同国の定めた民族の) 国民にそれを行わせることで、市民にも「実際に自分が協力している」という意識を持たせ、また集団での一体感を持たせた。総力戦において、これらは深く影響する。空襲などの困難の際、人々が助け合うことで、政府の関わりをできるだけ減らしつつ戦争を継続できるからである。日本でも、これに倣い、従前から存在した朝鮮人や中国人などを対象とした差別をさらに激しくした。また、「隣組」など住民相互が助け合わなければならないシステムを作り上げた。
日本優位期
開戦
「ハル・ノートを受け1941年12月1日に御前会議が行われ、開戦が決定された」と言われることが多い。しかし、実際にはこの年の11月5日に開かれた御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」に基づき、翌6日には陸海軍に戦闘態勢への以降が指示される。11月26日には海軍の機動部隊が真珠湾攻撃のため密かに出発していた。一般にハル・ノートが日本側に提示された26日が知られているが、これが翻訳されたものが関係省庁に送られるのは28日まで待たねばならない。すなわちハル・ノートについて検討を行う前に、日本は開戦を決定していたと考えられる。
12月8日、イギリス領マレー半島への上陸と真珠湾攻撃でついに戦争が開始されるのだが、マレー半島への上陸に際して、タイ領のマレー半島へ部隊を上陸させ、南下させたが、事前にタイ政府に対する許可を得ていなかったため、道中でタイ軍との戦闘があった。中立国であるタイの領土を勝手に使用することは国際法違反である。また、宣戦布告について、アメリカとは事前に交渉があったが、イギリスには真珠湾攻撃後に発表された詔書で(対戦相手を)「米国及び英国に対して」という形でのみとなり、「最終通牒の形式を有する明瞭且事前の通告」がなかった。これは日本が1907年に調印した「開戦に関する条約」に違反する。さらにオランダに至ってはそれですら触れられないまま戦闘が行われる。
また、奇襲として戦果が誇られることの多い真珠湾攻撃だが、戦果にできる軍備に気をとられ、戦艦と飛行機に攻撃を集中させたが、ドックや石油タンクなどへの攻撃を軽んじたため、基地機能そのものの停止に失敗した上、実は飛行機だけでなく当時の保有していた数の4割に当たる25隻の潜水艦が周辺水域におり、うち20隻は脱出する戦艦の迎沈にあたるはずであったが、アメリカ軍の対潜水艦部隊により戦果をあげられなかった挙句1隻を失うなど、潜水艦での攻撃では失敗と言える。
中国戦線
南方に向けての戦争が始まった1941年の12月、中国戦線では日本軍が香港の占領に成功した。
その一方で、「八路軍」によるゲリラ戦闘に悩まされていた華北の戦闘では、悪名名高い「三光作戦」が行われた。「焼き尽くし」、「殺し尽くし」、「奪い尽くす」からなるこの「儘滅作戦」(日本側の呼び方)は「八路軍の支配下にある村落の消滅」が目的であった。
戦果
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連合国反攻期
見立て
1942年3月9日に行われた大本営政府連絡会議で決定された世界情勢判断では、連合国の反撃開始の時期を「昭和18年以降」としていた。しかし、実際の連合国の反撃は1942 (昭和17) 年の夏頃から始まっていた。日本は連合国の強さを侮っていたのだ。
ミッドウェー海戦
1942年4月18日、東京や大阪、名古屋などがアメリカ海軍の機動部隊の空母から発進した16機のB25によって爆撃される。この空襲は、部隊指揮官の名前をとってドゥリットル空襲と呼ばれる。日本の海軍は機動部隊そのものは見つけていたが、B25に空襲されることは全く予知できなかった。被害そのものは小規模だったが、海軍をはじめとした政府首脳陣に大きな衝撃を与えた。
この空襲で面目を失った海軍は勢力圏をさらに外側へ広げるため、前哨基地としてミッドウェー島の占領を計画する。6月5日、日本軍はミッドウェー島を空爆することでミッドウェーでの戦いが始まる。当初こそ4隻の空母を展開した日本軍が空母3隻のアメリカに対し優位に立っていたが、アメリカ軍急降下爆撃部隊に隙を突かれ、希少な空母3隻を失い、残る1隻も潜水艦と協力してアメリカ軍空母1隻を撃沈すると、アメリカ軍機に爆撃され沈没した。
この戦いでは、日本軍の連勝からきた気のゆるみ、アメリカ軍による日本軍の暗号解析 (これにより空母3隻が派遣された)、目的の曖昧さ[11]などが敗北の原因であった。
ガダルカナル島
ミッドウェー海戦で大敗を喫したとはいえ、この時点では日本海軍が総合戦力の面でアメリカ軍を上回っていた。ミッドウェー海戦の少し前から、アメリカ本土とオーストラリアの連絡を遮断する作戦が開始されていた。この作戦はニューカレドニアやフィジー、サモア諸島の攻略から成り立っていた。この作戦そのものはミッドウェー海戦の大敗から中止されていたが、これに先立ちソロモン諸島のガダルカナル島に前哨基地的な役割を果たす飛行場を建設するも、この作戦を察知したアメリカ海軍が上陸を開始し、以後空と海を巡る戦いが行われる。しかし、しだいに制海権も制空権も奪われるようになり、1942年12月31日に撤退が決定された。
この作戦では、軍事物質の輸送のため、民間から徴収した輸送船まで使われたが、それでも敗北したのだ。これは日本経済にダメージを与えた一方、アメリカ側は新たに船舶を造船することで経済を回すことに成功しており、これがアメリカの戦争に対する価値観に影響しているという考え方もある。
さらに、この戦いで「戦死」した日本軍がおよそ2万1千名いるのに対し、アメリカ側では1700余名に過ぎない。圧倒的な戦力差もあるが、この2万1千名には「栄養失調」並びに「餓死」などの要因で死亡した者の方が多い(実際の戦闘で死亡した者は8千名に満たない)。さらに、戦闘について、軍上層部や現地の司令は「少数の歩兵による突撃」を繰り返させた。これはアメリカに見つからないよう、少数ずつ(駆逐艦で行うものを「鼠輸送」、小型の発動艇で行うものを「蟻輸送」とよんだ)しか運べなかったが故の策であったが、人を満足に運べない場所に物質を満足に送ることは難しい。そのため、重い大砲はおろか、武器も運べず、食糧に至ってはドラム缶などに入れたものを駆逐艦あるいは潜水艦から流す有様だった。武器がないため、銃剣突撃となり、アメリカの圧倒的な火力に倒れていく。栄養失調などで体力が落ち、風土病も流行した。日本軍の補給を軽んじる風習はかつてからある。あまりに多い餓死者から、ガダルカナル島の略称である「ガ島」を用いて「餓島」とまで揶揄された。しかし、この戦いで初めてアメリカ軍と本格的な陸上戦闘を行った結果を日本軍がこれ以降の戦いで生かすことはなかった。
このガダルカナル島の戦いの頃から、戦死者の遺骨が遺族に送られる際に用いられる白木の箱の中身が変わりだす。本来、この箱は戦死者の遺体を現地で火葬し、その遺骨を入れて送っていたものが、日中戦争の悪化に伴い中身が体の一部分 (主に手首や指) となり、この頃からは戦地のものに変わった。このガダルカナル島の場合、戦死者の魂の砂とされたガダルカナル島の白砂が入りだした。
ニューギニア・ソロモン
ガダルカナル島の敗北の後、日本は「占領地があまりに広すぎて支配が行き届かなかった」という敗因を顧みず、この敗北をニューギニア・ソロモン戦線への3師団の守備増強で対抗しようとして、ニューギニア戦線を増員するも、最も重要なサラモエへの輸送船団が連合国の攻撃に遭い、輸送船と護衛艦合わせて12隻を失った。他の2師団は無事ニューギニアに到着するが、2千機以上の航空機を投入してもなお制空権と制海権を掌握できず、東西に山脈がそびえ、ジャングルと湿地帯がゆく手を阻み、海岸付近の交通路も未整備のこの半島で、バラバラに行軍する軍の補給ができなかった。その結果、およそ10万人が戦死したといわれるうちの9万人は餓死者であったと考えられている。
1943年4月18日、ソロモン諸島を視察中であった山本五十六jawqが飛行機ごと撃墜され、戦死した。これはただ単にアメリカ軍が撃墜した飛行機がたまたま山本五十六の搭乗機であったというわけではなく、事前の暗号解読で知っていたアメリカ軍が16機もの戦闘機で待ち伏せしたことが原因であり、情報戦でも日本軍に全く勝ち目がなかった。
1943年6月から、アメリカ軍のソロモン諸島中部への攻撃が開始される。最初は、7月5日、ニュージョージア島のムンバ[注釈 12]にあった飛行場が奪われた。この飛行場の守備隊はニュージョージア島の北のコロンバンガラ島に引き、再起を図るも、8月15日にアメリカ軍が続いて手をつけたのはコロンバンガラ島のさらに北のベララベラ島であった。こうして、コロンバンガラ島に退却した部隊はアメリカ軍に包囲された状態で餓死以外の道はなかった。ようやく我にかえった大本営は中部ソロモンからの退却を指示し、9月から10月にかけて、コロンバンガラ島の残存部隊1万2千は北部ソロモンの要地、ブーゲンビル島に集められた。しかし、その他の島々は置き去りとなった。しかし、二度あることは三度ある。ブーゲンビル島にはアメリカ軍が確かに上陸はしたものの、飛行場などを確保したのみで深追いしなかった。
アメリカ軍は次第に作戦地域をより北側へ進め、ソロモン諸島はアメリカ側の真ん中で意義もなくただただあり続けるだけになってしまった。しかし、司令官であった今村は「戦わずに死ぬより戦って死ぬべき」と考え、1944年3月、自らブーゲンビル島に足を運び、アメリカ軍を追い出しにかかるよう命じた。しかし、これもまたアメリカ軍の圧倒的火力などに倒れ、失敗に終わる。ブーゲンビル島の日本軍の総力を挙げて行われたこの作戦が失敗したことにより、食糧はもはやないに等しく、日本軍お得意の「現地徴発」も住民がそれほど多くないなどの理由から失敗し、以後3万8千の兵が終戦まで戦う相手は「飢え」だった。
話は少し前にさかのぼって、1942年11月のこと。日本軍は、ニューブリテン島のラバウルに司令部を置いた。その時点で既にガダルカナル島の惨状は軍内部で知られていた。1943年にブーゲンビル島の守備隊へ作戦遂行を命じたということで先述した今村均は、このときに、ガダルカナル島の顛末を踏まえ、現地軍と居留民が補給無しで生活を可能とする方法の研究を命じた。
これが功を奏し、補給が途絶えた後も2年間、餓死者をかなり抑えた状態で終戦を迎えることができた。もちろん、マラリアに感染して死亡した者が少なかったわけではないが、他の島々に比べ食糧自給は達成できた。理由として、内地(日本国内)からの指導員や労働者、綿密な計画などが挙げられるが、最も重要な理由は、ニューブリテン島が空襲を除き直接戦闘に晒されていないことだ。ブーゲンビル島にせよ、ガダルカナル島にせよ、あれらは直接的な戦闘があった。しかし、ニューブリテン島は前述のように戦闘がほぼなく、戦闘に従事することなく食糧生産に専念できた。さらに、土があれらと比べはるかに豊かで1年に複数回収穫できた作物もあった。餓死がとても多い数を太平洋の島中で、食糧を確保できた特異的事例は、こうして誕生したのだった。
アッツ島
1943年5月12日、アッツ島にアメリカ軍が上陸を開始した。日本軍はだんだんと追い込まれ、同月29日に突撃し全滅した。この際に動けない怪我を負った者は「処置」された。翌30日の大本営発表では、「玉砕(wikt)」という表現が現れる。「全滅(wikt)」という表現のイメージの悪さから用いられたこの用語は、日本軍の孤島における戦いの代名詞として有名である。この「玉砕」という表現はしばらくの間たびたび登場した。
しかし、1943年12月10日のタラワ島の守備隊全滅の大本営発表を最後に、この「玉砕」は用いられなくなる。その次の敗北である1944年2月25日のクェゼリン島守備隊全滅の際はこれに代わって「壮絶なる戦死」と表現される。これは度重なる「玉砕」が日本軍の弱さを象徴するなど悪いイメージが拭えなかったことが理由と考えられている。
末期
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空襲
東京大空襲
硫黄島
沖縄戦
ヒロシマ
ソ連参戦
ナガサキ
終戦
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周辺諸国に与えた影響
戦後処理
時系列
脚注
出典
- ^ 笠原 1997, pp. 65-66.
- ^ 笠原 1997, p. 60.
- ^ 笠原 1997, pp. 76–77.
- ^ 4.0 4.1 笠原 1997, p. 78.
- ^ 笠原 1997, p. 120.
- ^ 6.0 6.1 笠原 1997, pp. 124–125.
- ^ 笠原 1997, p. 136.
- ^ 笠原 1997, p. 164.
- ^ 笠原 1997, pp. 224–225.
- ^ 10.0 10.1 10.2 安井 2019.
- ^ 軍令部はミッドウェー島の占領を意図していた一方、連合艦隊司令長官の山本五十六は米空母撃滅を目的としていた。こうした目的の曖昧さと情報収集の欠如が悪名高い頻繁な雷爆換装を招いた。
註釈
- ^ 1908年に定められた「陸軍刑法」で物質の掠奪を1年以下の懲役に処す旨を明記していたため、指令部が物質の住民からの徴発(=掠奪)を強いたことそのものが陸軍刑法に違反している。
- ^ 2.0 2.1 2.2 南京を落とせば中国は屈服するというもの。
- ^ 南京はヨーロッパの古い城址と同じように市街を城壁で囲んでいた。
- ^ 日本も批准し公布したハーグ陸戦条約に違反する(兵器を捨て投降した者を殺傷したこと、助命せざることを宣言したこと)。
- ^ 5.0 5.1 この部隊、その後中国軍に逆包囲され全滅に近い損失を出す。
- ^ 6.0 6.1 混乱の現れとも言えるだろう。
- ^ 7.0 7.1 既に国際法違反。
- ^ 8.0 8.1 正式には軍事裁判を開くなどの手順を踏まなければならない。
- ^ 9.0 9.1 信頼性の無い説が多いが、論争に晒されることもある。なお、戦後の東京裁判は戦争犯罪者1人1人の功罪が取り上げられ、全体像は深掘りされていない。
- ^ ナチス・ドイツでもヒトラーがオープンカーを用いた。
- ^ そもそもこの戦争は昭和恐慌からの脱却を目指して(海外の資源を獲得する)行われたので、本末転倒である。
- ^ アメリカ軍は最初に対岸のレンドバ島に上陸し準備を行っていた。6月30日のことである。
参考文献
- 安井, 勝 (2019年). “日本型学校教育の改変による教職の質的転換”. 2020年6月3日閲覧。
- 笠原, 十九司 『南京事件』 岩波書店、1997年、2。ISBN 4-00-430530-6。
- 吉田, 裕 『アジア・太平洋戦争』 岩波書店、2007年。ISBN 978-4-00-431047-1。
- 小林, 英夫 『日本軍政下のアジア』 岩波書店、1996年。ISBN 4004303117。
- 竹内, 睦泰 『超速! 日本近現代史の流れ 増補改訂版』 ブックマン社、2004年。ISBN 4-89308-609-X。
関連項目
日本史 |
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