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=== 課題 ===
縄文時代と比較してこの時代の人々の生活は縄時代から化はどのように変化したのだろう。
 
稲作新しい穀物はじまり伝来は人々にどのような影響を与えたのだろう。
== 大陸由来の新穀物<small>―水田の登場―</small> ==
== 稲作と金属器の伝来 ==
紀元前4世紀ごろから、稲作大陸から新しい穀物伝えられ、日本列島に水田(田んぼ)が作られました。その穀物は、大陸や朝鮮半島から西日本へわっえられ。そして稲作は後、西日本から東日本に伝わった考えられます。縄文時代に、これらの穀物伝わっていたというのが定説あります<br />
いっぽう、実は縄文時代に稲作が伝わっていたという説もある( (※ 範囲外)「縄文稲作」説または「縄文農耕」説 )。
 
どちらの説にせよであっても、紀元前4世紀ごろには、すでに日本に稲作この穀物伝わっており、日本人は水田を耕作しはじめで育てられていと考えられます稲だけでなくこの時代は''''''クリ'''栗'''なども栽培していました。
ただし、北海道と沖縄には、稲作は伝わらず、北海道と沖縄では、それぞれ独自の文化ができた。
 
=== 考えよう ===
青銅器や鉄器も、紀元前4世紀ごろに、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から日本へと伝わっている。
・大陸から伝わった穀物はなんだろう。ヒント→和食の主食
 
・大陸から伝わった穀物は、なぜ現在も日本食の主食になっているのだろう。ヒント→収穫量<ref>この新しい穀物の栽培は、長江で行われていた('''長江文明''')。これは、黄河で行われた畑作('''黄河文明''')に比べ、単位面積当たりの収穫量が多かった。連作障害も少なく、同じ場所で少ない人数で多くの食料を作るのに適していた。なお、中国文明とは、黄河文明と長江文明を合わせて中国大陸で起こった文明という意味である。</ref>
物だけでなく、人間も大陸(中国)や朝鮮半島から、多くの人が、九州などに やってきたと思われている。遺跡から発見された人骨などの特徴から、大陸や朝鮮半島の人々と近い特徴の人骨が見つかっている。
 
== 弥生町の大発見<small>―新土器の出現―</small> ==
このような中国や朝鮮からやってきた人たちと ともに、稲作や青銅器などの技術も伝わったと思われています。
 
== 弥生時代のくらし ==
[[File:Footed jar.JPG|thumb|right|220px|弥生土器(やよい どき)<br> 愛知県 名古屋市 熱田区 高蔵町熱田貝塚出土 重要文化財(東京国立博物館蔵)]]
[[Image:YayoiJar.JPG|right|220px|thumb|弥生土器<br>東京都 大田区 の 久が原 で出土。(東京国立博物館所蔵]]
土器とは、土を焼いて作ったものです。この時代には、縄文時代に作られた縄目の文様(縄文)が付いた土器(縄文土器)とは異なる新しい土器が見つかっています。
*弥生土器(やよい どき)
縄文土器とはちがう、新しい土器が見つかっており、縄文土器より、うすくて、かたい。また色が褐色(かっしょく)である。高温で土を焼ける技術が発達したため、このような、うすめの土器が作れるようになった。縄目(なわめ)は無く、表面は なめらかである。このような土器の名を、最初に発見された場所の東京都 文京区(ぶんきょうく) 弥生町(やよいちょう)から、この土器を弥生土器(やよい どき)という。
 
それは、縄文土器に比べて、薄くて硬いものでした。色が褐色でした。高温で土を焼く技術が発達したため、薄い土器が作られたと考えられます。また、縄目文様の縄文土器と異なり、この時代の土器の表面はなめらかでした。
また、弥生土器の発見される地層が、縄文土器の地層よりも新しい地層であることが多いことから、時代の順序が分かる。
 
ところで、この時代の土器が最初に発見された場所は、東京都文京区の弥生町でした。
このころの時代を <span style="font-size: large;">弥生時代</span>(やよいじだい) という。この弥生土器の発掘されたものには、よく、米や籾(もみ)がついており、この土器の時代に稲作が始まっていたことが分かる。
 
さて、縄文土器とこの時代の土器の時代順はどのように区別したのでしょうか。時代の区別の方法には、地層が積み上がるという性質を利用した出土した地層から調べるという方法('''地質年代測定法''')と、時間の経過によって放射性炭素(C14)の量が異なることを利用した'''放射性炭素年代測定法'''というものがあります。
*弥生土器の製法
:(社会科の範囲では無いので、覚えなくても良い。)
まず、弥生土器は、縄文土器にくらべて明るく褐色で、うすくて かたい。このような色調や器肉の厚さの違いは、縄文土器が焼成時にまさしく器面を露出させた野焼き(のやき)をするのに対し、弥生土器ではワラや土などをかぶせる「覆い焼き」(おおいやき)を用いたことに由来する。このために焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる。こういった焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに九州北部で発生したと推察されるが、九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなることと関係が深いと思われる。また強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたために、器面に大粒の砂が露出しているのがみられることがある。
 
こうした測定法を通じて、縄文土器の時代が先で、この時代があとで時代の順序が分かっているのです。
 
発掘されたこの時代の土器には、よく、米や籾(もみ)が付いていたと伝えられます。これは、縄文土器には見られない特徴であり、この時代に新しい穀物が伝来したことを裏付ける証拠にもなります。
*石包丁(いしぼうちょう)。
<span style="font-size: large;">石包丁</span>は、イネの穂先を刈り取るのに、使われたと思われている。
 
ところで、この時代の土器は、どのように作られたのでしょうか。
*高床倉庫(たかゆか そうこ)
イネを保管するための、<span style="font-size: large;">高床倉庫</span>(たかゆか そうこ)の遺跡も、発見されている。
ねずみや湿気をふせぐために、高くしてあり、柱にはネズミよけの返しがついている。
 
まず、この時代の土器は、縄文土器にくらべて明るく褐色で、薄くて硬いですよね。
 
このような色調や器肉の厚さの違いは、縄文土器が焼成時にまさしく器面を露出させた'''野焼き'''(のやき)をするのに対し、この時代の土器ではワラや土などをかぶせる「'''覆い焼き'''」(おおいやき)を用いたことに由来します。
<gallery widths="200px" heights="200px">
Image:Takayukasikisouko.JPG|高床倉庫 妻側より(復元、神奈川県、大塚・歳勝土遺跡)
File:Yoshinogari-iseki takayukashiki-souko.JPG|高床倉庫(復元、吉野ヶ里遺跡)
</gallery>
 
このため、焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと考えられます。こういった焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに九州北部で発生したと推定されますが、九州から関東まで時期差があり、この時代の土器の出現が東に行くにしたがって遅くなることと関係が深いと思われます。
*農具
農具には、木製の鋤(すき)や鍬(くわ)を作って、使っていたと思われています。
 
また、強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたために、器面に大粒の砂が露出しているのがみられることがあります。
* 青銅器
[[File:Periodo yayoi, dotaku (bronzo a forma di campana), II-I sec a.C..JPG|thumb|絵のある銅鐸(どうたく)。香川県出土(東京国立博物館蔵、国宝)<br />
左下に、うす と きね を用いた作業の絵がある。右下は高床倉庫の絵。右上は弓矢で動物を射る絵。]]
 
=== 考えよう ===
青銅器や鉄器が、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から伝わっている。
・この時代に生まれた新しい土器はなんと呼ぶだろう。ヒント→初めて発見された場所の名前
銅鏡(どうきょう)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)などの青銅器がある。
 
・この時代の土器は何に利用されたのだろう。ヒント→付着物
:※ 名前は「銅剣」、「銅矛」、「銅鐸」だが、材質は純粋な銅ではなく、青銅であるのが普通(※ 参考文献: 高校の山川出版の日本史Bの用語集)。
 
== 穀物中心の道具・建物<small>―人々の生活―</small> ==
発見された銅鐸に、うす や きね を用いた作業の様子を ほった絵がある。このことからも、稲作が行われていることがわかる。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵がある。
この時代は、大陸から伝わった穀物中心の生活が営まれていました。そのため、道具や建物も次第に穀物中心になっていきます。
 
'''石包丁'''は、実った新しい穀物の穂<ref>'''稲穂'''(いなほ)と呼ばれる。</ref>を刈り取るのに使われていたと考えられています。人々が水田に入り、実った新しい穀物の穂と、そうでないものをかき分けていたといわれます<ref>この時代の稲は、たとえ植えた時期が一緒でも一斉に実ることがなかった。</ref>。
青銅器の多くは、おもに、いのり の道具に使われていたと思われています。
豊作などを、祈っていたと思われています。
 
この時代には、'''高床式倉庫'''という新しい建物も作られました。高床式倉庫は、その名の通り、床が高く、柱には返しが付いています。床を高くしたり、柱に返しを付けたのは、ねずみや湿気を防ぐためと考えられます。<gallery widths="200px" heights="200px">
* 鉄器
Image:Takayukasikisouko.JPG|高床倉庫 妻側より(復元、神奈川県、大塚・歳勝土遺跡)
鉄器は、工具や武具、農具など実用品に用いられた。
File:Yoshinogari-iseki takayukashiki-souko.JPG|高床倉庫(復元、吉野ヶ里遺跡)
</gallery>この時代は、農具に木製の'''鋤'''(すき)や'''鍬'''(くわ)を使っていたとされます。
 
=== 考えよう ===
 
・高床式倉庫は何に利用されたのだろう。ヒント→湿気に弱い食べ物[[File:Periodo yayoi, dotaku (bronzo a forma di campana), II-I sec a.C..JPG|thumb|絵のある銅鐸(どうたく)。香川県出土(東京国立博物館蔵、国宝)<br />
農具や工具や武具には、石器や木器もあわせて、もちいられた。
左下に、うす と きね を用いた作業の絵がある。右下は高床倉庫の絵。右上は弓矢で動物を射る絵]]
以上のような弥生時代は、紀元前4世紀ごろから、紀元3世紀ごろまでのあいだ、約700年間ほど続く。
 
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== 新穀物で生まれる争い<small>―新しい社会単位の出現―</small> ==
== 国々の誕生 ==
稲作新しい穀物など農業が発達し、人口が増えました。農必要なは、多くの土地や水などの配分をめぐってが必要ですから、村と村と同士で間で、争い(あらそい)増えた生まれます
 
そこで、人々は、新しい社会の単位をつくり、まとまって強くなろうとします。それが、国です。といっても、近代的な国ではありません。この時代には、複数の小国が作られました。現在の国の起源ともいわれます。
 
[[File:Yoshinogari-iseki zenkei.JPG|thumb|440px|right|吉野ケ里遺跡,遠景。 佐賀県。]]
ところで、佐賀県の<span style="font-size: large;">'''吉野ヶ里遺跡</span>'''(よしのがり いせき)から、争いのあとが見つかっている。吉野ヶ里遺跡は、集落のわりに、柵(さく)や濠(ほり)の有る集落であり、しかも矢が刺さった人骨が見つかっており、 物見やぐら も、ある
 
吉野ヶ里遺跡は、集落のまわりに、柵(さく)や濠(ほり)の有る集落で、しかも矢が刺さった人骨が見つかっています。物見やぐらもあります。
なお、柵(さく)や濠(ほり)で囲まれた集落のことを、<span style="font-size: large;">環壕集落</span>(かんごう しゅうらく)という。吉野ヶ里遺跡は、環壕集落の代表例でもある。
 
こうした集落は、環濠集落と呼ばれます。吉野ヶ里遺跡は、環濠集落の代表例といわれます。
中国(漢)の歴史書によると、紀元前1世紀ごろには、<span style="font-size: large;">倭人</span>(わじん、日本人のこと)が'''100'''あまりの小国を作っていた、という。(『<span style="font-size: large;">漢書</span>』(かんじょ)による。)
漢での日本国の呼び名は、中国の歴史書では、「<span style="font-size: large;">倭</span>」(わ)と記されており、日本人のことを「倭人」(わじん)と記している。
 
中国大陸の漢の歴史書(漢書)によると、紀元前1世紀ごろには、倭人(わじん、日本人のこと)が'''100'''あまりの小国を作っていた、と書かれています。漢での日本国の呼び名は、中国大陸の中国の歴史書では、「'''倭'''」(わ)と記されており、日本人のことを「倭人」(わじん)と記しています。
のちの時代の日本で、「倭」の代わりに「和」という漢字が当てられる。「倭」という文字には「まかせる」と受け取れる意味があったり( 「委任」(いにん)の「委」に字が近い。 )、小さいことを意味する「矮小」(わいしょう)の「矮」(わい)に近く、のちの時代の日本が嫌がったためである。すくなくとも752年(天平勝宝4年)ごろから日本のことを言う時に「和」という名称を用いている。 現代の日本で、日本風のことを「和風」と言ったりするときの「和」の語源は、この「倭」である。
 
のちの時代の日本で、「倭」の代わりに「和」という漢字が当てられることになります。「倭」という文字には「まかせる」と受け取れる意味があったり( 「委任」(いにん)の「委」に字が近い。 )、小さいことを意味する「矮小」(わいしょう)の「矮」(わい)に近く、のちの時代の日本が嫌がったためです。少なくとも、752年(天平勝宝4年)ごろから日本のことを言う時に「和」という名称を用いています。 現代の日本で、日本風のことを「和風」と言ったりするときの「和」の語源は、この「倭」です。
 
いっぽう日本の、この時代には、文字を持っていなかったので、中国大陸の歴史書が、現代での弥生時代の歴史研究でも手がかりになっています。
 
いっぽう日本の、この時代には、文字を持っていなかったので、中国の歴史書が、現代での弥生時代の歴史研究でも手がかりになっている
 
 
[[File:King of Na gold seal.jpg|260px|thumb|left|金印(きんいん)。漢委奴国王印。 国宝。福岡県の志賀島(しかのしま)で発見された。(福岡市博物館蔵。1辺は2.3cm、重さは109g。材質は金。福岡県の志賀島(しかのしま)で1784年(江戸時代)に出土。)]]
[[File:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|thumb|right|金印の印文。「漢委奴国王」と刻まれている。]]
また、別の歴史書の『<span style="font-size: large;">後漢書</span>』(ごかんじょ)の東夷伝(とういでん)という部分によると、1世紀半ばに、倭(わ)の<span style="font-size: large;">'''奴国</span>'''(なこく、現在の福岡県あたり)の<span style="font-size: large;"></span>が、漢に使いを送り、皇帝から<span style="font-size: large;">'''金印</span>'''(きんいん)などをあたえられたと、書かれてます
 
金印の実物は、江戸時代に発見されている。江戸時代に、現在で言う福岡県の<span style="font-size: large;">志賀島</span>(しかのしま)で、1784年に発見され、金印には文字が刻まれており、「<span style="font-size: large;">'''漢委奴国王</span>'''」(かんのわのなのわのこおう)と、漢字が刻まれています
 
 
 
『後漢書』の「後漢」というのは、漢の王朝は、いったん、途絶えたが復活したので、いったん途絶える前の漢を「前漢」(ぜんかん)といい、復活したあとの時代の漢のことを「後漢」(ごかん)という。
 
『後漢書』の「後漢」というのは、漢の王朝は、いったん、途絶えたが復活したので、いったん途絶える前の漢を「前漢」(ぜんかん)といい、復活したあとの時代の漢のことを「後漢」(ごかん)といいます。
 
「奴国王」という言い方から分かるるように、日本の各地に「国」があり、「王」に当たる階級があったことが分かる。つまり、この時代の日本には、すでに階級があって、人々どうしの貧富の差も大きかったと考えられている。
 
その後の時代の様子からも、すでにこの弥生時代の日本に「王」に当たる特権階級が出来ていたと思われている。
 
「奴国王」という言い方から分かるるように、日本の各地に「国」があり、「王」に当たる階級があったことが分かります。つまり、この時代の日本には、すでに階級があって、人々どうしの貧富の差も大きかったと考えられています。
== 中国の三国時代 ==
 
その後の時代の様子からも、すでにこの弥生時代の日本に「王」に当たる特権階級が出来ていたと思われています。
 
=== 考えよう ===
・新しい社会の単位の出現は、その後の日本にどのような影響を与えたのだろう。ヒント→外交
 
== 戦乱に包まれた中国大陸<small>―中国大陸の新時代―</small> ==
[[画像:Sanguo map.jpg|400px|thumb|三国時代・要図(262年)]]
 
漢(中国大陸の漢では西暦184年から民衆の反乱である 黄巾の乱(こうきんの らん) により、漢は従えていた諸国の軍勢を動員した。黄巾の乱は平定されたが、諸国の軍勢の権力が強り、これによって諸国の軍事力なでは漢は政治ができなくなり、諸国どうしが中国の支配をめぐって争い、長い戦乱の時代が始まり、後漢はおとろえた。
漢の王朝は220年まで残っていたが、190年ごろから、実質的に中国は戦乱の時代になっており、多くの国々に別れて戦争をしていたが、220年ごろには、<span style="font-size: large;">魏</span>(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3カ国に集約されていった。それぞれの3国が、べつべつの皇帝を立てていた。220年ごろから280年ごろの中国の時代を三国時代(さんごく じだい)という。184年の黄巾の乱から280年までを三国時代にふくめる場合も有る。
 
黄巾の乱は平定されましたが、諸国の軍勢の権力が強まり、これによって諸国の軍事力なしでは漢は政治ができなくなり、諸国どうしが中国大陸の支配をめぐって争いました。こうして長い戦乱の時代が始まり、後漢はおとろえました。
最終的に、中国で三国を統一する国は、魏のながれをくむ「晋」(しん)という王朝である。
 
漢の王朝は220年まで残っていましたが、190年ごろから、実質的に中国大陸は戦乱の時代になっていました。多くの国々に別れて戦争をしていましたが、220年ごろには、'''魏'''(ぎ)・'''蜀'''(しょく)・'''呉'''(ご)の3国に集約されていました。
 
それぞれの3国が、べつべつの皇帝を立てていました。中国大陸のこの時代は220年ごろから280年ごろまで続きました。184年の黄巾の乱から280年までをこの時代として数える場合もあります。
 
最終的に、中国大陸で三国を統一する国は、魏のながれをくむ「晋」(しん)という王朝である。
 
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=== 考えよう ===
== 邪馬台国(やまたいこく) ==
・中国大陸のこの時代をなんと呼ぶだろう。ヒント→国
中国の歴史書『三国志』のうちの、魏についての歴史書の『<span style="font-size: large;">魏志</span>』(ぎし)に、倭人についての記述である<span style="font-size: large;">倭人伝</span>(わじんでん)によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、'''30'''か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、<span style="font-size: large;">邪馬台国</span>(やまたいこく)の<span style="font-size: large;">卑弥呼</span>(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「<span style="font-size: large;">親魏倭王</span>」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、<span style="font-size: large;">銅鏡</span>100枚をもらったことが、倭人伝に記されている。
 
・中国大陸のこの時代が日本に与えた影響を考えよう。ヒント→戦乱の中で人々は何をしようとしただろう。
邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明である。学説では、<span style="font-size: large;">近畿</span>説と<span style="font-size: large;">九州</span>説が、有力な説である。
 
== すずと合金で作られた新道具<small>―渡来人が伝えた物と技術―</small> ==
この時代の日本には、階級が奴隷から王まで、あったことが、倭人伝の記述から分かっている。
紀元前4世紀ごろには、渡来人(帰化人)が主に中国大陸などから日本に来ていました。このとき、すずと合金('''青銅''')で作られた新道具も中国大陸などから伝来しました。また、鋳鉄や鋼鉄('''鉄''')で作られた'''鉄器'''も伝来しました。
 
すずと合金(青銅)で作られた新道具には、銅鏡(どうきょう)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)の種類がありました。
*倭人伝の内容
 
魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれている。(抜粋)
発見された銅鐸には、臼(うす)や杵(きね)を用いた作業の様子を彫った絵があります。このことからも、この時代に新しい穀物が作られていたことがよく分かります。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵があります。
 
すずと合金(青銅)で作られた新道具の多くは、実用的な道具というより、豊作などを祈る、'''祈りの道具'''として使われていたと考えられます。
 
一方、鉄器は、すずと合金(青銅)で作られたものと異なり、工具や、武具、農具など実用的に利用されました。これらの道具には、石器や木器も合わせて用いられたと伝えられます。
 
こうした物以外にも、中国大陸の技術を伝える渡来人(帰化人)も多くいたと伝えられます。遺跡から発見された人骨などの特徴から、このように推定されています。
 
前に取り上げた新穀物も、中国大陸からの渡来人(帰化人)が伝えたと考えられています。
 
=== 考えよう ===
・すずと合金(青銅)で作られた新道具は、なんと呼ぶのだろう。ヒント→「土器」「鉄器」から道具の名前の共通点を見つけよう。
 
・中国大陸から渡来人(帰化人)が来たのはなぜだろう。ヒント→三国時代
 
== 学説分かれる女王の国<small>―邪馬台国―</small> ==
中国大陸の歴史書『三国志』のうちの、魏についての歴史書の『'''魏志'''』(ぎし)の倭人についての記述(倭人伝)によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったですが、'''30'''か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、'''邪馬台国'''(やまたいこく)の'''卑弥呼'''(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったと書かれています。
 
さらに、卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえた、と書かれています。邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「'''親魏倭王'''」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、銅鏡100枚をもらったと、書かれています。
 
しかし、この文書には、不正確な部分も多く、邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明です。学説では、'''畿内説'''と'''九州説'''が、有力な説です。
 
この時代の日本には、階級が奴隷から王まであったと、倭人伝には書かれています。
 
魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれています。(抜粋)
 
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=== 考えよう ===
・なぜ、「倭」「邪馬台国」「卑弥呼」など、当時の日本の呼称には、「卑しい」などの否定的な意味の字が入っていたのだろう。ヒント→中華思想
 
== まとめ ==
この時代は、水田で育てられる新穀物や、すずと合金(青銅)で作られた新道具、鉄器など、多くの物や技術から、中国大陸からの渡来人(帰化人)によって伝来しました。日本列島では、女王の国(邪馬台国)があったことが倭人伝に書かれ、その場所は畿内説と九州説で分かれています。このころ、中国大陸は、3つの国が対立し、戦乱の世でした。
 
=== 考えよう ===
・この時代は何時代というのだろう。ヒント→縄文時代の土器の名前と時代の名前を振り返ろう。
 
・この時代がその後の日本文化に与えた影響はなんだろう。ヒント→食文化と宗教
[[Category:中学校歴史|やよいしたい]]