「高等学校歴史総合/戦争が変えた人々のくらし」の版間の差分

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== マス・メディアの普及と情報や生活の画一化 ==
 人々は、マス・メディアのおかげで、自分が国家の一部になっているような気分になりました。例えば、'''アドルフ・ヒトラー'''は、映画やラジオを通じて宣伝を広め、全体主義を作り上げました。'''フランクリン・デラノ・ルーズベルト'''は、ラジオ放送を通して政策を説明しました。マス・メディアを通じて政治と国民が一体になる新しい時代の到来を予感させる出来事でした。その一方で、世界各地で同じような生活が出来るようになりました。日本でも、1930年代に入ってから新聞やラジオが急速に普及するようになり、都会でも田舎でも情報を簡単に手に入れられるようになりました。また、ラジオから音楽・漫談・落語を聴けるようになりました。戦前、日本人は西洋の映画や音楽に親しんでいました。しかし、戦後はマス・メディアの宣伝によって、「鬼畜米英」に対して敵意を感じるようになりました。
== 国民の組織化と戦動員 ==
 総力戦は、国民生活に溶け込むように戦いました。ドイツでは、ナチ党が制服を着せ、特定の行動を取らせて、集団の一員として意識させました。アメリカでは、企業や民間団体がその時代に合った運動を行い、生活の中で国民を結びつけました。日本では1938年の日中戦争で、国家総動員法を制定しました。国家総動員法によって、戦争に勝つために人を動員したり、物資を集めたりしました。国民は市民として仕事をしながら、近所や職場で組織を作り、戦争に協力しなければならなくなりました。日本では、町内会・国防婦人会・在郷軍人会など、地域の人達の集まりが充実していました。出征兵士の見送りや興亜奉公日などの学校行事もあり、子供達も「国民」として戦争に参加したような気分になりました。
 
== 国民の平準化 ==
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 これらの施策によって、国民生活の差がなくなっても、無秩序な物資の取引などが行われていました。そのため、全ての国民生活が平等になりませんでした。また、戦争に役立つと見なされない人々は、ひどい扱いを受けました。
 
== 戦争と植民地の民衆人々 ==
 植民地に住む人々は、自分達の力で近代化を進められません。そのため、植民地では、外から来た支配者の利益のためにインフラを整備していました。また、伝統的な暮らしや文化は、原始的で非文化的な存在として否定されました。
 
 総力戦が始まると、植民地の民衆も強制参加されました。指導者達は、国民が国を離れていかないように、戦争について教えるようにしました。日本の植民地では、植民地に溶け込めるような同化政策がとられました。例えば、天皇に服従したり、常に日本語教育開始したり、日本で一般的な風の氏や名前を名乗ることを奨励するなどです。朝鮮では、創氏改名政策が取られ、氏をつくることが義務とされました。と同時に、日本風の氏や名前を名乗ることが強く奨励されました
 
 このころ、民衆に犠牲者が出ました。それはなぜでしょうか。日本語教育の開始や日本風の氏や名前を名乗ることに反対の人も当然います。そうした人々が反対運動を起こしたのですが、日本軍はこれに厳しく対処しすぎました。これにより、犠牲者が出てしまったのです。
 
 このような事件は、他の国の植民地でも起こりました。それは、植民地を持つ側の国は、植民地の人々の中に、「自分たちの国(植民地を持つ側の国)の転覆を狙ったり、あるいは植民地の独立を狙ったりする者がいるのでは」と警戒し、軍隊を出動させて厳しく対処したためです。
 
 植民地を持つ側の国と植民地の人々の関係は、難しい問題です。
 
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