「中学校社会 歴史/鎌倉時代/元寇」の版間の差分

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椎楽 (トーク | 投稿記録)
義務教育学校及び高等学校学習指導要領 (トーク) による版 230922 を取り消し。文永の役を暴風雨による勝利ってどんだけ古いんだよ。それと高麗の進言とやらも高麗の政治状況(三別抄の乱など)をつかまないといかんでしょ。国史大辞典つまみ食いするからそうなる。
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モンゴル帝国はどのように勢力を広げていったのだろう。
 
モンゴル帝国はどのように日本し、日本はどのように対処したのだろう。
 
なぜ鎌倉幕府は衰えたのだろう。
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:マルコが「ジパング」と記したのは、当時の中国語では日本国のことを「ジーベンゴオ」と言っていたことに由来すると言われています。
 
== 元寇(げんこう蒙古襲来) ==
フビライの率いる元(げん)は、朝鮮半島を統一していた高麗(こうらい、コリョ)も服属(ふくぞく)させました。
中国大陸には南宋(なんそう)がのこっているのでした。日本は平安時代に日宋貿易をしていたように、宋は日本との結びつきがある国です。
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日本にも、フビライからの服従の要求を伝える元(げん)からの使者が、たびたび来ます。執権の8代目の北条時宗(ほうじょう ときむね)は、元(げん)の要求を拒否しつづけます。
 
元の国書には、友好を訴えておきながら、武力行使をほのめかすようなことが書かれていました。そのため、日本側ではこの矛盾を突きつける返書案が作られていましたが、結局、朝廷と幕府の協議により、返書は送られませんでした。
1274年({{Ruby|文永|ぶんえい}}11年)、ついに元が日本に攻め込みます。元が約3万人の軍勢(ぐんぜい)で博多湾(はかたわん)に上陸し、元(げん) 対 日本の戦いになります。
 
そして、1274年({{Ruby|文永|ぶんえい}}11年)、ついに元日本にし、日本侵略を始込みした('''文永の役''')。元が約3万人の軍勢(ぐんぜい)で博多湾(はかたわん)に上陸し、元(げん) 対 日本の戦いになります。
最終的には暴風雨の影響により元軍が引き上げたので日本が勝ちますが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢(どくや)、元軍の集団戦に苦戦しました。
 
元の軍隊により、島民全員が虐殺される事件も起きました。最終的には暴風雨の影響により元軍が引き上げたので日本が勝ちますが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢(どくや)、元軍の集団戦に苦戦しました。
それまでの日本では、武士どうしの戦いでは一騎打ち(いっきうち)が主流でしたが、外国の軍隊が相手では、日本の慣習は通用しません。
 
それまでの日本では、武士どうしの戦いでは一騎打ち(いっきうち)が主流でしたが、外国の軍隊が相手では、日本の慣習は通用しません。
この1274年の元と日本の戦いを <big>文永の役</big>(ぶんえい の えき) と いいます。
 
[[ファイル:Mōko Shūrai Ekotoba.jpg|thumb|500px|文永の役において、矢が飛び交い、てつはうが炸裂する中を、モンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく御家人の <big>竹崎季長</big>(たけさき すえなが) と、応戦・逃亡するモンゴル兵]]
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この戦いのあと、幕府は次の元軍(げんぐん)の侵攻(しんこう)に備え、博多湾の沿岸(えんがん)に石塁(せきるい)を築かせます。
 
1281年({{Ruby|弘安|こうあん}}4年)に、元(げん)の軍勢(ぐんぜい)は、再び日本に襲来(侵攻ゅうらい)、日本侵略を再開てきした('''弘安の役''')。今度の元(げん)軍は14万人もの大軍(たいぐん)です。
日本は、勝ちます。この1281年の戦いを <big>弘安の役</big>(こうあんのえき) といいます。この弘安の役でも暴風雨により元軍は被害を受けました。
 
この2度の元軍の襲来をあわせて、元(げん) 対 日本の戦いのことを <span style="color:red"><big>'''元寇'''</big></span>(げんこう) という。
つまり 文永の役 と 弘安の役 をあわせて 元寇(げんこう) と言う。
 
「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀(とくがわみつくに)の編纂した『大日本史』に出てくる。