「高等学校世界史B/ティムール朝とオスマン帝国」の版間の差分

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モンゴル帝国崩壊とティムール朝
 
セリム1世
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== モンゴル帝国崩壊とティムール朝 ==
[[File:Das Reich Timur-i Lenks (1365-1405).GIF|thumb|180px|ティムール朝の支配領域]]
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その後、ティムールはさらに明(ミン)も支配しようとして東方遠征に出発したが、その途中でティムールは病死した。
 
ティムールの死後、帝国は分裂と統合をくりかえした。
 
しかし、ティムールが生前、イラン的文化の地域とトルコ的文化の地域をともに領有したことにより、文化ではイラン文化とトルコ文化の融合が起こったことにより'''トルコ=イスラーム文化'''が発展した。そして、首都サマルカンドやヘラードが文化の中心的な地域になった。
 
== オスマン帝国の成立 ==
1300年ごろ、トルコ人がアナトリア西北部にオスマン帝国を建設した。オスマン帝国はビザンツ帝国のアジア側の領土を奪っていき、オスマン帝国はバルカン半島に進出して、ついにアドリアノープルを占領して、オスマン帝国は1366年にアドリアノープルを首都にした。
 
いっぽう、西ヨーロッパでは領土を取り戻そうとして西ヨーロッパ諸国による連合軍が結成され、西ヨーロッパ諸国はオスマン帝国と対立した。
 
 
しかし、1396年、オスマン帝国のバヤジット1世は、ハンガリーを中心とする西ヨーロッパ諸国の連合軍を破る。
 
しかし、このバヤジット1世が、ティムール朝との戦争であるアンカラの戦い(1402年)においてオスマン帝国は大敗し、ティムール朝によってバヤジット1世は捕虜にされてしまった。
 
 
しかし、オスマン帝国はすみやかに再建され、1453年には'''メフメト2世'''がコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼし、そしてコンスタンティノープルを(オスマン帝国の)首都にした。
 
このコンスタンティノープルが、のちのイスタンブルである。
 
 
その後、'''セリム1世'''はアラブ地域に遠征軍を派遣し、サファヴィー朝やマムルーク朝を破って、シリアやエジプトなどの領土を手に入れた。
 
セリム1世のこの領土拡張の結果、それまでマムルーク朝が領有していた聖都メッカと聖都メディナを、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼした結果、オスマン帝国が聖都メッカ・メディナを領有する事になり、オスマン帝国が聖都を保護下におくことになった。
 
 
:※ セリム1世のこれまでの出来事の順を追って話すと、・・・
 
::まず、サファヴィー朝を破った出来事が先であり、その後の出来事として1517年にマムルーク朝を滅ぼしたのである。
 
:つまり、まとめると、・・・
 
::セリム1世はサファヴィー朝をやぶり、その後、1517年にオスマン帝国はマムルーク朝を滅ぼして聖都メッカ・メディナを保護下においた。
 
:・・・のようになる