「高等学校世界史B/ティムール朝とオスマン帝国」の版間の差分

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サファヴィー朝、「イスファハーンは世界の半分」
ミッレト、イェニチェリ
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== 概要 ==
(※ のちの節で重要語句などを後述するので、この節「概要」を読んでる時点では、暗記しなくてない。)
16世紀、バルカン半島とトルコ地域を中心にオスマン帝国が繁栄する。経済において、このオスマン帝国が、ヨーロッパとイスラーム地域との東西交易の中心地になる。
 
16世紀、バルカン半島とトルコ地域を中心に'''オスマン帝国'''が繁栄する。経済において、このオスマン帝国が、ヨーロッパとイスラーム地域との東西交易の中心地になる。
いっぽう、14世紀にモンゴル帝国が解体したことにより、イスラーム地域では、モンゴルにかわって、ティムール朝などの新興の勢力が現れ始めた。
 
いっぽう、14世紀にモンゴル帝国が解体したことにより、イスラーム地域では、モンゴルにかわって、'''ティムール朝'''などの新興の勢力が現れ始めた。
しかし、このティムール朝もまた、王ティムール(1405に死亡)の死亡の後には衰退してしまい、分裂などを繰りかえすが、1507年までティムール朝は残る。
 
しかし、このティムール朝もまた、王'''ティムール'''(1405に死亡)の死亡の後には衰退してしまい、分裂などを繰りかえすが、1507年までティムール朝は残る。

さて、ティムールが死亡してから約100年後、今度はイラン地域で歴史的な変動が起きた。どういうことかとうと、1501年にイラン地域にイスラーム教的な新興国として'''サファヴィー朝'''が現れ、かつてのティムール朝の領地のうちのイラン地域を占領していき、イラン地域がイスラーム教シーア派(サファヴィー朝の国教がイスラーム教のシーア派)の国になっていく。
 
(なお、最終的にティムール朝を倒して滅ぼした勢力は、トルコ系のウズベクである。)
 
 
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== ティムール朝衰退とサファヴィー朝 ==
ティムール朝が衰えると、イラン地域ではシーア派で宗教家イスマーイールひきいる神秘主義教団である'''サファヴィー教'''が武装蜂起してタブリーズを中心に周辺地域を統一し、1501年に'''サファヴィー朝'''があらわれた。そしてサファヴィー朝はイラン地域を支配する広大な国になった。サファヴィー朝はシーア派を国教とした。
 
いっぽう、この時代、イランの西隣のトルコ地域にはオスマン帝国があった。
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=== オスマン帝国の統治方法 ===
オスマン帝国は、実質的には君主が絶大な権力をにぎる専制君主国家であり、中央集権国家でもあるが、文化的にはイスラーム的な文化にもとづきつつさらに世俗化をしており、領土内のキリスト教徒やユダヤ教徒にも自治を認めた。人頭税(ジズヤ)さえ払えば、キリスト教徒やユダヤ教徒にも信仰の自由が認められたのである。ジズヤによる信仰の自由は、7世紀からの伝統である。オスマン帝国内のキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体のことをまとめて'''ミッレト'''(millet)という。
 
このようにオスマン帝国は、領土内のイスラーム教徒やキリスト教徒・ユダヤ教徒の共存をはかった。
 
オスマン帝国は、行政では形式的にはイスラーム法の制度を使用していたが、実際は慣習法や君主の勅令などを活用した。
 
 
バルカン半島の征服後、キリスト教徒の男子少年が強制的にオスマン軍兵士として徴兵され、スルタン直属の常備軍の歩兵軍団である'''イェニチェリ'''(yeniceri)にされ、オスマン帝国の周辺諸国との戦闘でイェニチェリは戦わされた。