「高等学校日本史B/古墳とヤマト王権」の版間の差分
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興死して弟武立つ。自ら(みずから)使持節都督(しじせつととく)倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)・七国諸軍事安東(あんとう)大将軍倭国王と称す。 |
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102 行
この時代の倭王の「武」(ぶ)が、中国に送った手紙には、つぎのようなことが書かれています。
(和訳して抜粋)▼
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「皇帝から臣下としての地位を受けた我が国は、中国から遠く離れた所を領域としています。▼
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昔から私の祖先は、みずから よろい・かぶとを身につけ、山や川を踏み越え、休む日もなく、東は毛人(もうじん)の国(毛人=おそらく東北地方)55か国を平定し、西は衆夷(しゅうい)の国(衆夷=おそらく九州)66か国を平定しました。さらに海をわたって、海北(かいほく)の(海北 =おそらく朝鮮半島)95か国を平定しました。こうして、中国の威信は、はるか遠くにも及ぶようになりました。▼
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'''倭王武の上奏文'''(抜粋) (『宋書』倭国伝)
:興死して弟武立つ。自ら(みずから)使持節都督(しじせつととく)倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)・七国諸軍事安東(あんとう)大将軍倭国王と称す。
:順(じゅん)帝の昇明(しょうめい)二年、使を遣して表を上りて(たてまつりて)曰く、「報国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、藩を外(そと)に作す(なす)。昔より祖禰(そでい)躬ら(みずから)甲冑を擐き(つらぬき)、山川を跋渉(ばっしょう)して、寧処に(いとま)あらず。東は毛人(もうじん)を征すること五十五国、西は衆夷(しゅうい)を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と。
::(『宋書』倭国伝、原文は漢文)
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▲「皇帝から臣下としての地位を受けた我が国は、中国から遠く離れた所を領域としています。
▲昔から私の祖先は、みずから よろい・かぶとを身につけ、山や川を踏み越え、休む日もなく、東は毛人(もうじん)の国(毛人=おそらく東北地方
▲::(和訳して抜粋)
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このような
なお、最終的に中国の南北朝を統一する国は、「隋」(ずい)という国によって6世紀おわりごろに統一されます。南北朝の次の王朝は、隋(ずい)王朝になります。
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