「高等学校日本史B/古墳とヤマト王権」の版間の差分

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興死して弟武立つ。自ら(みずから)使持節都督(しじせつととく)倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)・七国諸軍事安東(あんとう)大将軍倭国王と称す。
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この時代の倭王の「武」(ぶ)が、中国に送った手紙には、つぎのようなことが書かれています。
 
(和訳して抜粋)
 
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「皇帝から臣下としての地位を受けた我が国は、中国から遠く離れた所を領域としています。
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昔から私の祖先は、みずから よろい・かぶとを身につけ、山や川を踏み越え、休む日もなく、東は毛人(もうじん)の国(毛人=おそらく東北地方)55か国を平定し、西は衆夷(しゅうい)の国(衆夷=おそらく九州)66か国を平定しました。さらに海をわたって、海北(かいほく)の(海北 =おそらく朝鮮半島)95か国を平定しました。こうして、中国の威信は、はるか遠くにも及ぶようになりました。
 
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私たちは、代々、中国を敬ってきました。自分は愚か者ではありますが、先代の遺志をつぎ、私たちは中国に朝貢をしようと百済を通るための船をととのえました。しかし,高句麗が百済を攻めており、百済の領土をうばい、百済の人々の殺しなどの、無道(むどう)なことをしています。そのため、私たちの使者が中国へ行くことが出来ず、朝貢がとどこおってしまいます。
 '''倭王武の上奏文'''(抜粋) (『宋書』倭国伝)
:興死して弟武立つ。自ら(みずから)使持節都督(しじせつととく)倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)・七国諸軍事安東(あんとう)大将軍倭国王と称す。
:順(じゅん)帝の昇明(しょうめい)二年、使を遣して表を上りて(たてまつりて)曰く、「報国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、藩を外(そと)に作す(なす)。昔より祖禰(そでい)躬ら(みずから)甲冑を擐き(つらぬき)、山川を跋渉(ばっしょう)して、寧処に(いとま)あらず。東は毛人(もうじん)を征すること五十五国、西は衆夷(しゅうい)を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と。
 
::(『宋書』倭国伝、原文は漢文)
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「皇帝から臣下としての地位を受けた我が国は、中国から遠く離れた所を領域としています。
昔から私の祖先は、みずから よろい・かぶとを身につけ、山や川を踏み越え、休む日もなく、東は毛人(もうじん)の国(毛人=おそらく東北地方)55の蝦夷(えみし))55か国を平定し、西は衆夷(しゅうい)の国(衆夷=おそらく九州)66の熊襲(くまそ))66か国を平定しました。さらに海をわたって、海北(かいほく)の(海北 =おそらく朝鮮半島)95か国を平定しました。こうして、中国の威信は、はるか遠くにも及ぶようになりました。
 
::(和訳して抜粋)
私の父は、中国への道をふさぐ高句麗を倒そうとしたのですが、しかし、父は死んでしまい、そのため、そのときは、軍を動かせませんでした。今になって、父の遺志を果たすべく、私たちの国は高句麗と戦いたいと思います。そのため、強敵の高句麗を倒すために、どうか皇帝陛下のおめぐみをいただき、私に高い地位を与えていただけないでしょうか。
 
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もし、この強敵の高句麗を打ち倒せして国難をこえたなら、ますます中国への尊敬を深め、中国への忠誠を変えることはありません。」
 
このような内容が書かれています。この倭王が中国に送った手紙を、一般に、倭王武の上奏文(わおう ぶ の じょうそうぶん)と言います。「上奏」(じょうそう)とは、格下の者が、目上の地位の者に、申し上げることです。
 
なお、最終的に中国の南北朝を統一する国は、「隋」(ずい)という国によって6世紀おわりごろに統一されます。南北朝の次の王朝は、隋(ずい)王朝になります。