「高等学校日本史B/飛鳥の朝廷」の版間の差分

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その国書には「太陽が昇るところの天子が、太陽の没するところの天子に、手紙を送る。おかわりありませんか。・・・」と書かれていた。帝(煬帝)は、この国書を見て不機嫌になり、外
ついつい「立派な聖徳太子と、人殺しの悪人である蘇我一族とは、敵対しているハズだ!」と先入観を抱きがち(いだきがち)が、しかし歴史学的には、そんなイメージの証拠はない。
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また、この6世紀のなかば頃から、ヤマト王権は九州から関東までの広い地域に強力な支配を及ぼし、実質的にヤマト王権が日本を支配する王朝になっていた。現代の日本の歴史学で、古代日本の「朝廷」という場合、この6世紀頃からの日本の中央政治機構のことを意味する。
 
[[File:聖徳太子の系図.svg|thumb|400px|聖徳太子の系図<br />四角で青く塗ったのが天皇。赤字の人物は女性。丸1などの数字は即位した順。]]
 
6世紀なかば、日本では、物部氏と蘇我氏が対立していた。彼らは外国文化の受容の有無についても対立しており、積極的に外国から仏教などの先進文化を取り入れるべきとする蘇我氏(蘇我稲目(そがのいなめ))と、いっぽう、伝統を重んじるべきとする物部氏(物部尾輿(もののべのおこし))とが、対立していた。
 
587年、大臣(おおおみ)の'''蘇我馬子'''(そがの うまこ)が、大連(おおむらじ)の'''物部守屋'''(もののべの もりや)を滅ぼした。592年には、蘇我馬子が'''崇峻天皇'''(すしゅんてんのう)を暗殺した。崇峻天皇の死後、女帝である'''推古天皇'''が即位し、そして推古天皇の甥の'''厩戸王'''(うまやどのおう)(※ 厩戸王は聖徳太子と同一人物?)が摂政(せっしょう)として補佐した。
 
:※ 「厩戸皇子」と書いても正しい。検定教科書の出版社によっては、「厩戸王」ではなく「厩戸皇子」と検定教科書に書いてある出版社もある。
 
:※ 個人的意見: 聖徳太子は、皇太子ではない。(皇太子とは、天皇・皇帝の息子のこと。) 小中学校で習ったように、聖徳太子は推古天皇の甥である。教科書出版社によっては「皇子」ではなく「王」と書いてある理由はおそらく、皇太子との混同を避けたかったからだろう。
 
厩戸王と蘇我馬子は協力関係にあり、603年には'''冠位十二階の制'''を定め、翌604年には'''憲法十七条'''(けんぽうじゅうしちじょう)を定めた。
 
:※ 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したりと、蘇我一族がたびたび暗殺などをしているイメージから、ついつい「立派な聖徳太子と、人殺しの悪人である蘇我一族とは、敵対しているハズだ!」と先入観を抱きがち(いだきがち)が、しかし歴史学的には、そんなイメージの証拠はない。 小中学校までの歴史知識では、ついつい蘇我馬子と聖徳太子の関係を勘違いしやすいので、要注意のこと。また、読者の高校生が将来、子供に歴史教育をする場合も、ここらへん、要注意である。
 
聖徳太子のモデルは厩戸王だろうというのが有力説だが、別人だという説もあり、また聖徳太子は『日本書紀』の編纂時につくられた架空の人物だという説もある。なお、冠位十二階の制や憲法十七条を定めた人が厩戸王であるとは断定できる証拠はないのだが(憲※ 清水書院の教科書でも説明されている)、分かりやすさを重視して、上述のように、あたかも厩戸王と蘇我馬子によって、冠位十二階の制などが定められたかのように説明した。(※ 山川出版社などの教科書でも、あたかも厩戸王が定めたかのように書かれている。)