「高等学校世界史B/東南アジアの植民地化」の版間の差分

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ジャワ島
宣教師ピニョー
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== シンガポールとビルマ ==
イギリスは、中国などとの貿易の必要から、1820年代ごろにシンガポールなどマラッカ半島の港を植民地にした。
 
さらに1820年代からイギリスは(当時はインドのとなりにあった)ビルマを侵略し、3度にわたる'''ビルマ戦争'''(1826〜86年)を起こし、最終的にビルマはやぶれ、ビルマはインド帝国に併合された。
 
*== ベトナム ==
ベトナムでは1860年頃からフランス16世紀以降、北部の鄭(てい)氏と 中南部の阮(げん)氏 政治介入対立してた。
1771年にタイソン党が反乱を起こし、南北両朝とも倒された。
これに対し、阮(げん)氏 である阮福暎(げんふくえい)によるベトナムの統一戦争で、フランス人の宣教師ピニョーが協力をし、フランス本国からの義勇兵が協力した。
 
そして阮福暎は1902年にベトナム全土を統一し、阮朝を建て、国号をベトナム(越南)に定めた。この経緯から、ベトナムはフランスを優遇し、ベトナムにおいて他のヨーロッパ諸国よりもフランスの影響が強くなる。
 
1904年にベトナムは清に朝貢し、冊封(さくほう)を受けた。
 
19世紀なかば(1860年頃)、フランスは阮朝のカトリック宣教師への迫害を理由に、ベトナムに軍事介入を行い、ベトナム南部を割譲させた。
 
その後、劉永福(りゅう えいふく)が黒旗軍を組織して北部で抵抗運動を起こしたが、フランス軍が北部に進出した。
 
すると清朝がベトナムに対する宗主権を主張して派兵し、清仏戦争が起きた。
 
ベトナムの一部はフランスの植民地になってしまったが、しかし清(中国)とフランスがベトナムに対する宗主権を争ったので、1884年に'''清仏戦争'''が起き、清はやぶれて、清はベトナムに対する宗主権を失った。
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フランスは1887年にベトナムとカンボジアをあわせてフランス領インドシナ連邦を結成し、のちにラオスも1899年にこれに編入した。
 
*== ジャワ島 ==
18世紀には、ジャワ島の大半はオランダの支配下になっており、オランダ東インド会社をとおして経営していた。18世紀末にオランダ東インド会社は解散したが、その領土はひきつづきオランダの支配下に置かれた。