「高等学校日本史B/立憲体制の確立」の版間の差分

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超然主義
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'''大日本帝国憲法'''(だいにっぽんていこく けんぽう)は1889年に明治天皇から国民に発布(はっぷ)されます。「発布」とは、法律などを人々に広く知らせる、という意味です。
 
また、憲法の公布と同日に'''皇室典範'''も制定され、皇位の継承などについて定められた。
 
== 憲法の内容 ==
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 '''大日本帝国憲法'''(抜粋)
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=== 帝国議会 ===
憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための総選挙が行われた。つづいて国会である<big>帝国議会</big>(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。(第1回帝国議会)
 
帝国議会の議院(ぎいん)対等の権限をもつ<big>'''衆議院'''</big>(しゅうぎいん)と<big>'''貴族院'''</big>(きぞくいん)との2つの議院からなる<big>二院制</big>(にいんせい)であった。
 
この1890年のときの選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。いっぽうの貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。
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つづいて1889年までにボアソナードの協力のもと、民法・商法・民事訴訟法も制定された。そして1890年に民法も公布されるが、しかし日本の法学者から反対意見が出て(家族制度を破壊するものであると)論争となった('''民法典論争''')。
 
帝国大学(東京大学)の法学者の穂積八束(ほづみ やつか)は「民法いでて、忠孝ほろぶ」(民法出デテ、忠孝亡ブ)と題した論文を書き、ボアソナードの民法を批判した。
 
結果的に議会で民法は修正されて、家族制度について家長(父親)や男性の権限が強いものに変わった。(一夫一妻制が制度化されたことにより、女性の地位は安定し、江戸時代よりかは少しはマシになったものの、あいかわらず女性の地位は低かった。)
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== 初期議会 ==
議会開会前の、憲法発布の翌日に黒田清隆(くろだ きよたか)首相は、政府は政党の意向に左右されてはならないという'''超然主義'''(ちょうぜん しゅぎ)の立場を表明していた。
第一回帝国議会の衆議院総選挙での、政党ごとの議席の割合では、自由民権運動の流れをくむ政党が多くの議席を獲得した。
 
しかし1890年の第1回帝国議会の衆議院総選挙では、立憲改進党や立憲自由党など民権派政党('''民党''')が大勝し、衆議院の過半数の議席を獲得した。(いっぽう、政府師事の派閥は「吏党」(りとう)と呼ばれた。)
 
第1回帝国議会が開かれると、山県有朋内閣は軍備の拡張を主張し、いっぽう民党は政費の削減と民力の休養を主張し、対立した。最終的に山県内閣は予算を成立させた。
 
つづく第2回議会では、松方正義内閣が、民党と対立し、衆議院を解散した。
 
つづく第2回総選挙では、内務大臣である品川弥二郎(しながわ やじろう)が'''選挙干渉'''をおこない、
 
しかし選挙では民党が圧勝した。
 
そして松方内閣は選挙干渉の責任を問われて辞職したので、つぎは第2次伊藤博文内閣が成立した。
 
伊藤内閣では海軍予算について、民党と対立したが、最終的に予算を成立させた。
 
== 条約改正 ==